薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『歎異抄』を読む

歎異抄』という文章がある。

 

ja.wikipedia.org

 

 私はかなり前に『歎異抄』を図書館で借りて読んだ。

 ただ、最近、次の書籍と縁があり、『歎異抄』を再び読むことになった。

 

 

 

 さて、この『歎異抄』の著者は親鸞の弟子の唯円という方であると言われている。

 そして、この『歎異抄』を発見した蓮如この『歎異抄』を浄土真宗の聖教とする旨自らの写本の奥書に書いている。

 

(以下、蓮如の『歎異抄』の写本に書かれている「奥書」を私釈三国志風に意訳したもの、以下の訳はあくまで「意訳」なので注意すること)

 この歎異抄は素晴らしい。

 これを浄土真宗の重要な聖教にするぞ。

 ただ、熱心でない輩に安易に見せてはならん。

(奥書の意訳終了)

 

 この点、蓮如浄土真宗中興の祖と言われている。

 この蓮如が『歎異抄』を聖教の一つに選んだということは、蓮如はこの歎異抄』に浄土真宗の奥義が示されていると考えたのだろう。

 

 

 ところで、この歎異抄には私にとって興味深い表現がたくさんある。

 例えば、第二条の部分である。

 以下、意訳してみる。

 

(以下、『歎異抄』の第二条を私釈三国志風に意訳したもの、強調は私の手による)

 あんたらが東国から必死に京都までやってきたのは、極楽往生を目指すための道や奥義を私から教わりたいからであろう。

 ご苦労なこった。

 しかし、私が念仏以外の往生の道やありがたい教えなどを知っていると考えているなら、それはとんでもない誤解だ

 もし、そういうことが知りたいなら、叡山や奈良にたくさんいるだろう立派なお坊さんに会って教えてもらえ。

 そもそも、私(親鸞)は「ただ念仏して、阿弥陀仏の慈悲を乞うべし」という法然師匠の教えを信じているだけで、他には何も考えてない。

 だから、「現実に、念仏によって浄土へ行けるのか、地獄に落ちるのか」と問われても、私は「知らん」としか言いようがない。

 あと、法然師匠が私を地獄に落とすために念仏の道を勧めたのだとしても、私は後悔する気はない。

 というのも、法然師匠に騙されて後悔するためには、私が有能であって念仏以外の道を選べば私が仏になれるという前提が必要になるところ、煩悩に塗れた私は無能の極みであって、どんな道を選んでも仏になれず地獄に落ちることは確定的に明らかであるからだ

 ただ、阿弥陀仏が庶民を救おうとしていることを信じられるなら、仏陀の説教も絵空事ではないし、善導尊師の説も法然師匠の説も絵空事ではないだろう。

 その意味で、法然師匠から教わったことを信じる私の発言も完全に無意味、ということはないだろう。

 私の信仰とはこんなもんだ。

 あとは、皆さんが自由に決めなされ。

(第二条の意訳終了)

 

 当時は鎌倉時代

 東国から親鸞のいる京都へ行くことは容易なことではない。

 そうやって苦労して京都に来た親鸞を慕う人たちに対して、親鸞は自分の無能性と自らの信仰を告白する

 つくづくすごいよな、と感じる次第である。

 

 

 このように、『歎異抄』には興味深い表現がいくつかある。

 例えば、第9条にはこんなやりとりがある。

 

(以下、『歎異抄』の第9条の一部を私釈三国志風に意訳したもの、強調は私の手による)

唯円「最近、念仏をしていても心が動かない。浄土へ行きたいとも思えない。いったいどうしたことだろう」

親鸞唯円よ、お前もか。私もそうなんだよ

(第9条の一部の意訳終了)

 

 人に念仏を勧めてきた人間が、念仏を唱えても心が動かない、って・・・。

 まあ、「心が動かない(ときめかない)」ということは「煩悩がない」という評価もできないではないので、その意味では仏になれる可能性が高まっていると感じなくはない。

 

 あるいは、第13条に登場する親鸞唯円のやり取りも興味深い。

 

(以下、『歎異抄』の第13条の最初の辺を私釈三国志風に意訳したもの、強調は私の手による)

親鸞唯円よ、お前は私の言葉を信じられるか」

唯円「もちろんでござる」

親鸞「では、お前はこれから私が言うことを実行できるか」

唯円「師匠、心配ご無用にござる」

親鸞「そうか。では、外を出て1000人ぶっ殺してこい。そうすれば、浄土へ行けるぞ」

唯円「師匠、私の負けでござる。1000人どころか1人すら殺すことができそうにありません」

親鸞「だったら、何故『心配ご無用』などといったのだ」

唯円「・・・・・」

親鸞「これで分かっただろう。人間の意志の力などたかが知れている。逆に、環境によっては、1000人ぶっ殺すことだってできるだろう」

(第13条の一部の意訳終了)

 

 結構怖いことを言っている

 ただ、『歎異抄』を見ていると、親鸞聖人が感じている「人間の無能さ・無力さ」がよく示されている感じがする。

 いささか適切性を欠く表現になるが、唯円の『歎異抄』とパウロの『ローマ人への手紙』に似たようなものを感じなくもない

 まあ、感じるだけだが。

 

 

 さて、この『歎異抄』、以前『痩せ我慢の説』を意訳したように、こちらも意訳してみようかと考えている。

 どこまで続けられるかは別として。