薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

司法試験の過去問を見直す9 その10(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成11年度の憲法第1問についてみていく。

 

 前回と前々回は、世田谷事件と堀越事件についてみてきた。

 今回は、本問を見て気になった細かい点についてみていく。

 

25 特別権力関係について

 まず、本問の検討の際にみてきた「特別権力関係」について少し考えたい。

 そして、この「特別権力関係」を考える際に、参照したいのが次の書籍にある文章である。

 

 

 この42ページに非常に興味深いことが書いてある。

 少し長めに引用したい。

 

(以下、上記書籍の42ページから引用、一部中略、各文毎に改行、強調は私の手による)

 憲法上の下で人間は平等であり、一私人としては内閣総理大臣も課長補佐も対等で平等である。

 しかし、一旦公的私的雇傭契約によって組織の一員となった場合、「上司」は指揮命令する権能を与えられ、「部下」はこれに服従する義務を負う。

 ここまでは『法律用語辞典』も『広辞苑』も正しいが、ぬけているのは、

「特別権力関係においては責任は、すべて決定を下し指揮命令した者が負う」という大原則である。

 指揮命令だけして責任は回避するというのは「特別権力関係」の大原則を逸脱した指揮権の濫用になるのだ。

 特別権力関係の法的側面は右のとおりだが、さらにもう一つ、重要な要素として「感情的要素」、すなわち「上司の部下への思いやり」と「部下の上司(又は組織)への忠誠心」という大切なものがある。

(中略)

 すなわち上司の部下に対する感情移入(思いやり)、評価、賞讃、褒章、昇進などの処遇があってこそ、そして「士ハ己ヲ知ル者ノタメニ死ス」という、部下の上司に対する中世、尊敬、自己犠牲が期待できるのだ。

「尊敬と愛情(リスペクト&アフェクション=ハーバード大学の教訓ときいている)」という感情の相互交流のない上司と部下の上下関係は、任期の切れ目が縁の切れ目、とくに嫌いな上司な転勤は部下の祝いごとで、それこそ祝杯をあげ、赤飯を炊いてその人事を寿ぐという騒ぎになる。

(引用終了)

 

 まあ、「そうだよな」ということが一般化されている

 この点、情緒的要素が強い日本教社会の場合、感情的要素が欠落したシステムが長続きするとは考えられない。

 もちろん、感情的要素を嫌う人間が出てくることがありえても。

 また、『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』(リンク先は後述)の288ページでも言及されていたが、感情的な要素、または、人格的な要素が要求されるのは日本だけではない。

 

 

 ところで、私が「特別権力関係」というのを初めて知ったのは2004年、司法試験の勉強を始めてからのこと(私が卒業した大学の学部は法学部ではない)。

 司法試験に合格するために学んだがために、憲法学的な観点から、また、簡略した内容しか教えられていない。

 ただ、次のウィキペディアを見ればわかる通り、上で佐々先生が述べられていた感情的要素・上司の持つ責任については言及されていない。

 この欠落は何を意味するのだろう。

 

 確かに、部下の人権(権利)制約の正当化だけが焦点になっているから、感情的要素や上司側の責任が抜けたという事情はある。

 十分にある

 しかし、感情的要素は法学を舞台とするから抜けてもいいとしても、上司側の責任が抜けてもよいというのはいささかあれである

 そして、この要素が欠落したことが特別権力関係論に大きな欠陥を持たせる羽目になったのではないのか。

 そのような感想が頭に浮かぶ。

 

 次に、このような感想も持った。

 上司側の責任を十分に補完させた特別権力関係論は従前の日本教と親和的だったのではないか、と。

 この点、「日本的儒教」の規範たる「君、君タラズトモ、臣、臣タレ」とは適合的ではないかもしれない。

 しかし、この規範は部下に対する規範に過ぎず、上司の堕落を正当化する規範ではない

 また、特別権力関係論は日本の「事大主義」やいわゆる「包摂モデル」(「人権モデル」と対となる発想)とも親和的に見える。

 この辺は「正直分からない」のだが、日本教日本教社会についての理解を深めたら再検討したいと考えている。

 

 もちろん、21世紀の日本では上司側の責任を身軽にする方向で進んでいる(この辺の話は宮台先生の主張を参照することで理解できる)。

 また、日本には、員数主義・純化の傾向といった作用もある。

 さらには、小室先生が述べた複合アノミーも。

 そのため、現在は上でいう「特別権力関係の大原則を逸脱した指揮権濫用」がよりまかり通りやすくなっているとも言いうる。

 その点を考慮すれば、特別権力関係やこれを含む概念たる「部分社会の法理」を積極的に活用すべきとは到底考えられないのだが。

 

26 結論の妥当性、特に、表現の自由の価値について

 最後に、本問の結論の妥当性を「表現の自由」の価値を踏まえて考えてみたい。

 

 本問の検討において、私は所長の処分を違法とした。

 その背後にあるのは、表現の自由(特に、自己統治の価値)の重要性であり、思想言論の自由市場へのリスペクトである。

 

 ただ、本問や平成18年判決や平成11年の判決(死刑囚の発信不許可処分取消訴訟)の合法性・合憲性を判断する際、「議論それ自体に価値を見出さない人」や「政治的議論に価値を見出さない人」たちはこれらの事案をどう判断するであろうか。

 議論に価値を見出さなければ表現の自由を重要視することはない。

 ならば、これらの事件で制限された原告の権利を重要な権利だとは考えないことになる。

 この場合、違法の結論に対して否定的評価を加えても不思議ではないと考えられる(当然だが、そのことの当否は考えない)。

 

 この点、平成11年の判決において発信されようとした文章の要旨は「死刑に関する意見」であった。

 また、平成18年の判決は「受刑者の待遇改善その他(本問と同じ)」であった。

 これら2つの話題は「国政上の重要な議題」になりうるもので、それなりの重要性を有すると考えられる。

 たとえ、原告らの意図が個人的利益のためになされたものであっても。

 

 しかし、そう考えるのは、(議会政治における)議論の重要性や表現の自由の重要性を肯定するという前提があって、である。

 つまり、「主権者たる国民がこれらの情報をどれだけ重視するか」・「それらの情報に基づいた議論をする気がどの程度あるか」という要素は軽視できないように考えられる。

 

 どうなのだろう。

 もちろん、全員が議論に主体的・積極的に参加しなくてもいい(当然である)が、主体的・積極的に参加したい人たちによる議論を容認・許容する必要がある

 その辺の主権者(国民の多数派)の意見やいかに。

 少々気になった。

 

 

 以上で本問の検討を終える。

 次回に検討する問題は既に検討中の平成20年の過去問である。