今回はこのシリーズの続き。
司法試験・二次試験・論文式試験の平成6年度の憲法第1問を検討していく。
9 農地改革事件最高裁判決を読む
前回、平成14年の土地収用法合憲判決に沿って損失補償請求が認められるかを検討した。
もちろん、前回までの検討で切り上げることも十分ありうる。
特に、初見、つまり、本番であれば十分守りの答案になるし、場合によっては、合格答案にもなりうるであろう。
しかし、それでは本問法律の意図は無視され、骨抜きにになってしまう。
そこで、骨抜きにならないような結論に持っていくことができないか。
その点を農地改革事件最高裁判決を見ながら検討する。
まずは、農地改革に関する事実の確認である。
この点はウィキペディアさんを参照しよう。
この農地改革は日本国憲法の下で行われた。
そのため、農地改革によって土地を収用された地主たちは憲法29条3項による補償を求めることになる。
そして、最高裁判所はこの補償請求を棄却した。
昭和25年(オ)98号農地買収に対する不服申立(特別上告)
昭和28年12月23日最高裁判所大法廷判決
(いわゆる「農地改革事件最高裁判決」)
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/042/056042_hanrei.pdf
以下、この判決を見ていく。
まず、憲法29条3項の「正当な補償」については次のように述べている。
(以下、農地改革事件最高裁判決から引用、各文毎に改行、強調は私の手による)
まず憲法二九条三項にいうところの財産権を公共の用に供する場合の正当な補償とは、その当時の経済状態において成立することを考えられる価格に基き、合理的に算出された相当な額をいうのであつて、必しも常にかかる価格と完全に一致することを要するものでないと解するを相当とする。
けだし財産権の内容は、公共の福祉に適合するように法律で定められるのを本質とするから(憲法二九条二項)、公共の福祉を増進し又は維持するため必要ある場合は、財産権の使用収益又は処分の権利にある制限を受けることがあり、また財産権の価格についても特定の制限を受けることがあつて、その自由な取引による価格の成立を認められないこともあるからである。
(引用終了)
ここで、正当な補償が合理的に算出された相当な額であることが示されている。
この点は平成14年の土地収用法合憲判決と同様である。
ただ、相当額で足りるとする根拠は憲法29条2項にあるようである。
つまり、財産権の内容は「公共の福祉」によって定められるところ、「公共の福祉」の内容によって私有財産の処分権や価格が制限を受ける結果、市場価格による処分ができないことがあるのだから、市場価格ではない相当な額の補償で足りる、ということらしい。
判決文ではここから実際になされた補償額が合理的に算出された相当額であることが説明されているが、ここで重要であると考えられるのは栗山茂裁判官の補足意見である。
そこで、長くなるが、この補足意見の「正当な補償」に関する部分を見てみる。
(以下、農地改革事件最高裁判決の補足意見から引用、各行ごとに改行、セッション番号は省略、強調は私の手による)
憲法二九条三項の保障は第一義的には公共の用のためでなければ私有財産権を収用されないことであり、第二義的には収用に対する正当な補償の支払である。
同項の収用は公共の用を目的とするものであるが、収用される私有財産権は同条二項により公共の福祉に適合するように定められている内容のものであつて、三項の正当な補償というのはこの私有財産権の損失の填補である。
そもそも資本主義が高度に発達した現代ことに第一次大戦について第二次大戦を経た後の自由諸国の通念では、私有財産権は資本として、それを持つている者が持つていない多数の者を支配し制圧するから、財産権は公共の福祉に適合するように社会的義務で裏付されているのである。
わが憲法ももとより同じ理念から出ていることは同法二五条、二八条の諸法条規と併せて二九条の条規を見れば明らかである。(中略)
即ちそれぞれの財産権の内容が法律で定められる程度は、その財産権を持つている者の利益を尺度としてでなく、公共の福祉がその尺度となるというのである。
それ故かような内容の私有財産権を収用しうるために法律が正当な補償を定めるに当つては、(中略)、収用を必要とする公共の利益と被収用者の個人の利益とを比較するばかりでなく、被収用財産に内在する社会的義務をも勘案しなければならないことは明である。それ故正当な補償をするために社会的に見て合理的な基準で私有財産権が収用されなかつたであろうと同じ程度の価値評価をするにしても、この価値評価は必しも被収用財産の損失の経済評価ばかりでなく社会価値の評価が伴われなければならないことは明である。
いうまでもなく収用は政府が権利者と自由取引の上でするのではなく、公共の用のために権利者の意思に反して強制買上をするものであるから被収用者が自由取引で得たであろう利益を補償すべき理はない。
(中略)被買収者が正当と思料するような市場価格とか個々の私有財産権の客観的価値に対応する等価値対価とかの補償といつたような自由取引を建前とし且社会価値の評価を無視する私有財産権の偏重は憲法二九条二項三項の趣旨にも副わない解釈と言わなければならない。
(引用終了)
これを見ていくと、憲法29条3項に関する考え方が分かる。
この点、土地収用法合憲判決には「収用の前後を通じて被収用者の有する財産価値を等しくさせるような補償を受けられる」という言い回しがあった。
そして、単純に考えれば、ここで述べる「財産価値」は経済的なものを指すと考えられる。
事実、土地収用法合憲判決においては経済的な価値以外の価値を考慮している様子はない。
しかし、農地改革事件最高裁判決のこの補足意見によると、「財産価値」は経済的価値のみならず社会的価値をも勘案してよいと述べている。
農地改革事件における最高裁判所の判決の背後にはどうやらこのような発想があるらしい。
現在よりも財産権が相対化されているというべきか。
この発想を本問に当てはめてみよう。
まず、収用の目的は公営住宅や公園の建設促進にあり、これらは社会福祉政策の実現を目的としたいわゆる積極目的にあたる。
また、本問の収用の対象となっているのは、「大都市における有休の土地」である。
そして、「大都市」であることから用地の取得が困難であると評価できる。
また、「大都市」の土地を「有休」にしているということは、所有者はその土地を有効に活用することが容易であるにもかかわらず、これを経済的・社会的に活用する意思がないということになり、このような土地の所有は「公共の福祉」(憲法29条2項)の実現を阻害しているとも言いうる。
以上の社会的状況を加えれば、本問で収用される土地の所有者の損害は市場価格よりも低額であると考えることができる。
したがって、正当な補償としての相当な額は市場価格よりも低額で足り、補償を要さない。
以上のあてはめにより、「相当な額」という最高裁判所の基準を用いることができ、さらには、市場価格よりも低い価格による収用を可能となった。
つまり、「正当な補償」が不要となって本問法律の意図が実現できた。
ここで興味深いのは、農地改革という特殊な事情を持ち出すことなく妥当な解決が導けた点である。
農地改革で用いられた解釈であることは間違いないが、この補足意見は資本主義の高度化によって社会権が認められ財産権が相対化されたという事情しか用いられていない。
ならば、農地改革に限らず様々な場所で利用できると言える。
ただ、この判決を過度に一般化すれば、安易な財産収用を認めることなりかねないという懸念はあるだろう。
この懸念はに別の裁判官が意見(反対意見)を示している。
その部分を引用してみよう。
(以下、農地改革事件最高裁判決の井上登裁判官と岩松三郎裁判官の意見から引用、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)
仮りに憲法二九条三項を多数説のように広く解するとしても同条の買収として合憲ならしめる為めには、少なくとも正当価格に達する迄の訴求権を認め、また出訴期間を定めるならば十分余裕ある合理的期間を定めなければならない。
憲法二九条三項について最高裁判所によつて多数説の様な理論が認められ、本法所定の如き方法価格による買収が合憲なりとされるならば、これは向後右憲法法条の名において、立法によつて本法の如き無理な買収が繰り返される道を開くことになる虞がある。
そして同条一項の保障は大なる危殆にひんするであろう私達はこれを憂うのである。(中略)
憲法二九条三項の買収においては、本法の如き頗る疑わしき値額を法定し、且それ以上の訴求を絶対に許さぬものと解し得べき根拠も多分に存在する様な規定の仕方を為し、しかも出訴期間を殆んど実際の役に立たぬ様な短期に限定することは許されないのであつて向後共、同条の名において右様な法律が制定されることがあつてはならないと思うのである。
(引用終了)
(以下、農地改革事件最高裁判決の真野毅裁判官の意見から引用、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)
憲法二九条三項は、「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」と定めている。
ここに「正当な補償」というは、当該財産が具体的・個別的に保有する客観的な価値に、対応する等価値対価を指すものである。
(中略)
増額の訴求が許されることによつて、その支払のためにする国家の支出は、増大するであろうが、正当の補償まで増額すべきことは憲法上の要請であつて、それに対してツベコベいつて拒むべき理由は、毫末も存在しない。
本来かかる場合においては、国家の予算をもつて、すなわち国民全体の負担において、正当の補償を与えることによつて解決すべきものである。
立法においても、また実際の行政においても往々見られるように、たまたまそれに該当する当事者国民だけの犠牲的負担において、事態を解決しようとする態度は、根本的に誤つていると考える。(中略)
要するに、わたくしは、自創法六条またはこれに類似した基準を定めることによつて、私有財産が個別的に有する客観的価値の等価値対価以下で、公用に供されるに至ることを、おそれるのである。
すなわち、憲法二九条にいう正当補償の保障が、無視され、軽視され、蔑視され、色々と潜られていくことを、現在及び将来のために深く憂うるのである。これは、小さな本件を超えて、経済機構の根本に連る基本的人権の大きな問題である。
(引用終了)
(以下、農地改革事件最高裁判決の斎藤悠輔裁判官の反対意見から引用、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)
憲法二九条三項にいわゆる「正当な補償」とは、被用私有財産の客観的な経済価値の補償を意味し、従つて、その財産の自由な取引価格の存する場合には、その被用当時の取引価格によるべきを当然とする。しかるに、農地の取引は、現行法上統制され、これが自由取引価格なるものは法的に存在しないのであるから、被買収農地については、いわゆる自作収益価格を基準とする相当な経済価値によらざるを得ない。この意味において前記措置法六条三項本文の価格は、買収の一応の標準としては、正当なものであるといわなければならない。
(引用終了)
この事件において、意見・反対意見においては、「収用時の取引価格を『正当な補償』の基準」としているものがある。
ならば、本問においても補償を要するという結論を採用すること自体、それほどまずくはなかろう。
もし、本問法律が骨抜きになることを気にするなら、検討後になお書きでフォローすればいい。
例えば、本問法律は0円での収用をも否定していないところ、大都市の土地を遊ばせていたという1点により0円での収用を認め、一切の補償を否定することまで認めるのは全体の利益を過度に重視して財産権不可侵の原則を蹂躙するものであり、妥当ではない、などと。
以上、農地改革事件を見ながら、本問についてさらに検討してみた。
問題自体の検討はこれにて終了とする。
次回は、問題外で考えたことをみて、本問にかかる検討を終えたい。