今回はふと気づいたことをメモに残す。
なお、このことは多くの人はなんとなく気付いていることでもある。
「司法試験の過去問の再検討」で見てきたが、「憲法上の権利の制限に対する合憲性の検討」において用いられる重要な考え方にいわゆる「三段階審査論」がある。
この三段階を簡単に述べれば、①保護範囲、②制約、③正当化となる。
現時点ではこの発想抜きに司法試験の憲法の論文式試験の答案は書くことは難しいと考えられる。
実際のところ、このブログの再検討では②と①を原則論で検討し、③を「『公共の福祉』による例外」として検討した。
そして、この流れに例外はない(政教分離原則違反や平等原則違反は別として)。
以上は、司法試験の再検討の話。
話はここからAML/CFT(マネロン・テロ資金供与対策)に移す。
AML/CFTの前提にはRBA、いわゆる「リスクベース・アプローチ」という発想がある。
このリスクベース・アプローチの対義語はルールベース・アプローチである。
そして、ルールベース・アプローチでは「法令上の基準を前提に、その基準の遵守」が求められる。
これに対して、リスクベース・アプローチでは「自分が直面しているリスクを自ら評価し、そのリスクを一定レベル(ゼロではない)まで下げるための手続の実践」が求められることになる。
このように見ると、リスクベース・アプローチの方が自由に見えるが、リスクベース・アプローチの方がやるべきことが多くなる。
なぜなら、ルールベース・アプローチにおける「法令上の基準」に相応するものを自分たちで考えなければいけないのだから。
このように考えると、「自由ほど高いものはない」といった発想が頭をちらつくが、その点に触れると話が脱線するため、この辺にしておく。
ところで、このRBAは次の三段階によって構成されている。
① リスクの特定
② リスクの評価
③ リスクの低減
そして、RBAの三段階の構成を見て、私にはある疑問が頭に浮かんだ。
「何故、『特定』と『評価』を分けるのか」と。
つまり、「特定」も「評価」を一緒に考えてもいいのではないか、という疑問である。
この点、「特定」と「評価」を分けて考えるのがリスクベース・アプローチである以上、私の判断で勝手に分離しないで検討するわけにはいかない。
そこで、表向きのみ「特定」と「評価」を分けて考えていた。
その一方、最近、私は気付いた。
リスクの「特定」と「評価」の分離は、「憲法上の権利の保障+制限」という原則論と「『公共の福祉』による例外」を分けるのと同じである、と。
つまり、「憲法上の権利の保障+制限」という原則論では、保証や制限の判断が定性的・抽象的になされる。
この点、取材の自由、筆記の自由、婚姻の自由については「十分に尊重に値する」・「尊重に値する」などと述べており、その意味で「保証される」・「保証されない」の二分法によって判断されていないが、これは例外である。
また、①規制される具体的行為の背後にある権利の重要性、②具体的行為の規制によって制限される権利の程度、③規制する目的の正当性、④規制手段の合理性や必要性といった具体的な事情は「『公共の福祉』による例外」で検討される。
その意味で、「『公共の福祉』による例外」における検討は定量的・具体的である。
リスクベース・アプローチでも同様である。
リスクの「特定」においてリスクの有無を二分論的方法で判断する。
そして、リスクの「評価」において特定されたリスクを定量的に検討する。
では、この「特定」と「評価」を分ける理由は何か。
あるいは、「保護範囲」と「制限」と「正当化」を分ける理由はなんだろうか。
私が三段階審査論を眺めていたときは、「証明責任の分配の観点からそうなったのかな」と考えていた。
この発想は原則と例外という形式から見た場合の発想である。
なお、「『公共の福祉』による例外」の検討の際に立法裁量がある場合、「例外の例外」として憲法上の権利の制限に合憲性が推定されると考えることになる。
ただ、この証明責任の発想はリスクベース・アプローチに流用することはできない。
というのも、リスクベース・アプローチでは、「特定」が原則論で「評価」と「低減」が例外にあたるという見方ができるものの、「立場」といったものが観念できないからである。
つまり、原則と例外を分けたことには別の役割がある(可能性がある)ことになる。
そこで、現段階では、原則と例外を分離する役割は「争点の明確化(によるリソースの効果的投入)」ではないかと考えている。
つまり、「リスクを評価する必要のないほどリスクの小さい範囲を特定する作業」がリスクの「特定」ですべきこととなる。
そして、リスクを評価する必要のある範囲が特定されることによって、リスクの評価をその範囲に集中させることができ、リスクベース・アプローチにもかなうことになる。
すると、憲法上の権利の問題で原則と例外を検討する役割もこの点にあるのかもしれない。
制限された行為と憲法上の権利との関連のない(保護範囲にもないか、または、制限にもあたらない)のであれば、具体的な検討をする必要がないのだから。
こう考えることで、原則と例外を分離する意味、あるいは、原則の役割が理解できるような気がする。
つまり、原則論の役割は争点の明確化である、と。
まあ、「争点の明確化」ということは自然にやっていることなので、意識しにくいところがあるのかもしれないが。
以上はただの思い付きに過ぎず、合っている保証はどこにもない。
だが、思いついたことを忘れた場合に備えて、メモとしてこのブログに残しておく。