薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す7 その4(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成14年度の憲法第1問についてみていく。

 ただ、問題の検討は既に終了したため、改めて過去問を見て考えたことを書いていく。

 

5 「訴訟にするのは常識的に見て大げさだ。よって、その一点をもって合憲にするのが妥当である」について

 今回の検討では結論を合憲にもっていった。

 もちろん、違憲の主張ができないと考えないわけではないが、違憲にするのはどうかという個人的な感想もあるからである。

 

 ところで、本問を見てこんな感想を持った方はいないだろうか。

「このレベルで訴訟だなんて大げさな」と。

 

 本問は「ある市民Aが図書館で雑誌を閲覧しようとしたが、一見問題のない理由により閲覧ができなかった」ことに対して、訴訟に打って出たということである。

 途中経過が書かれていないので、「雑誌の閲覧を断られる際に暴言その他があった」とか「図書館長Cの判断に著しい過誤があった」といった特段の事情のあった事案ではないことになる。

 少なくても、そのような事情を想定し、それを前提に答案を書けば積極ミスである。

 

 とすれば、「この程度で訴訟をやるの?訴訟で勝てるの(違憲・違法になるの)?」という疑問は、訴訟社会の観点から見ない限り当然の疑問になる。

 そして、日本社会は訴訟社会ではないし、それどころか日本教は訴訟自体を忌避しているところもある(これを支えるのがいわゆる「喧嘩両成敗」の思想である)。

 よって、この疑問は日本において当然の疑問と言え、不自然ではない。

 

 もっとも、この疑問が妥当であっても、この妥当性がそのまま「違憲の判断の不当性」を示すとは限らない。

 どうなのだろう。

 

 

 この点、過去問の検討の際に紹介した船橋市図書館の事件で原告となったのは廃棄された図書の著者たちである。

 そして、この事件は著者一人につき3000円の慰謝料(損害)が認定されて終了した。

 3000円という額はあまりに少ない。

 飲み屋で一杯、とか、焼き肉1回クラスで簡単に飛ぶレベルである。

 もちろん、この訴訟が政治的なものを大いに含むという特殊性があるとしても。

 

 そして、本問の原告(訴えた当事者)は著者ではなく読者である。

 しかも、拒否された図書は雑誌である。

 とすれば、判決の事例よりもさらに軽微、と言える。

 そのため、仮に、図書館長Cの措置が違憲・違法だったとしても、Aに「損害」があるのかという疑問さえ浮かびそうである。

 

 

 この点、試験で答案を作るにあたっては、問題文にある通り「憲法上の問題」を論ずる必要がある。

 また、図書館に蔵書された資料を閲覧する自由・権利が憲法上の権利の延長線上にあるので、憲法上の権利にあたりうることも肯定した。

 そのため、図書館長Cの措置とその根拠となった運営規則について違憲判断を行った。

 

 さらに、結論を合憲にした以上、結論自体は差がない。

 また、答案制作上、憲法上の権利を否定したら答案にならない、といった事情もある。

 さらに、本問ではAの目的が書かれておらず、推知報道以外の記事(例えば、その雑誌に連載されているエッセイ)に興味があったといった事情があれば、著しく不当とまでは言えない。

 

 ただ、どうなのだろう。

 まあ、答案から離れたとしても、図書館の公共性と知る権利が憲法上の権利であることを考慮すると、憲法上の権利を全否定することは難しい。

 また、結論は合憲にしたし、そこに至る過程に不自然なところがあるわけではない。

 ならば、どーでもいいこと、と言いうるのだが。

 

6 その他の審査基準の可能性

 本件では違憲審査基準をいわゆる厳格な合理性の基準に決定した。

 もちろん、いわゆる「合理的関連性の基準」でも構わないと考えているが。

 しかし、他に用いることのできる違憲審査基準はないのだろうか。

 

 

 まず、いわゆる「よど号ハイジャック新聞記事抹消事件」で判示されたいわゆる「相当の蓋然性」の基準が考えられる。

 もちろん、この基準を厳格にすれば泉佐野市民会館事件のいわゆる「『明らかな差し迫った危険』を客観的事実に照らして具体的に予見」という基準(平成8年度の過去問参照)になるし、逆に、緩やかにすれば、「おそれ(一般的抽象的危険)の発生の予見」で足りるといった基準にすることも可能である。

 本問は、雑誌といった定期刊行物の閲覧・閲読を制限するものであり、また、部分的制限でもない点で、よど号ハイジャック新聞記事抹消事件と共通する点がみられる。

 ならば、こちら側の基準を用いたほうがよかったのかもしれない。 

 

 

 もう一つは、裁量論を前提とした審査基準の定立である。

 本問の問題となったのは法律ではなく、運営規則であり、図書館長の措置である。

 ならば、「裁量の濫用・逸脱がある場合に違憲という形に落とし込むのもありかもしれない。

 まあ、濫用は目的に、逸脱は手段(相当性)の問題に変換できるので、言葉遊びに過ぎない、とも言いうるが。

 

 

 などなど、色々考えることができる。

 もちろん、基準を打ち立てるにあたってどのような法的評価を行うのか、事実を規範に当てはめる、という点ではどの基準を用いた場合でも変わりはない。

 だから、具体的な審査基準それ自体は重要な問題になるわけではなく、これまた細かい問題ではある

 

7 運営規則の(手段の)相当性再考

 最後に、前回の「手段の相当性」についてもう少し踏み込む。

 前回、この部分で問題点を3点あげた。

 

1、図書館長の裁量に委ねる点

2、雑誌の問題となった記事以外の記事が見られなくなるという弊害

3、閲読と更生の関連性の希薄さ、という問題

 

 この3つをクリアする際の背景に、「図書館内で制約されるにすぎず、他の手段で情報にアクセスすることは自由である」というものがある。

 これこそ、情報の内容を理由としたいわゆる内容規制であっても最も厳しい審査基準を用いなかった根拠でもあり、運営規則を合憲を導いた重要な理由でもある。

 もちろん、図書館の公共性を考慮すればこの背景の適用に限界があるとしても。

 

 

 ただ、ここで気になるのは「更生との関連性」である。

 つまり、前回の検討では、図書館は情報の保存期間が市場で流通する期間よりも長いことを理由に閲覧禁止にしないことを弊害が大きいと述べた。

 また、少年法61条に抵触する記事はそもそもアクセスできないから敢えて閲覧させる必要もないじゃないか、といったことも述べた。

 この発想は少年法61条に忠実ともいえる

 

 もっとも、少年法61条の妥当性に疑義を唱える見解もある。

 さらに、少年法61条には罰則がない

 また、少年法61条に違反して実名報道推知報道された場合、報道された少年は出版社に損害賠償請求できるわけではない。

 これは少年法61条違反を根拠にした賠償が認められないという意味だけではなく、社会的に認められないという意味でもそうである。

 これらのことを前提とすれば、閲覧できないことの不当性を述べることも可能であり、それは本問の措置の違憲性を支える根拠にもなる。

 

 日本教的観点から見れば、ここで述べた2点は共に成立しうる。

 それゆえ、どちらか一方の結論に引っ張れるわけではない。

 実際のところ、どうなのだろう。

 

 

 以上で、本問の検討を終了する。

 次回は、平成16年の過去問をみていく予定である。

 ちなみに、この過去問、私が司法試験の勉強を始めた年(初めて受験した年ではない、その年はこの翌年)だったりする。