薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す10 その6(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成20年度の憲法第1問についてみていく。

 なお、今回が最終回である。

 

 今回は、まず、本問結論の方向性を最高裁判所判例から見直す。

 その上で、少し気になったことを記す。

 

10 過去の最高裁判例から見た本問結論の方向性

 最初に、問題文と出題趣旨を確認する。

 

(以下、旧司法試験・二次試験・論文式試験・平成20年度・憲法第1問を引用、強調は私の手による)

 A自治会は 「地縁による団体 」(地方自治法第260条の2の認可を受けて地域住民への利便を提供している団体)であるが,長年,地域環境の向上と緑化の促進を目的とする団体から寄付の要請を受けて,班長らが集金に当たっていたものの,集金に応じる会員は必ずしも多くなかった。そこで,A自治会は,班長らの負担を解消するため,定期総会において,自治会費を年5000円から6000円に増額し,その増額分を前記寄付に充てる決議を行った。この決議に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。

(引用終了)

 

(以下、出題趣旨を引用、強調は私の手による)

 自治会のような団体が寄付に協力するために会員から負担金等を徴収することを総会決議で決めることは会員の思想信条の自由を侵害しないかについて,関連判例を踏まえつつ,自治会の性格,寄付の目的,負担金等の徴収目的,会員の負担の程度等を考慮に入れて,事案に即して論ずることができるかどうかを問うものである。

(引用終了)

 

www.moj.go.jp

 

 この事案を見ればわかるように、本問事案はいわゆる社会福祉法人への寄付が問題となっている。

 つまり、寄付先の団体が政治団体(政党)でもなければ、(別の地方にある)同業のギルドでもない。

 そのため、本問事案はこれまで見てきた最高裁判所判例と関連性が薄いということもできる。

 

 しかし、これらの事件は「団体のよる寄付」と「構成員の寄付しない自由」の調整をしている点で参考になる点が多いと考えられる。

 そこで、これらの事件と本問の対比をしながら、本問の結論の妥当性を再考してみる。

 

 

 まず、本問の自治会(地縁による団体)の性格を考えてみる

 地方自治法260条の2の各項によれば法律上の強制加入団体でないことは明白であり、この点において司法書士会や税理士会とは異なる。

 しかし、同じ地区に複数の自治会があるということは現実的に考え難い。

 このことは地方自治法からも読み取ることができる。

 また、自治会に関与しない場合、その人がその地区の共同体の一員として生活するのは難しいことになると考えられる。

 そこで、「脱退の自由が事実上大きな制約を受けている」と考えるのが自治体の性格として無理がないのかな、と考えられる。

 つまり、自治会の性格については労働組合のようなものと重ねて考えるのが無理のないことであろうかと考えられる。

 

地方自治法第二百六十条の二

 町又は字の区域その他市町村内の一定の区域に住所を有する者の地縁に基づいて形成された団体(以下本条において「地縁による団体」という。)は、地域的な共同活動を円滑に行うため市町村長の認可を受けたときは、その規約に定める目的の範囲内において、権利を有し、義務を負う。
② 前項の認可は、地縁による団体のうち次に掲げる要件に該当するものについて、その団体の代表者が総務省令で定めるところにより行う申請に基づいて行う。
一 その区域の住民相互の連絡、環境の整備、集会施設の維持管理等良好な地域社会の維持及び形成に資する地域的な共同活動を行うことを目的とし、現にその活動を行つていると認められること。
二 その区域が、住民にとつて客観的に明らかなものとして定められていること。
三 その区域に住所を有するすべての個人は、構成員となることができるものとし、その相当数の者が現に構成員となつていること。
四 規約を定めていること。

(中略)

⑥ 第一項の認可は、当該認可を受けた地縁による団体を、公共団体その他の行政組織の一部とすることを意味するものと解釈してはならない。
⑦ 第一項の認可を受けた地縁による団体(以下「認可地縁団体」という。)は、正当な理由がない限り、その区域に住所を有する個人の加入を拒んではならない
⑧ 認可地縁団体は、民主的な運営の下に、自主的に活動するものとし、構成員に対し不当な差別的取扱いをしてはならない
⑨ 認可地縁団体は、特定の政党のために利用してはならない。

 

 

 次に、寄付の目的(目的の合理性)をみていく

 本問事情を見ると、寄付する相手は「地域環境の向上と緑化の促進を目的とする団体」である。

 つまり、寄付の目的は「地域環境の向上と緑化の促進」となるであろう。

 また、地方自治法260条の2第2項第1号に自治会(地縁による団体)の目的として「良好な地域社会の維持及び形成に資する地域的な共同活動を行うこと」を要求している。

 ならば、寄付の目的は自治会の設立・運営目的とほとんど重なる

 とすれば、寄付の目的の合理性を否定することはかなり困難であると考えられる。

 

 

 その上で、決議の目的(手段の合理性)についてみていく

 決議によって徴収手段を班長による集金から強制徴収に切り替えることになる。

 これによって班長の負担は軽減でき、効率的に徴収することができる。

 よって、「寄付」という目的から見た場合、この決議が合理的であることは明白である。

 しかし、「地域環境の向上と緑化の促進」という根本の目的から見た場合、「団体への寄付」がどの程度合理的か(促進しているのか)は不明である

 そのことを裏付けているのが、「長年,地域環境の向上と緑化の促進を目的とする団体から寄付の要請を受けて,班長らが集金に当たっていた」のに対して、「集金に応じる会員は必ずしも多くなかった。」という事情である。

 もし、班長の集金に対して積極的であったのであれば、別の問題点、例えば、「時代の流れによって不在の人間が多くなり、集金に手間がかかりすぎるようになった」という事情の方が重要になるところ、このような事情の記載がないからである。

 つまり、決議の合理性は寄付に対しては合理的だが、自治会設立・運営目的との関係では微妙ということになる。

 

 ただ、国労広島地本事件の最高裁判決から見た場合、この辺の合理性はいずれも、また、あっさりと肯定されるのではないかと考えられる。

 というのも、国労広島地本事件の最高裁判決には次の反対意見があるからである。

 

(以下、国労広島地本事件の天野武一裁判官の反対意見を引用、一部中略、各行毎改行、強調は私の手による)

 原判決の確定するところによれば、本件において、このD資金は、「(中略)D組合員の争議中の生活補償資金や支援団体の活動費に充てる目的で徴収されたもの(中略)」、かつ、その徴収は、「組合員の労働条件の維持改善その他経済的地位の向上」のために直接間接必要のものとはいえない、というのである。

 そしてまた、上告組合がDの政府に対する政策転換闘争を支援することは、国鉄G鉱業所売山反対の争議解決に必要な行為と解することはできるが、(中略)一方が労働者に有利に解決したからといつて、他方についても労働者に有利な解決を直接間接にもたらすだけの関連性があるとは解し難い、というのである。

 そうであれば、原判決が、いわゆるD資金の拠出を組合の目的の範囲外のものと判断したこと、(中略)は、まことに正当であつて、何らの違法はない。

 しかも、原判決は、企業間の労働条件の連動性、人員整理の波及効果などの主張は、一般論としては首肯しうるにとどまり、「本件に関し具体的な蓋然性の存在を証するに足る証拠はない」旨を判示しているのである。

 しかるに、多数意見は、これに対して具体的な根拠を示すことなく、単に「Dの闘争目的から合理的に考えるならば」として、その石炭政策転換闘争と企業整備反対闘争とは決して無関係なものではなく、企業整備反対闘争の帰すうは石炭政策転換闘争の成否にも影響するものであることがうかがわれる旨、独自の推断を施したうえ、組合員には支援資金の納付義務がある、と断定するのであるが、不当というほかはない。

 この場合に、多数意見は、右の結論に至る前提として、「多数決原理に基づく組合活動の実効性と組合員個人の基本的利益の調和という観点から、組合の統制力とその反面としての組合員の協力義務の範囲に合理的な限定を加えることが必要である。」と説く。

 しかし、この一般論が、本件において原審及び第一審の判断を誤りとする右の結論といかなる関連をもつのか、その判文上はなはだ明確を欠き、とうていその見解を維持するに足りないのである。

(引用終了)

 

 つまり、国労広島地本事件では、具体的な関連性を考慮して協力義務を否定した原審を最高裁判所が破棄しているわけである。

 ならば、この判決を下敷きにした場合、本問においても寄付自体の実効性を考慮することなく、合理性が肯定されるのではないかと考えられる。

 

 

 そして、国労広島地本事件において事実上の強制団体であっても近隣団体の支援について協力義務を肯定し、かつ、本問の寄付先が社会福祉法人であって政治団体ではないことに加えて、「地域環境の向上と緑化の促進」という事情はどの思想にも肯定されやすい要素であること、負担額が年間1000円である(月間にして缶コーヒー1本分)ことを考慮すれば、最高裁判所の寄付に関する判例を下敷きにすれば目的は有効、決議は違法ではない、ということになりそうな気もする

 もちろん、平成20年4月3日に最高裁判所(第三小法廷)が類似の事案で違法の判断をした大阪高裁の判決を追認した(上告を棄却した)ため、現状では異なる判断が可能であるし、正直この辺はよくわからないが。

 

 

 以上で本問事情の検討は終わる。

 ここからは本問を見て考えたことを述べていく。

 

11 憲法の私人間効力に関する一般的議論について

 本問において、憲法の人権規定の私人間適用が問題となった。

 原則論を述べれば「憲法の人権規定は私人間に直接適用されない」ということになる。

 つまり、「私人の私的行為はどれだけ犯罪的であろうが憲法違反になることはない」ということになる(罪にあたる場合に法律により国家権力によって刑罰権を行使されるだけ、損害賠償などの義務を負うだけである)。

 このことは、本問の結論が合憲・違憲ではなく、合法・違法となることからも明らかである。

 

 

 ところで、この「私人の行為は憲法違反になることはない」ということは巷でもよく言われている。

 この点、「憲法は法律の親玉(法律と同種のもの)」などと考える人たちに対し、憲法は権力を縛るもので国民を縛るものではない」という立憲主義の大原則を主張する目的があるならば、別に問題ないどころか、積極的に主張すべきとさえ言える。

 しかし、私自身、この「私人の行為は憲法違反にならない」という文言には違和感がある。

 上述の目的がある場合であっても、その実効性を理解しながらも。

 

 確かに、憲法は国民に対して納税などの義務を課している(憲法30条、26条2項、27条)が、納税の義務を怠ること(税金が払えないこと)が憲法30条違反となるわけではない。

 憲法30条は国家権力に対して「国家運営に必要な財産などを集めるために、法律を定めて国民に税金を納めさせるシステムを作れ」と言っているに過ぎない。

 税金を納めなければ、税法その他によって相応の処分を受けるだけである。

 そして、この税金滞納のケースを私人による大量・大規模な宗教弾圧(言論弾圧でも可)などに置き換えれば、「私人の行為は(どんだけ人権規定を蹂躙するようなものであっても)憲法違反になることはない」の出来上がりであり、これが間違いでないことも明白である。

 ここでは、言論弾圧・宗教弾圧に置き換えたが、財産犯や殺人・傷害に置き換えても同じことである(財産権の侵害は憲法29条、生命・身体に関する権利は13条と18条にある)。

 

 しかし、現実では憲法によって授権された国会の制定する法律(刑法その他)により「国家がやれば憲法違反になりうる行為」の一部が制限されており、これを強行すれば罪に問われる。

 また、間接適用説によった場合、私法の一般条項を介して人権規定の趣旨が適用される。

 この状況において、「私人の行為は憲法違反になることはない」と強調することは逆にまずい誤解を与えるのではないか。

「間接的に制限されているのは、憲法に反するからじゃないのか」と。

 それが私の違和感を持つ理由である。

 

 

 この件と関連して気になる論点が、国民の憲法尊重擁護義務に関する論点である。

 憲法99条は憲法尊重擁護義務の名宛人に国民を入れていない。

 そこで、国民はどう考えるべきなのかが問題となる。

 

憲法99条

 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 

 これに関する見解は3つあったと記憶している。

 1つ目は、「国民を名宛人から除外したことに特別な意味がない。ただ、憲法が社会契約である以上、国民は当然に憲法尊重擁護義務を負う」と考えるもの。

 もちろん、憲法・契約は改定を予定している以上、個々の条文に反対することそれ自体に問題はないのは明白であるが。

 2つ目は、「国民を名宛人から除外したことに特別な意味がある。よって、日本国憲法は国民に対して憲法尊重擁護義務を要求しない」というもの。

 憲法99条を反対解釈することで出てくる解釈である。

 そして、3つ目が「国民を名宛人から除外したことに積極的な意味がある。つまり、日本国憲法はドイツのような『戦う民主制』のような憲法忠誠を国民に対して要求しない」というもの。

 

 もちろん、どの見解に立っても権力者が憲法の縛りにかけられることは変わりがない。

 また、どの見解も一長一短であり、どの見解が絶対というものでもない。

 

 この点、従前の私はあまり意識することなく2つ目の見解に立っていた。

 3つ目の見解は積極的であるが、少々無理があるのではないか、と。

 ただ、最近は1つ目の見解に立っている

 というのも、「あまりに当然なものは明文化されない」し、フィクションとはいえ「社会契約説」の発想からすれば、1つ目の見解がもっとも整合的であると考えるからである。

 憲法キリスト教由来であり、かつ、憲法が(社会)契約であれば、「契約は守れ」、つまり「憲法は守れ」というのが当然の前提になるだろう。

 

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 そして、この発想から見た場合、「私人の行為は憲法違反になることはない」という発言に違和感を持つことになる。

 さすがにこれは言い過ぎではないか、と。

 実質的に見れば法律を通じて制約を受けている以上、形式的に過ぎないか、と。

 

 まあ、憲法違反と認定されることがないのは明白であるし、「憲法は国家権力を縛るもの」という部分に反対するわけではない。

 逆に、国民の憲法尊重擁護義務を悪用すれば、それはそれで困ったことになることもある

 なので、違和感があるからといって「やめろ」という気は全くないのだけれども。

 

 

 以上で本問の検討を終える

 なお、「私人間適用それ自体」と「寄付を強制されない自由」については日本教的観点から気になる点があるのだが、それらについては次回以降に言及する予定である。

 また、次回は平成13年度の過去問を見ていく予定である。