薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

司法試験の過去問を見直す4 その9(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 ここまで、司法試験の過去問(論文・憲法・平成15年第1問)について前提知識や関連判例を踏まえてみてきた。

 そして、本件と関連性の深い立法不作為についても前提知識や判例をみてきた。

 

 今回は司法試験などから離れて、改めて私が考えたことなどをメモにする。

 キーワードは「合理性」と「立法義務」である。

 

13 合理性とは

 司法試験を始めてからこれまで、「合理性」とか「合理的関連性」といった言葉の意味がよく分からなかった。

 いや、正直に言えば、今もよくわかってない。

 もちろん、抽象的に見た場合の意味は分かるのだが、具体的に考えるとよくわからないというか。

 それが、「具体的には分からなくても差し支えない」ものであったとしても。

 

 ところで、今回、合理性の判断において「数値」という見えやすいものが出現している。

 ならば、数値をとっかかりに何かが見えるのかもしれない。

 そこで、最高裁判所の判決や補足意見からいろいろ見てみる。

 

 なお、今回用いる再婚禁止期間に関する法令違憲判決のリンク先はこちらである。

 また、便宜上「平成27年判決」という言葉を用いる。

 

平成25年(オ)第1079号・平成27年12月16日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/547/085547_hanrei.pdf

 

 

 まず、判決の理由の部分を見てみる。

 最初に確認すべきは、過去の段階における超過部分の合理性を肯定していることである。

 このことは判決文の次の部分からわかる。

 

(以下、判決文から引用、重要でない部分は適宜中略、また、強調は私の手による)

(前略)その当時は、(中略)父子関係を確定するための医療や科学技術も未発達であった状況の下において、再婚後に前夫の子が生まれる可能性をできるだけ少なくして家庭の不和を避けるという観点や、再婚後に生まれる子の父子関係が争われる事態を減らすことによって、父性の判定を誤り血統に混乱が生ずることを避けるという観点から、再婚禁止期間を厳密に父性の推定が重複することを回避するための期間に限定せず、一定の期間の幅を設けようとしたものであったことがうかがわれる。また、諸外国の法律において10箇月の再婚禁止期間を定める例がみられたという事情も影響している可能性がある。(中略)再婚禁止期間を6箇月と定めたことが不合理であったとはいい難い。このことは,再婚禁止期間の規定が旧民法から現行の民法に引き継がれた後においても同様であり、(後略)

(引用終了)

 

 このことから、数値的計算のような主観が入らないような場合であっても、「合理性=最小限度」となっていないことが分かる。

 数値に限ってそうなるのはおかしいので、当然のこととも言えるが。

 

 

 続いて、千葉勝美最高裁判所裁判官(裁判官出身)の補足意見を見てみる。

 この方の意見は裁判所の考えを知るうえで参考になる部分が多い。

 今回、重要と思われるのはこちらである。

 

(以下、補足意見から引用、重要でない部分は適宜中略、また、強調は私の手による)

 当審は,法律上の不平等状態を生じさせている法令の合憲性審査においては、このように、立法目的の正当性・合理性とその手段の合理的な関連性の有無を審査し、これがいずれも認められる場合には、基本的にはそのまま合憲性を肯定してきている。(中略)国会によって制定された一つの法制度の中における不平等状態であって、当該法制度の制定自体は立法裁量に属し、その範囲は広いため、理論的形式的な意味合いの強い上記の立法目的の正当性・合理性とその手段の合理的関連性の有無を審査する方法を採ることで通常は足りるはずだからである。(中略)再婚禁止期間の措置は、(中略)憲法上の保護に値する婚姻をするについての自由に関する利益を損なうことになり、(中略)、形式的な意味で上記の手段に合理的な関連性さえ肯定できれば足りるとしてよいかは問題であろう。このような場合、立法目的を達成する手段それ自体が実質的に不相当でないかどうか(この手段の採用自体が立法裁量の範囲内といえるかどうか)も更に検討する必要があるといえよう。

(引用終了)

 

 まず、押さえるべきこととして、「合理的関連性」は理論的・形式的な意味合いが強いということ、それよりも慎重(厳格)に見ていく審査していくことを示す言葉として「相当」性と言う言葉があることである。

 いわゆる、合理的関連性と(実質的)相当性という二つの基準があることが確認される。

 あと気になったのが、「合理的関連性」と「合理的な関連性」という言葉が使い分けられていることである

 最高裁判決の理由の部分でも「合理的関連性があるか」という表現ではなく「目的との関連において合理性を有するか」という言葉があり、「関連性における合理性=合理的関連性」と言っていいかは微妙なことがわかる。

 一致している場合もあるだろうが、「完全に同一」と考えると誤ってしまうらしい。

 

 そして、今回の判決では手段の関連性について実質的・具体的な部分に踏み込んで考えて、「合理性を欠く」と判断している。

 その意味でも「合理的(性)」という言葉と「合理的関連性」という言葉を常に同一のものとして考えるのはまずい。

 私がよくわからない原因はこの辺にあるのかもしれない。

 

14 国会・国会議員の立法不作為について

 平成27年の訴訟では立法不作為の違法性の有無が争点になっている。

 そこで、この点にも目を向けてみる。

 

 なお、今回も前回までに見てきた二つの判決も参照する。

 

昭和53年(オ)1240号・昭和60年11月21日最高裁判所第一小法廷判決

(いわゆる「在宅投票制度廃止違憲訴訟」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/654/052654_hanrei.pdf

 

平成13年(行ツ)82号・平成17年9月14日最高裁判所大法廷判決

(いわゆる「在外日本人選挙権剥奪違法確認等請求事件」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/338/052338_hanrei.pdf

 

 そして、それぞれの判決について「昭和60年判決」、「平成17年判決」といった書き方をする。

 

 

 昭和60年判決は「憲法の一義的文言云々」とあるように国会議員の立法に対する責任をほぼ否定するような言い回しであった。

 その後、平成17年判決で風穴があく。

 選挙権と選挙制度に関連する問題では二つの判決は似ている。

 では、何が違ったのだろう。

 もちろん、「制度か権利か」という点で違うのは間違いない。

 ただ、もっと別の違いがあるように見える。

 

 その違いは何か。

 いささか妄想めいたことを言うならば、裁判官集団(機能体兼共同体)の「お前ら(国会議員)、我が国は民主主義国家としての憲法を持っているのだから、もっと民主主義国家が持つべき選挙制度を作れ」という意識ではないか、と思われる。

 平成17年判決では以前紹介した福田裁判官(行政官出身)が補足意見を書いている。

 一部紹介する。

 

(以下、平成17年判決の福田裁判官の補足意見から引用)

 国会は、平等、自由、定時のいずれの側面においても、国民の選挙権を剥奪し制限する裁量をほとんど有していない。国民の選挙権の剥奪又は制限は、国権の最高機関性はもとより、国会及び国会議員の存在自体の正当性の根拠を失わしめるのである。国民主権は、我が国憲法の基本理念であり、我が国が代表民主主義体制の国であることを忘れてはならない。

 在外国民が本国の政治や国の在り方によってその安寧に大きく影響を受けることは、経験的にも随所で証明されている。

 代表民主主義体制の国であるはずの我が国が、住所が国外にあるという理由で、一般的な形で国民の選挙権を制限できるという考えは、もう止めにした方が良いというのが私の感想である。

(引用終了)

 

 せっかくなので私釈三国志風に意訳してみよう。

 

(以下、意訳)

 国会は「自由・平等・定時による選挙」があるから権力と権威があるんだ。

 だから、国会は国民の自由な選挙・平等な選挙・定時による選挙を制限する裁量などありゃしない。

 そのような制限は国会の権威を貶めるだけだ。

 国会議員どもよ、我が国が日本国憲法を採用したこと、議会制民主主義のシステムを採用したことを忘れるな。

 企業の職務や(公務員の)公務によって外国に行った日本人が日本の政治的判断によって安寧が急変することはパールハーバー以後のアメリカ在住の日本人たちを見れば枚挙にいとまがない。

「外国にいるんだから選挙権を与える必要ない」という単純な発想はもうやめようぜ。

(意訳終了)

 

 福田裁判官は選挙訴訟においても国会に対して批判的な主張を展開していた。

 選挙訴訟における合議体の意見の変化を見ると、福田裁判官のこの意見が全体に波及したようにも見える。

 どうなのだろう。

 

 

 もう1点。

 一連の訴訟を見ていて、「国会議員が技術・社会の進化に追いついていけてない。その劣化が裁判所の積極性を生んだのではないか」と仮説が頭に浮かんだ。

 これは選挙訴訟もあわせて考えると、よりはっきり感じることである。

 熊本地裁ハンセン病の判決(平成13年)と今回の再婚禁止期間の違憲判決、両者の構造を考えると「政府・与党(国会議員)が医学や社会の発展についていけていないのではないか」という疑問を持つことができる。

 もちろん、これは「国民がそのような人間を選挙で国会を送り込んでいる」という評価に転化するわけだが。

 

 正直、よく分からない。

「(他に優先順位がある関係ため、)国民の多数派は医学の進歩に社会をあわせることに積極的に賛成とまではいかない」という(無意識的)判断の結果なのか。

 あるいは、どこかにミスマッチが起きているのか。

 仮に、前者の判断があるとしても、それ自体非難する気はなれない。

 しょうがない面があることは当然なので。

 

 

 ところで、昭和60年判決について千葉裁判官は平成27年判決において次のように述べている。

 

(以下、補足意見引用、私の注がある、また、強調は私の手による)

 この判示(私による注、昭和60年判決のこと)は、国会議員の行為が国家賠償法上の違法となり得るすべての場合につき一般論を展開したものではなく、違法となり得る場合は極めて限定的にとらえるべきであるという見解を強調する趣旨で、当然にあるいは即時違法となるような典型的なしかも極端な場合を示したものである。したがって、この判示は、国会議員の立法行為につき、これ以外はおよそ違法とはならないとまでいったわけではなく、違法となるすべての場合に言及したものではないと解するべきである。

(引用終了)

 

 いわゆる「『憲法の一義的文言』云々は例示に過ぎない」というものである。

 もちろん、裁判所が後付けでそのように述べるのは構わない。

 しかし、最高裁判所の規範は、自然科学において用いられる規範(公式・原理)に比べてずいぶん軽いな」とは思う(個人的な感想に過ぎない)。

「そのように考えていただいて差し支えない」・「所詮、判決の規範や法律は道具であって、自然科学の法則・公式ほどの普遍性はない」と言われればそれまで、私の方が不当だというのであればそれで構わないのだが(私もそう思うし)。

 その意味では、私の方が盲目的予定調和説にとらわれているのかもしれない。

 

 

 さらに、本件訴訟では山浦裁判官が立法不作為を違法とする反対意見を述べていた

 そして、反対意見のロジックを見ると、まさに、平成17年判決の判決と同様である。

 国会(国会議員)に対する遠慮がない、というか。

 

15 政策形成訴訟について

 最後に、こういう訴訟(立法不作為に基づく国賠訴訟)を裁判所でやるのはどうなのだろう。

 この点、政治的に考えれば使えるものは何でも使うべきという発想があるわけだから、その点から「ダメだ」ということはできない。

 また、このような訴訟によって裁判所と政府・与党のパワーバランスを維持・変更することができるなら、立憲主義的の維持・尊重の観点から積極的に利用するのもありだろう。

 しかし、憲法学の基本書で「裁判所は法原理部門で云々」という言葉を見て、その点から政策形成訴訟を見ると、違和感がある。

 目的外利用、つまり、濫用ではないの?と。

 

 福田裁判官はこの辺について平成17年判決で次のように述べている。

 

(以下、平成17年の判決から補足意見の部分を引用、強調は私の手による)

 在外国民の選挙権が剥奪され、又は制限されている場合に、それが違憲であることが明らかであるとしても、国家賠償を認めることは適当でないという泉裁判官の意見は、一面においてもっともな内容を含んでおり、共感を覚えるところも多い。特に、代表民主制を基本とする民主主義国家においては、国民の選挙権は国民主権の中で最も中核を成す権利であり、いやしくも国が賠償金さえ払えば、国会及び国会議員は国民の選挙権を剥奪又は制限し続けることができるといった誤解を抱くといったような事態になることは絶対に回避すべきであるという私の考えからすれば、選挙権の剥奪又は制限は本来的には金銭賠償になじまない点があることには同感である。

 しかし、そのような感想にもかかわらず、私が法廷意見に賛成するのは主として次の2点にある。

 第1は、在外国民の選挙権の剥奪又は制限が憲法に違反するという判決で被益するのは、現在も国外に居住し、又は滞在する人々であり、選挙後帰国してしまった人々に対しては、心情的満足感を除けば、金銭賠償しか救済の途がないという事実である。上告人の中には、このような人が現に存在するのであり、やはりそのような人々のことも考えて金銭賠償による救済を行わざるを得ない。

  第2は、-この点は第1の点と等しく、又はより重要であるが-国会又は国会議員が作為又は不作為により国民の選挙権の行使を妨げたことについて支払われる賠償金は、結局のところ、国民の税金から支払われるという事実である。代表民主制の根幹を成す選挙権の行使が国会又は国会議員の行為によって妨げられると、その償いに国民の税金が使われるということを国民に広く知らしめる点で、賠償金の支払は、額の多寡にかかわらず、大きな意味を持つというべきである。

(引用終了)

 

 こちらも私釈三国志風に意訳しようか。

 

(以下、意訳)

 泉裁判官の「違憲であっても国家賠償を認めるべきではない」という言い分はもっともだし、私もよくわかる。

 これを逆手にとって、国会議員らに「金さえ払えば選挙権を奪ってよい」と思われたらたまったものではない。

 ただ、次の二点を考慮することで私は賠償を認める見解に立つ。

 まず、現在、外国にいる人たちは法改正でなんとかなる。

 しかし、過去外国にいて今日本に戻ってきた人たちに対する救済の手段は「心情的な満足感」を除けば「金で償う」しかない。

 次に、賠償の原資は「血税」である。

「国会議員の不始末は選挙でそれらを選んだ国民が尻拭いさせる」、このようにしてキチンとけじめを取らせて知らしめる意味で、国家賠償を認めることに意味がある。

(引用終了)

 

 福田裁判官の言い分はもっともである。

 私自身の疑問は私が盲目的予定調和説にとらわれている証拠なのかもしれない。

 そのこともわかっているので、このような訴訟に反対したいとは全く思わないのだが。

 

 

 以上、過去問・関連判例その他についてみてきた。

 この辺で筆をおく。

 

 しかし、今回の過去問は憲法論・法律的な意味を超えて色々と認識するきっかけになった。

 その意味でこのシリーズを続けた価値はあったと考えている。

 

 次回は、平成12年の憲法第1問についてみてみようと考えている。