薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す2 2

 今回のブログは前回の続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 前回は政教分離の原則論まで書いた。

 ここからは「どこまで例外を許すか、その例外どうやって正当化するか」について話す。

 過去問を解く上で必要な知識を掲載している。

 

 それから、最近の政教分離に関する最高裁判例を見ると、いわゆる「目的効果基準」とは異なる基準を使っているようである。

 しかし、私が習った頃はまだこれらの新しい判決が出ていなかったこと、平成4年の時点でも新しい判例が出ていなかったこと、事実を拾って評価する際には「目的効果基準」は使いやすいことから、目的効果基準について確認し、そして、この基準に従って過去問を検討する。

(試験対策としてこの文章を見る際にはその点注意されたい、なお、この点については最後で感想を述べる)

 

6 政教分離原則の例外の必要性

 現実問題として、政府(政治権力)と宗教団体(宗教権力)を完全に分離するのは無理である。

 分離すると不都合になる点は山ほどある。

 

 この点について、津地鎮祭訴訟の最高裁判決(昭和46(行ツ)69・最高裁判所大法廷判決・昭和52年7月13日・民集第31巻4号533頁)が詳しく述べているのでそこから引用しよう。

 

地鎮祭・上告審判決(裁判所のウェブサイトから)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/777/054777_hanrei.pdf

 

(以下、判決文引用)

 ところが、宗教は、信仰という個人の内心的な事象としての側面を有するにとどまらず、同時に極めて多方面にわたる外部的な社会事象としての側面を伴うのが常であつて、この側面においては、教育、福祉、文化、民俗風習など広汎な場面で社会生活と接触することになり、そのことからくる当然の帰結として、国家が、社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するにあたつて、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れえないこととなる。したがつて、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れないのであつて、例えば、特定宗教と関係のある私立学校に対し一般の私立学校と同様な助成をしたり、文化財である神社、寺院の建築物や仏像等の維持保存のため国が宗教団体に補助金を支出したりすることも疑問とされるに至り、それが許されないということになれば、そこには、宗教との関係があることによる不利益な取扱い、すなわち宗教による差別が生ずることになりかねず、また例えば、刑務所等における教誨活動も、それがなんらかの宗教的色彩を帯びる限り一切許されないということになれば、かえつて受刑者の信教の自由は著しく制約される結果を招くことにもなりかねないのである。こそして、国家が社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するに当たって、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れることはできないから、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。さらにまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない。

(引用終了)

 

 最高裁は具体例として、私学助成・宗教団体の管理する文化財に対する補助金支出・刑務所における教誨活動を挙げている。

 これを見ただけでも、現実において考えた範囲でも厄介な問題は存在する。

  よって、正当化する法的根拠はさておき、例外が必要なのは明白である。

 

7 例外を正当化する根拠・制度的保障

 例外が必要であることそれ自体は既に述べたとおりである。

 しかし、「例外が必要だから(直ちに)修正します」と述べるだけでは、法的解釈を伴った文章ではない。

 それはただの評論文である。

 よって、それを正当化する法的な根拠(ロジック)が必要になる。

 表現の自由による制限が「公共の福祉」によって正当化されるように、政教分離原則を修正するにも法的根拠・法的解釈作業が必要なのである。

 

 この点、最高裁判所は「制度的保障」というロジックを持ち出した。

 これを簡単に言うと、「政教分離は制度に過ぎない(から、憲法は人権のように厳格に考えなくてもよい)」である。

 

 どういうことか。

 政治権力が特定の宗教団体が結託することで、権力による宗教弾圧が発生しやすくなり、その結果、国民の信仰の自由という憲法上の権利が害される(そして、それに触発された国民の反発により共同体はガタガタになる)。

 だから、政治権力と宗教団体を分離させる「制度」を設けることで国民の信仰の自由を守る。

 これが政教分離である。

 

 このように見た場合、政教分離は手段で目的は信教の自由の確保ということになる。 

 よって、政治権力と宗教団体がかかわったとしても、その結果、国民の信仰の自由が害されないのであれば、政教分離原則の趣旨・目的は害されない。

 ならば、国民の信仰の自由が害されないレベルの(政府・自治体と宗教団体の)関わり合いはオッケーではないか。

 これが例外を許容するロジックである。

 

 このように考えてもよい(許容される)理由はもう1点ある。

 政府が特定の宗教団体と関与すれば、その関与の過程・結果において、国民が自ら信仰しない宗教の儀式への参加が強制されるということがありうる(現実にそんな事態が生じれば大問題になる、その点を考慮すれば、具体化することはほとんどない)。

 その場面は個人の信仰の自由が害される状況にあたるので、まさに政教分離が要請される場面になる。

 しかし、憲法20条2項は「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 」と定めている。

 だから、そのようなケースは政教分離に反しなくても20条2項で個人の信教の自由を保護できる。

 だから、政教分離原則それ自体は厳格に考えなくても問題ない、と。

 

 なお、制度的保障を用いることについては異論がある。

 ただ、それについては割愛する。

 

8 修正の程度

 ただ、上の話は「例外が許される」と言っただけである。

 どのレベルまで許されるか、その程度は決まらない。

「『公共の福祉』によって表現の自由は制約できますよ。」と言っただけで、どのレベルまで制約が正当化されるかは一義的に明らかではないのと同様である。

 そこは、憲法の条文・憲法制定の経緯・その背景事情(立法事実)から推測するしかない。

 ただ、それらを真面目に語りだすとややこしくなるので、原則論重視の考えと最高裁の考えの2つを紹介する。

 

 まず、原則論を重視した場合、厳格に考えて例外を狭く考えることになる。

 その場合に用いられる基準として、「レモン・テスト」と呼ばれている基準がある。

 これはアメリカの判例で用いられた基準であり、判例でも反対意見の中で言及されていた。

 これは、次の3条件を全部クリアして合憲という厳しい基準である。

 

① 政府の行為の目的が適法かつ世俗的目的を有すること

② 政府の行為の主たる効果が宗教を助長または抑制するものではないこと

③ 政府の行為が宗教との過度の関わり合いをもたらすものではないこと

 

 つまり、目的・効果・関係の総ての点をクリアして初めて合憲になるという基準である。

 

 しかし、最高裁はこの基準は採用していない。

 私見だが、最高裁はこれほど厳しい基準を採用できないのではないかと思う。

 

 最高裁は次のように述べている。

 

(以下、判例から引用、ただ、余計な部分は私の判断で「中略」を入れる)

 その解釈の指導原理となる政教分離原則は、(中略)宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。
(中略)憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、(中略)当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。そして、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。

 憲法八九条が禁止している公金その他の公の財産を宗教上の組織又は団体の使用、便益又は維持のために支出すること又はその利用に供することというのも、前記の政教分離原則の意義に照らして、公金支出行為等における国家と宗教とのかかわり合いが前記の相当とされる限度を超えるものをいうものと解すべきであり、これに該当するかどうかを検討するに当たっては、前記と同様の基準によって判断しなければならない。

 (引用終了)

 

 簡単に言えば、最高裁政教分離原則に反する場合を次の場合としている。

 そして、この基準は「目的効果基準」と呼ばれている。

 重要な部分をピックアップすれば次のとおり。

 

①当該行為の目的が宗教的意義を持ち、②その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為は違憲政教分離原則違反)

 

 目的効果基準に書いた①と②は両方満たした場合に違憲になると考えられる。

 だから、レモンテストと比較するなら次のようになる。

 

 レモンテストは「目的クリア、かつ、効果クリア、かつ、関与クリア」で合憲。

 最高裁は「目的クリア、または、効果クリア」で合憲。

 

 見ればわかる通り、最高裁の基準の方が緩い。

 そして、文言だけを見ると、最高裁の見解は「政府の主観的意図が世俗的ならば、結果としてどんな効果が発生しても合憲になりうるので、例外が広すぎないか」という批判が成立する。

 

 ただ、それに対しては最高裁自身が歯止めをかけている。

 目的の認定の際は、「社会通念に照らして、客観的に判断しなければならない」と。

 つまり、政府・自治体がいくら「今回の目的は世俗的な目的なんです」と述べたところで、社会通念という経験則と他の客観的事実から「自治体側の発言は見かけだけである」、「自治体側の発言自体は嘘はないが、言っていない別の意図も付加されている」と判断すれば、「世俗的目的とは認定されない」ということである。

 言い換えれば、「効果が大ければ、目的が世俗的だとは認定されにくい」ということにもなる。

 これは、譬えれば、刃渡り15センチのナイフを被害者の胸に向かって思いっきり突き刺し、それによって被害者を失血死させた男が「私は被害者を殺す意図はなかったんです。」と発言したところで、他の客観的事実からその男に「殺す意図あり」と判断されるようなものである。

 

 そう考えると、最高裁が採用した目的効果基準はレモン・テストほどではないにせよ「それほど広すぎる基準でもなくね?」とも思える。

(もっとも、この点についての私の意見は最後で述べる、今は前提知識の確認なので、この程度の説明でとどめる)。

 

9 判例の下した事実の評価

 レモン・テストを使うにせよ、目的効果基準を使うにせよ、最高裁がどんな事実に対してどんな評価・判断を下したかを知っておくことは重要である。

「合格レベルの答案を書く」という目的ならば、必須と言ってもよい。

 特に、目的効果基準の基準を用いる場合、「このような事情を考慮せよ」とは書いてあるが、「どう評価せよ」とまでは明記されていない。

 ならば、最高裁が具体的にした評価を直接見る必要がある。

 

 政教分離に関する判例はたくさんあるが、過去問が平成4年であることを考慮し、今まであげた二つの判例(津地鎮祭訴訟と愛媛玉ぐし料訴訟)をあげる。

 他にも著名な判例はあるが、とりあえずこの2つがあれば過去問を解くための基礎事情は得られるからである。

 

 それぞれの事件で最高裁がピックアップした事情とそれに対する評価は次のとおりである。

 本当は判決文を直接引用したいのだが、整理する必要があること、分量が多いことを考慮し、まとめを掲載する(ただ、判決文の一部を直接引っ張っている)。

 

地鎮祭訴訟のケース

・判決事実関係

① 本件起工式の意図は「建物の建築の着工にあたり、土地の平安堅固、工事の無事安全を祈願する儀式として行われたこと」にあった。

② 主宰した神職自身も宗教的信仰心に基づいてこれを執行した

③ 方式は、「専門の宗教家である神職が、所定の服装で、神社神道固有の祭式に則り、一定の祭場を設け一定の祭具を使用して行つた」

④ 今回の儀式の方式は、国民一般の間にすでに長年月にわたり広く行われてきた方式の範囲の中にあった

⑤ 建築主の意図は、工事の円滑な進行をはかるため工事関係者の要請に応じ建築着工に際しての慣習化した社会的儀礼を行うところにあった。

⑥ 主催者の津市の市町の関係者も⑤と同様の認識であった。

・社会事実関係

⑦ 現代において、一般人の感覚で考えた場合、地鎮祭等として行われる起工式は建築着工に際しての慣習化した社会的儀礼として、世俗的な行事と評価しているものと考えられる(ただし、それが長年月にわたつて広く行われてきた方式の範囲を出た場合はこの限りではない)

⑧ わが国では宗教的雑居性が認められ、かつ、国民の宗教的関心もそれほど高くない。

⑨ 神社神道自体については、祭祀儀礼に専念し、他の宗教にみられる積極的な布教・伝道のような対外活動がほとんど行われることがないという特色がある。

・事実の評価

 ①・②・③より関与の程度はゼロではない(関係についてクリアできるか微妙)。

 ⑦の背景事情と④の事情に照らせば、一般人は今回の起工式を世俗的行事と評価している。

 ⑤より建築主・市長などの関係者の目的は世俗的であった(目的の点クリア)。

 ⑧の状況と⑨の性格を考慮すれば、本件起工式によって、参列者と一般人の宗教的関心を特に高めることとなるものとは考えられないので、これにより神道を援助、助長、促進するような効果をもたらすことになるものとも認められない(効果の点クリア)。

 

 ということで、津地鎮祭のケースでは謝礼の支払等の公金支出が政教分離に反しない旨判断した。

 ちなみに、津地鎮祭訴訟で争われた公金支出の額は約8000円である。

 過去問の支出額が「100万円」であることとの比較になるだろう。

 

 他方、愛媛玉ぐし料訴訟の方はどうか。

 同じように分析してみる。

 

・愛媛玉ぐし料訴訟のケース

・判決事実関係

① 被上告人らは、宗教法人(宗教団体)に当たる神社らの境内で行った恒例の宗教上の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際して、玉串料、献灯料又は供物料(香典や賽銭としてではない)を奉納するため、何度か県の公金から支出した(支出の総額は約17万円)

② 今回の支出は戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としていた

③ 奉納者(県の関係者)らの意図も社会的儀式に参加するレベルではない

④ 県は今回支出した神社以外の同種の(戦死者)慰霊の儀式に対して公金を支出していない

 ・社会的事実関係

⑤ 神社神道においては、祭祀を行うことがその中心的な宗教上の活動であるとされていること、例大祭及び慰霊大祭は、神道の祭式にのっとって行われる儀式を中心とす
る祭祀であり、各神社の挙行する恒例の祭祀中でも重要な意義を有するものと位置
付けられていること、みたま祭は、同様の儀式を行う祭祀であり、D神社の祭祀中
最も盛大な規模で行われるものである

⑥ 玉串料及び供物料は、例大祭又は慰霊大祭において右のような宗教上の儀式が執り
行われるに際して神前に供えられるものであり、献灯料は、これによりみたま祭において境内に奉納者の名前を記した灯明が掲げられるものである。

⑦ ⑤を考慮すれば、⑤の儀式は各神社が宗教的意義を有すると考えている

⑧ 現代において、一般人は玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは言えない(地鎮祭の起工式とは事情が違う)。

 

・事実の評価

⑤から⑦の背景事情に①の事実を加えれば、県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持ったと言える。(関係の点はクリアできず)

⑧の背景事情に①と④の事情(神社だけ支出した)を加えて考慮すれば、一般人は「県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こす(効果の点はクリアできず)

②と③と④の事情があれば、目的が世俗的なものとは言えない。(目的の点はクリアできず)

 

ということで、愛媛玉ぐし料訴訟では玉ぐし料等の支出(公金支出)を正当化せず、違憲と判断した。

 

 もちろん、津地鎮祭訴訟・愛媛玉ぐし料訴訟のいずれにも反対意見(多数意見の結論とは反対の結論のもの)が付されている。

 最高裁多数意見はこのように判断したものの、別の評価もありうる、ということである。

 

 前提知識の説明が長くなってしまった。

 しかし、以上が今回の過去問を解くために踏まえるべき知識である。

 以上を前提に、次回から過去問を見てみよう。