薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す2 その1

1 今、司法試験の過去問を改めて見直す

 少し前、旧司法試験・論文試験の過去問を見て思ったことを備忘録としてブログに書いた。

 ブログで文章を書いているうちに、「憲法の過去問を今改めて見直すこと」で何かが見えてくるような気がした。

 そこで、「司法試験の過去問を見直す」というテーマでいくつか過去問を見直してみる。

 

 対象は旧司法試験・論文試験・憲法第1問の過去問だけにする。

 つまり、科目を憲法・分野を人権に限定する。

 また、期間は平成元年度から平成20年度までとする。

 20年分もあれば十分だと思うからである。

 

 それから、別に全部見ることは目標にしない。

 気になったテーマだけを見る。

2 20年間の憲法・第1問のテーマ

 先に、平成元年度から平成20年度までのテーマを確認する。

 なお、これは私が思ったテーマであり、司法試験委員会が考えたテーマと完全に一致するわけではない(ある程度は似通うであろうが)ことは確認しておく。

 

平成元年度 法人と外国人の人権共有主体性

平成2年度 公権力及び私企業に対する平等権の適用範囲

平成3年度 表現の自由に対する内容中立規制

平成4年度 市の神社に対する便宜提供と政教分離

平成5年度 知事の多選禁止と憲法上の権利の関係

平成6年度 土地収用による財産権の補償

平成7年度 放送法による公平要求・中立性要求と表現の自由と知る権利

平成8年度 敵意ある聴衆を原因とする集会の自由の制限の当否

平成9年度 外国人の公務就任権

平成10年度 学校の宗教的中立性(政教分離)と宗教に関する発表の自由

平成11年度 在監者(既決)の発表の自由とその限界

平成12年度 幼稚園設置の自由とその限界

平成13年度 団体の性質と団体の政治献金の限界

平成14年度 図書館で本を閲覧する自由とその自由の限界

平成15年度 男女間の取り扱いの差異と平等原則

平成16年度 日本版ミーガン法プライバシー権・知る権利

平成17年度 営業の自由・飲酒の自由とそれらの自由の限界

平成18年度 放送におけるコマーシャルの自由と時間による制限の可否

平成19年度 外国人の公務就任権

平成20年度 町内会における寄付金の決定と町民の思想良心の自由

 

 今改めて20問を並べてみたが、こう見ると頻出テーマとかあるのだなあ。

 試験勉強当時は、「予備校から得ていた情報」から重要部分・頻出部分等を把握し、その情報をうのみにしていたが、過去問や判例を見ればそういうのは見えるようだ(予備校だって過去問を見ながら重要度を決めているのだから、そうなるのは当然である)。

 

 一番目は表現の自由の内容中立規制(平成3年度)について書いた。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 二番目は政教分離が争点となった(平成4年度)についてみてみたい。

 なお、メモの順番は、①問題の確認、②判例等による前提の確認、③答案の流れ、④改めて今思うことの順番になるが、②の内容がそこそこあるので前回同様何回かに分ける。

 

3 旧司法試験・論文試験・平成4年度・憲法第1問

 過去問の具体的な問題文はこちらである。

 なお、過去問の表記元は私が試験勉強でお世話になった『試験対策講座5_憲法_第2版』(伊藤真著・弘文堂・1999)から持ってきた。

 

(以下、過去問の内容)

 A市は、市営汚水処理場建設について地元住民の理解を得るために、建設予定区にあって、四季の祭りを通じて鎮守様として親しまれ、地元住民多数が氏子になっている神社(宗教法人)境内の社殿に通じる未舗装の参道を2倍に拡張して舗装し、工事費用として100万円を支出した。なお、この神社の社殿に隣接する社務所は、平素から地元住民の集会場としても使用されていた。A市の右の措置について、憲法上の問題点を挙げて論ぜよ。 

(問題文終了)

 

「A市の公金支出が政教分離原則に反しないか」ということを直球で問われている。

 とはいえ、「政教分離原則に反しないか」と書いて、いきなり「政教分離原則」に飛びついてはならない。

 それでは、論点主義の答案になってしまう。

 

 憲法において、政教分離について定めた規定は次の3つである。

 

憲法20条1項後段

 いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

憲法20条3項

 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

憲法89条前段

 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維
持のため、(中略)これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 

 また、この件を見るうえで参考になる判例として次の2つの判例がある。

 

地鎮祭訴訟

昭和46年(行ツ)69号・行政処分取消等・昭和52年7月13日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/189/054189_hanrei.pdf

 

愛媛玉串訴訟

平成4(行ツ)156号・損害賠償代位事件・平成9年4月2日最高裁大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/777/054777_hanrei.pdf

 

 

 過去問の事実関係を単純化して書くと、「A市は(宗教法人の所有する)神社の参道の舗装費用としてA市の財産から100万円を支出した」となる。

 つまり、これを憲法89条前段を見ながら評価を加えると、A市の財産という「公の財産」が神社の舗装という「宗教上の団体」の「使用、便益(中略)のため」に「支出」されたことになり、ストレートに読めば89条前段にバッティングしてしまう。

 それゆえ、ストレートに読めば憲法違反になってしまう。

 現に、園部裁判官(学者出身の最高裁裁判官)は意見(「結論賛成、ただし、理由は多数意見と異なる」という趣旨の裁判官固有の意見のこと)として、次のようなことを述べている。

 

(以下、園部裁判官の意見の部分を引用、なお、一部私による補足説明が入る)

 私は、右のこと(私の注、本件公金支出の相手方は通常の宗教法人であり、宗教施設であること)を前提とした上で、本件におりる公金の支出は、公金の支出の憲法上の制限を定める憲法八九条の規定に違反するものであり、この一点において、違憲と判断すべきものと考える(私の注、だから、政教分離について考慮する必要はない)。 

(引用終了)

 

 だから、ここで書いたストレートに解釈は突飛すぎる解釈ではない。

 しかし、多数意見(判例)はそう考えなかった。

 現実問題として、「一切例外を認めない」というのは無理があるだろう。

 以下、最高裁が「宗教団体に対する公金支出の政教分離による限界」についてどのように考えているか説明する。

 ただ、その前に「そもそも政教分離とは何か」について確認する。

  

4 政教分離原則とは

 そもそも政教分離とは何か。

 それは、「政治と宗教の分離」である。

 

 政教分離は歴史的経緯から生まれたものである。

 世界史を学んだ人なら知っているだろうが、マルティン・ルターなどによる宗教改革後、ヨーロッパではカトリックプロテスタントピューリタンユグノー)とが血みどろの争いを繰り広げることになった。

 例えば、ドイツでは30年戦争があったし、フランスではユグノー戦争があった。

 それらの戦争の結果、ヨーロッパはガタガタになってしまった。

 人々がその状況に(宗教弾圧と宗教弾圧を原因とする戦争等による疲弊)懲りてできたものが「政教分離」である。

 

 さて、政教分離は「政治と宗教の分離」と述べた。

 堅い言葉を使うと次のとおりになる。

 

① 国家(政府・権力)の非宗教性

② 国家(政治権力)の宗教(団体)に対する中立性

 

 この点、政教分離が歴史的経緯を受けてできたものから、その態様は各国によって異なる。

 例えば、イギリスは立憲君主国でありイギリス国教会があるので、①の部分は徹底していない。

 ただ、徹底していないからいけないわけではない。

「懲りた事態を発生させなければ目的は達成できる」ので、あとはどうフォローするのか、という問題になるだけである。

 

 なお、最高裁判所は日本の固有の事情も踏まえて政教分離について次のように述べている。

 

(以下、上記最高裁判例から引用、長いので重要な部分を私の手で強調した)

 一般に、政教分離原則とは、国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味すものとされているところ、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によって異なるものがある。我が国では、大日本帝国憲法に信教の自由を保障する規定(二八条)を設けていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という同条自体の制限を伴っていたばかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた等のこともあって、同憲法の下における信教の自由の保障は不完全なものであることを免れなかった。憲法は、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き右のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至ったのである。元来、我が国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであって、このような宗教事情の下で信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結び付きをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であった。これらの点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるに当たり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである。

(引用終了)

 

 なお、政教分離のリーディングケースにおける津地鎮祭事件では憲法制定経緯も踏まえて細かめに書いている。

 今改めてこの部分を読み直したが、すげーな。

 これを言ったのは最高裁判所である。

 どこぞの左翼の憲法学者ではない。

 それが原則論の部分であるとはいえ、「憲法は、政教分離規定を設けるに当たり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである。」なんて言っているんだ。

 さすがに、ここまでは言っていたとは知らなかったわ。

 

 もちろん、原則(理想)は原則であり、理想でしかない。

 当然、現実という修正・例外が入る。

 そして、「例外・修正をどこまで許すか、どういう論拠で許すのか」が問題になる。

 もちろん、「修正が必要だからと言っても、どんな例外をも許される」とはならない。

 前回述べた通り、「表現の自由は無制限ではない」のは当然として、逆に「『公共の福祉』の名のもと、現実的な必要性が認められればいかなる表現の自由に対する制約も許される。」わけではないと同様である。

 

 それについては文章量が多くなってしまったので、次回。