今回はこのシリーズの続き。
前回から話題が「立法不作為」に変わった。
そして、立法不作為を持ち出す必要性(背景)についてみてきた。
今回はその続きである。
9 立法不作為が違憲になる場合
被害者救済のために立法不作為を持ち出す必要性がある点は確認した。
しかし、立法不作為がそもそも違憲にならないのであれば、この手段を採ることができない。
そこで、立法不作為が違憲になるための要件が問題となる。
この点、次の3点を考慮すると、立法不作為を含む立法行為が違憲になることはないようにも見える。
① 憲法41条では国会を「唯一の立法機関」と規定しているので、この条文から国会には法律の制定に関する広い裁量が認められる
② 憲法51条では国会議員の免責特権(議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない)を定めているところ、立法不作為について違憲と判断することは院外での(裁判所による)責任を問うことになってしまって51条に抵触する
③ 権力分立の観点から考えれば、裁判所が立法行為の判断に積極的に関わることは控えることが求められる(司法消極主義)
しかし、③の司法消極主義は態度の問題に過ぎないのであって、例外的な場合には司法判断をしてもいいことになるから、これは理由にならない。
また、①の裁量についても、国会の立法権の裁量の逸脱・濫用に対しては司法判断が可能であるから、これも理由にならない。
さらに、②に議員の免責特権ついても、確かに、立法不作為のような立法行為に対する国家賠償責任を認められば国会議員に対する責任を事実上肯定するようなものであるが、憲法51条の「責任」は議員の法的責任であって政治的責任は除外されること、賠償責任を負うのは議員ではなくて国であることを考慮すれば、国家賠償責任を認めたところで議員の法的責任を問うことにならない、と言える。
以上より、例外的であるとしても立法不作為について一切責任を問えない、ということはないと考えることになる。
次に、立法不作為の要件が問題になる。
不作為に対する法的責任を問う以上、憲法上の立法義務がなければならない。
例えば、憲法が選挙権を「権利」として保障したのであれば、選挙権を具体化するための立法義務があると言える。
あるいは、生存権をプログラム規定と考えるのでなければ、生存権を具体化するための立法義務(例えば、生活保護法の制定)があることになる。
なお、最高裁判所はプログラム規定と考えているので、このような義務はないと考えていることになるが。
また、立法義務を肯定するならば、過去の段階では公共の利益のために選挙権を制限しなければならなかった事情があったとしても、その後の社会変化によってそのような制限事由がなくなった場合には、法律を適切に改正して選挙権を具体的に保障するような義務が国会にあることになる。
とはいえ、社会変化に即応するとしても限界があるし、国会の立法裁量には法律制定のタイミングに関する裁量もある。
そこで、社会変化があってから相当期間が経過していることが要件に加わることになる。
この2点が用いられているケースとして選挙訴訟がある。
選挙訴訟で使われている言い回しを確認しよう。
令和2年(行ツ)28号選挙無効請求事件
令和2年11月18日最高裁判所大法廷判決
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/842/089842_hanrei.pdf
(以下、上記判決文の該当部分を引用、同趣旨のことは繰り返し利用されている、なお、強調と中略は私の手による)
憲法は、選挙権の内容の平等、換言すれば、議員の選出における各選挙人の投票の有する影響力の平等、すなわち投票価値の平等を要求していると解される。(中略)
社会的、経済的変化の激しい時代にあって不断に生ずる人口変動の結果、上記の仕組みの下で投票価値の著しい不平等状態が生じ、かつ、それが相当期間継続しているにもかかわらずこれを是正する措置を講じないことが、国会の裁量権の限界を超えると判断される場合には、当該定数配分規定が憲法に違反するに至るものと解するのが相当である
(引用終了)
これは選挙区割によって生じる投票価値の不平等に関する最高裁判所の憲法判断である。
立法不作為そのものではないが、「社会変化によって投票価値の不平等(不均衡)が拡大したのに、国会がそれを放置して従前の法律を用いた」という意味では立法不作為と似たものがある。
そして、最高裁判所は、「投票価値の平等を考慮した立法義務(判決文だと『要求』)」を認め、「社会変化に伴う不均衡(不平等)の拡大」と「相当期間の経過」がある場合に違憲となると考えている。
立法不作為と発想が類似している。
なお、国会の行為を裁判所が違憲と判断できるか、という問題が一応あるが、これは問題なく肯定できる。
なぜなら、81条が最高裁判所の違憲審査権を規定しているところ、国会の法律制定に関する決定を「処分」に準じるものとして考えれば、立法不作為も「処分」に準じるものと考えることができるからである。
もっとも、立法不作為の問題が訴訟で用いられるのは国家賠償法1条1項の「違法」の要件である。
そこで、以下、国家賠償法1条1項の「違法」の要件に話を移す。
なお、裁判所の憲法判断回避のルールにおいて、裁判所が(国家賠償法上)「違法」と評価できれば十分な場合、「違法」である旨の判断をして「違憲」である旨の判断をしないのが原則である。
そして、立法不作為においても「賠償による被害者救済」の観点を考慮すれば、「違法」と評価すれば足り、「違憲」と判断する必要はない。
ならば、ここまでの憲法議論は必要なのか、国家賠償法の「違法」の解釈を直接行えば十分ではないのか、という疑問はなくはない。
ただ、「違憲ならば当然違法である」ということは言えるので、憲法解釈が無駄になるわけではない。
また、国家賠償法の法解釈においても憲法を参照することはあるので、憲法を排除しなければならないわけでもない。
よって、憲法と立法不作為の関係を論じる価値はある、と考えるのだろう。
以上、立法不作為と憲法についてつらつらまとめたが、規定の分量(2000文字)を超えてしまった。
そこで、ここから先は次回へ。