薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

司法試験の過去問を見直す9 その5

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成11年度の憲法第1問についてみていく。

 そして、ここからは憲法外の視点から本問を見ていく。

 ただ、今回は少し長くなってしまったので、複数回にわける。

 

11 受刑者などの人権享有主体性

 まずは、人権享有主体性の問題である。

 日本教は本問のような受刑者に人権享有主体性があると考えているのか

 

 まず、出発点として前回引用した平成11年判決の河合裁判官の反対意見から見てみる。

 確かに、この判決の原告は死刑囚であって、受刑者ではない。

 しかし、「有罪が確定している点」・「身体拘束を受けている点」では受刑者も同様である。

 その意味で、両者はセットで考えることができるので、両方について考えていく。

 

 

 まず、この反対意見では、「憲法上の権利の制約」に関する原則と例外について次のように述べている。

 

平成7年(行ツ)66号発信不許可処分取消等事件

平成11年2月26日最高裁判所第二小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/789/062789_hanrei.pdf

 

(上記判決の反対意見から引用、章番号などは省略、強調は私の手による)

 他人に対して自己の意思や意見、感情を表明し、伝達することは、人として最も基本的な欲求の一つであって、その手段としての発信の自由は、憲法の保障する基本的人権に含まれ、少なくともこれに近接して由来する権利である

 死刑確定者といえども、刑の執行を受けるまでは、人としての存在を否定されるものではないから、基本的にはこの権利を有するものとしなければならない

 もとより、この権利も絶対のものではなく、制限される場合もあり得るが、それは一定の必要性・合理性が存する場合に限られるべきである。

 すなわち、死刑確定者の発信については、その権利の性質上、原則は自由であり、一定の必要性・合理性が認められる場合にのみ例外的に制限されるものと解すべきであって、監獄法四六条及び五〇条の規定も、この趣旨に解されることは明らかである。

(引用終了)

 

 以上の反対意見は日本国憲法が採用する「法の支配」(法治主義ではない)を前提にすれば当然の主張である。

 なお、細かく見ていくため、上の主張を2つのブロックによって整理する。

 

(人権享有主体性について、ロジック1)

(べき論)「生物上の人間」、かつ、「日本国籍を持つ者」には憲法上の権利(本問ならば発信の自由)が原則として保障される

(事実)本問の死刑囚は、「生物上の人間」であり、「日本国籍もある」

(結論)本問の死刑囚には発信の自由が憲法上の権利として保障されうる

 

 

 このロジック、その内容に理解できない、ということはないであろう。

 では、この結論に賛同できるであろうか?

 さらに言うと、賛同することの帰結が分かるであろうか?

 

 なお、「空気的にオッケーだけど・・・」ということは気にしなくていい。

 また、「『賛成できない』という意見はどうか」という点も気にしなくていい。

 さらに、そのことを誰かに表明しなくていい。

 

 というのも、犯罪被害者やまたこの関係者がこの結論に耐えられないということはあり得ない話ではないからである(私がその立場に立たされた時にどうなるか、「それはそれとして・・・」と言えるか、私には判断できない、少なくても、今と逆の結論にならないことに自信はない)。

 

 まあ、このロジック自体は反対する人はそれほど多くはないだろう。

 しかし、これを認めた瞬間、程度の差があれ、次の帰結が成立することになる。

 では、次のロジック2は受け容れられるであろうか。

 実務その他を見る限り、これは日本社会では受け入れられていないように思われる(その旨は反対意見に書いてある)。

 

(ロジック2、公共の福祉による制約)

(帰結としてのべき論)公共の利益の実現を目的とした合理的な手段がある場合に限り、憲法上の権利は制約できる(この両条件を満たすと言えない場合は、制約できない)

 

憲法上の権利」も絶対無制約のパワーワードではないが、「公共の福祉」もパワーワードではないことはどっかで書いた気がする。

 つまり、目的の正当性と手段の合理性(場合によっては必要性)がなければ、権利は制約することができないのである

 これがロジック1を賛同することの帰結である。

 

 この帰結を改めてみて考えてみてほしい。

 それでもロジック1に賛成できますか、と。

 

 

 ここで、旧監獄法46条2項を見直してみる。

 

(旧)監獄法第46条第2項

 受刑者及ビ監置ニ処セラレタル者ニハ其親族ニ非サル者ト信書ノ発受ヲ為サシムルコトヲ得ス但特ニ必要アリト認ムル場合ハ此限ニ在ラス

 

 ロジック1から見た場合、この条文は原則と例外が逆転している。

 とすれば、当時の立法者はこのロジック1・2を踏まえていない(いなかった)ということになる。

 というのも、2000年ころに露見した諸々の事件によって監獄法が改正されたが、改正された条文は次の通りになっているからである。

 

刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律

第126条 刑事施設の長は、受刑者(未決拘禁者としての地位を有するものを除く。以下この目において同じ。)に対し、この目、第百四十八条第三項又は次節の規定により禁止される場合を除き、他の者との間で信書を発受することを許すものとする

第128条 刑事施設の長は、犯罪性のある者その他受刑者が信書を発受することにより、刑事施設の規律及び秩序を害し、又は受刑者の矯正処遇の適切な実施に支障を生ずるおそれがある者(受刑者の親族を除く。)については、受刑者がその者との間で信書を発受することを禁止することができる。ただし、婚姻関係の調整、訴訟の遂行、事業の維持その他の受刑者の身分上、法律上又は業務上の重大な利害に係る用務の処理のため信書を発受する場合は、この限りでない。

 

 ただ、監獄法がその辺を踏まえていないのは当然ともいえる。

 なぜなら、この監獄法は明治時代にできたものであること、明治時代にできた大日本帝国憲法はいわゆる外見的立憲主義憲法であって、憲法には「法律の留保」が明示的に規定されており、法律さえあれば権利の制約が自由だったのだから。

 例えば、当時の表現の自由の条文を見てみよう。

 なお、漢字の一部は現代のものに変え、カタカナは平仮名に変えておく。

 

大日本帝国憲法29条

 日本臣民は法律の範囲内において言論著作印行集会及び結社の自由を有す

 

 この観点から見れば、監獄法がロジック1・2を踏まえていないことは当然ともいえる。

 

 少し本題から離れるが、河合裁判官の反対意見にある「監獄法四六条及び五〇条の規定も、この趣旨に解されることは明らかである。」は、やや「ん?」ということになる。

 もっとも、「ん?」と言ってしまうと、「原則例外を逆転させたこれらの法律は違憲である」と言うしかなくなってしまうので、憲法適合的に考えるならばこう言うしかないのだが。

 

 

 以上、「法の支配」によるロジックと現実(実務)をみてきた。

 当然だが、多数意見(判決)を批判する人間はこの前提がある。

 さらに言えば、本問は司法試験の過去問であり、そこで問われる能力は法律実務家の能力である。

 よって、河合裁判官のような反対意見を書けなければ、能力としてお話にならない。

 

 しかし、近代の前提を持たない人間が河合裁判官のような意見を聴いて「ん?」となることは不思議ではない。

 また、日本の道徳には「沈黙の(真実を表明しないという)道徳」という重要な規範がある(詳細は次のメモ参照)。

 その関係で、日本教徒であれば、意見にまつわる「空気」にひよって黙ってしまうということもあるだろう。

 そのため、内心で「どうなのだろう?」とか「賛成できない」と考えることが非難に値するわけではない

 これは近代主義から見てもそうあるべきであり、それが具体化されたものが次の過去問で取り上げる「思想・良心の自由」(憲法19条)である。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 ただ、日本教はどう考えるのだろう。

 せっかくなので、今回はこの点を少し踏み込んでみたい

 

 もちろん、私の推論が正解であるというつもりは毛頭ない。

 また、単純すぎる意味のない張りぼてができるだけで終わるかもしれないが。

 

12 反対意見が示すもの

 河合裁判官は反対意見で次のように述べる。

 

(以下、反対意見から引用、各文ごとに改行、強調は私の手による)

 しかるに、東拘基準は、この原則と例外を逆転し、わずかの場合を除き、死刑確定者の発信を、それを制限することの具体的必要性や合理性を問うことなく、一般的に許さないとしているのであって、右の権利の性質に矛盾し、法の規定にも反するものといわねばならない

 原審は、拘置所長が東拘基準を準則として採用し、かつ、これを適用して本件処分をしたことが、拘置所長の専門的裁量権の行使として適法であるとするもののごとくである。

(引用終了)

 

 なお、引用内にある「東拘基準」とは東京拘置所が決めた死刑囚の発信に対する許可を定めた基準のことであり、前回参照した通り限定的・例外的な場合しか死刑囚の発信基準を認めなていない基準のことである。

 

 これまで見てきた通り、反対意見はロジック1と2を採用した結果出てくる原則論的な主張である。

 だから、これに反対するロジックの組み立て方はレイヤーごとに存在する。

 そこで、レイヤーごとに判断することで、日本教的発想の概形を探ってみたい。

 

 

 まず、最初の反論は、「ロジック2の例外に当たる場合と旧監獄法の規定や東拘基準はほぼ重なり合っている」というものである。

 ただ、この反論は大きく2種類のパターンに分けられる。

 一つ目のパターンは「河合裁判官が考える基準に従っても、拘置所の基準による発信の差し止めは正当化できるので問題ありません」という反論である。

 二つ目のパターンは「河合裁判官が考える基準は例外として厳しすぎます。本来考えるべき例外はもっと広く認められるべきで、その観点から見れば、監獄法や基準はその範囲のものとして問題ありません」というものである。

 

 いずれの反論にせよ「河合裁判官の考える基準」を具体化する必要があるので、その基準を見てみる。

 

(以下、反対意見から引用、セッション番号省略、各文毎に改行、強調は私の手による)

 死刑確定者の拘禁は、その刑の執行を確保することを目的としている。

 したがって、この目的を阻害するおそれのある文書の発信は、制限されて当然である。

 また、監獄は多数の者を収容する施設であって、その正常な管理のためには内部の規律・秩序を維持する必要があるから、その障害となるような文書の発信が制限されることも、やむを得ない。

 ことに死刑確定者は、その置かれている立場から、一般に、拘禁の目的を阻害し、あるいは監獄内の規律・秩序を乱す挙に出る可能性が刑事被告人や受刑者より高いといえるであろうから、そのような挙に出ることを防止するという意味で、死刑確定者の心情の安定に特に配慮する必要があることも理解できる。

 そして、これらについては、監獄内の実情に通暁し、直接その衝に当たる拘置所長の裁量にゆだねられるべきところが少なくないことも確かである。

 しかし、拘置所長の右裁量権の行使が合理的なものでなければならないことは、多言するまでもない。

 したがって、拘置所長が、拘禁の目的が阻害され、あるいは監獄内の規律・秩序が害されることを理由に、右裁量権の行使として、死刑確定者の発信を制限する場合でも、そのような障害発生の一般的・抽象的なおそれがあるというだけでは足りず、対象たる文書の内容、あて先、被拘禁者の性向や行状その他の関係する具体的事情の下において、その発信を許すことにより拘禁の目的の遂行又は監獄内の規律・秩序の保持上放置することのできない障害が生ずる相当の蓋然性があることを具体的に認定することを要し、かつ、その認定に合理的根拠が認められなければならない

 さらに、その場合においても、制限の程度・内容は、拘置所長がその障害発生の防止のために必要と判断し、かつ、その判断に合理性が認められる範囲にとどまるべきものである。

(引用終了)

 

 まとめると次のようになる。

 

(例外を広める方向のもの)

・刑(死刑など)を執行を妨害するおそれのある目的の文章の発信は制限できる

・秩序内の維持の障害となりうる文章の発信は制限できる

・死刑囚ならば、自身の極刑を阻止するなどの理由で制限されるべき発信を実践する可能性が高い

・また、実務に通じた施設関係者の判断が必要であり、そのために裁量判断を認める必要もある。

(例外を狭める方向のもの)

・死刑囚であっても、未決囚と同様、そのような障害発生の一般的・抽象的なおそれがあるだけでは文章の発信を制限できず、障害の発生する「相当の蓋然性」がなければ制限できない

・さらに、その場合でも制限の程度は必要(過剰にならない)程度でなければならない。

 

 つまり、河合裁判官はよど号事件と同様、「具体的な障害が生じる蓋然性がなければ制限してはならない。」と述べている。

 その上で、次のように述べている。

 

(以下、反対意見を引用、各文毎に改行、セッション番号省略、ところどころ中略、強調は私の手による)

 拘置所長の右認定・判断は、本来個々の文書ごとにされるべきものであるが、対象たる文書の性質等によっては、ある程度の類型的認定・判断が可能なものもあるであろう。

 したがって、そのような文書につき、右の類型的な認定・判断に基づいてあらかじめ取扱基準を設けておき、発信の許可を求められた文書が右類型に属する場合には、その基準によってこれを取り扱うという措置も、まったく許されないものとはいえない。

 しかし、そのような取扱いが拘置所長の裁量権の合理的行使として是認されるためには、右3で述べた障害発生の相当の蓋然性があることの具体的認定とその認定の合理的根拠の存在、並びに、その基準の定める程度・内容の制限が必要であるとの判断とその判断の合理性が、当該類型的取扱いが対象とする死刑確定者の文書のすべてを通じて、認められなければならない。

 東拘基準は、死刑確定者が発信を求める文書のうち、前述の除外文書以外の一般文書のすべてを対象として、これを許さないとするものである。

 右に述べたところからすれば、そのような類型的取扱いが拘置所長の裁量権の行使として是認されるためには、(イ)拘置所長が、「死刑確定者に一般文書の発出を許せば、個々の文書の内容やあて先、その発信を求める理由や動機、個々の死刑確定者の個性や気質、日常の行状など、具体的事情の如何を問わず、常に、拘禁の目的の遂行又は監獄内規律・秩序の保持上放置できない障害が生ずる相当の蓋然性がある」と認定したこと、(ロ)その拘置所長の認定に合理的な根拠があると認められること、(ハ)拘置所長が、「そのような障害発生を防止するためには、死刑確定者の一般文書の発出をすべて不許可とする措置が必要である」と判断したこと、及び、(ニ)拘置所長のその判断に合理性が認められること、という要件がそろわなければならない。

(引用終了)

 

 ここでは、相当の蓋然性基準を適用する際の在り方が示されている。

 つまり、「包括的な制限」をかけるためには、次の条件が満たされなければならないことになる。

 

1、拘置所長が「死刑確定者に一般文書の発出を許せば、個々の文書の内容やあて先、その発信を求める理由や動機、個々の死刑確定者の個性や気質、日常の行状など、具体的事情の如何を問わず、常に、拘禁の目的の遂行又は監獄内規律・秩序の保持上放置できない障害が生ずる相当の蓋然性がある」と認定したこと(蓋然性の判断)

2、拘置所長が、「そのような障害発生を防止するためには、死刑確定者の一般文書の発出をすべて不許可とする措置が必要である」と判断したこと(必要性の判断)

 

「予め届け出た親族以外の人間に対する発信を制限する」とか「月2回以上の発信とか紙にして何枚以上の発信を制限する」といった部分規制ではなく、全面的な包括的制限をかけるのであればこうならざるを得ない。

 もちろん、裁判所が適法と判断するためには、この2点について裁量判断として合理的であることがさらに必要であるが。

 

 

 では、本件についてはどうであろうか。

 河合裁判官は次のように述べている。

 

(以下、反対意見から引用)

 しかし、東拘基準を設定し、あるいはこれを維持するに当たり、東京拘置所長において、右(イ)及び(ハ)の認定・判断をしたか否かは明らかでなく、たとえそのような認定・判断をしていたとしても、それについて右(ロ)及び(ニ)の要件が満たされているとはとうてい認めることができない

(中略)

  したがって、東拘基準による類型的取扱いを拘置所長の合理的裁量権の行使として、是認することはできない。

(中略)

 原審もまた確定していないところであって、同被上告人は単に東拘基準を適用したのみで本件処分をしたと解するほかはない。

 そして、東拘基準及びこれに基づく類型的取扱いを是認できないことは右に述べたとおりであるから、結局、上告人の本件文書の発出を許可しなかった本件処分は、何らの合理的理由なしに上告人の発信の権利を制限したものとして、違法といわざるを得ない。

(引用終了)

 

 私釈三国志風にこの意見を意訳すれば、「たとえ、そのような判断があっても裁判所から見てそんな判断に合理性があるとは到底言えねーし、そもそもそんな判断ありゃしないだろう」となる。

 また、私も似たような感覚を持っている。

 もっとも、現実はどうなのであろうか。

 

 この点、拘置所側が本気で立証しようと思えば、明らかにできないとまでは思わない(それが採用されるかは別としても)。

 あるいは、「これをクソ真面目に立証するためには、『(一部、または、全部の)死刑囚に対して一種の実験をする』、または、『一回発信の自由を大幅に認めて、監獄内の秩序に対して相当の混乱を引き起こす必要がある』ということになるが、どちらも行政の判断としてできるわけないだろう。」ということになる。

 まあ、後者は冗談だが。

 

 ただ、「具体的な例外」それ自体をどうこう言うのは妥当ではないように思われる。

 さらに言えば、ここでガチガチやりあうのがメイン争点とは思えない(河合裁判官の反対意見はこの部分に集中しているが)。

 となると、この反論はメインディッシュではないと考えられる。

 

 

 では、次のステップ、次の反論に進もうと考えるわけだが、ここまででかなりの分量になってしまった。

 よって、残りは次回以降にて。