0 はじめに
『日本人のためのイスラム原論』という本がある。
著者はこのブログで何度も取り上げている故・小室直樹先生である。
次の読書メモはこの本にする。
この本を読むことで、イスラム教とイスラム社会(アラビア社会)について理解していくことができるからである。
また、宗教と歴史の理解も進むからである。
さらに、この本の知識などを応用(利用)すれば、日本の理解も当然進む。
ただ、日本の理解に関してはこれまでの読書メモがある。
そのため、「日本の理解」については確認の意味合いが強くなるだけで終わるかもしれない。
1 「はじめに」を読む
本書は2002年に出版された。
2002年というと、セプテンバー・イレブンの直後である。
現在(令和4年)から見て既に20年、既にかなりの時間が経過している。
小室先生は言う。
セプテンバー・イレブンの後、日本にはイスラム教やイスラム教社会(アラビア社会)に関する本が大量に出回った。
そして、それらの本に書かれた体験記やレポートで見るべきものは多い、と。
もっとも、これらのレポート・体験記が真実・事実であるとしても、それらだけからイスラム教・イスラム社会の本質を明白に把握することはできない、と。
つまり、具体的な事実(真実)を知るだけでは足りない。
真理(抽象的な一般法則)を知るためには科学的な検証、具体的には、これらの事実を材料にして比較宗教社会学の分析方法を用いてイスラム教をみていく必要がある、と。
ある種当然の指摘であり、私も賛成する。
また、この見解に賛成することは、見るべき体験記やレポートの価値・必要性を否定するものでもない(もちろん、レポートや体験記の神聖的な価値を否定することにはなるが)。
ただ、この賛成にはある前提が不可欠である。
そして、これまで読んできた故・山本七平氏の書籍から考えると、日本人の多数派にこの前提が共有されているかは微妙な気がする。
ただ、この部分に話を広げるとイスラム教・イスラム社会から離れるので、この辺にとどめる。
では、比較宗教社会学の分析結果からわかることは何か。
そして、イスラム教では宗教=法であり、①神との契約、②宗教の戒律、③社会の規範(道徳)、④国の法律が一致する、らしい。
この4つが一致するのは宗教の理想であるところ、イスラム教はこの理想状態をもっとも体現していることになる。
イスラム教はキリスト教より後発であることを考慮すれば、そうなって当然なのかもしれない。
その結果、信者から見た場合、法律を守ること、道徳を守ること、戒律を守ること、神様との約束を守る(よって、死後楽園に行ける)ことがストレートに一致する。
信者から見てこれほど精神的に楽な話はない。
この点について、キリスト教はどうか。
キリスト教には法や規範が存在しない、らしい。
「ばんなそかな」と考えるかもしれないが、キリスト教の予定説(「神は人間の運命をあらかじめ決めており、人間は神の予定をそのまま演じるのみ」)や「神は人間と取引しない」という発想を考慮すれば、イスラム教のような明快さがないことは明らかである。
というのも、「人間が神様との約束を守れば、神様は約束を守った人間を楽園に招く」という構造自体が「人間と神との取引」だからである。
そのため、キリスト教、特に、新教において信者が信仰を維持するのは大変である。
その観点から見ると、後述するカトリック教会の戦略はやむを得ないようにみえてくる。
また、キリスト教には原罪論や予定説といった教義がある。
しかし、イスラム教にはそのような教義はない。
イスラム教は「法(神様との契約=戒律)を守れ」と述べるのみ。
だから、分かりやすい。
「空気」が宗教的規範として機能する日本教と比較しても、分かりやすい。
預言者マホメット(ブログでは預言者の表記を「ムハンマド」ではなく「マホメット」で統一する)がイスラム教を興したころ、アラビア・西アジアは西にキリスト教のビザンティン帝国があり、東にゾロアスター教のササン朝ペルシャがあった。
また、ユダヤ教の商人たちもいた。
しかし、イスラム帝国はイスラム教を興してから約100年間に、ビザンティン帝国を駆逐し、ササン朝ペルシャを滅亡させた。
そして、アラビア・北アフリカ・イベリア半島を支配する大帝国に発展した。
中華帝国同様、イスラム帝国の発展は帝国の生産力を向上させ、富は増加し、経済も発展した。
こうなれば、当然、文化も発展する。
現在のアラビア数字、代数学・天文学・化学・ギリシャやローマの思想研究の基礎はアラビアを基礎としている。
また、イタリアのルネッサンスがイスラム文化の影響を受けていることはご存じであろう。
もっとも、この繁栄極めたイスラムにとって「近代化」だけは相性が悪いらしい。
つまり、近代民主主義・近代国家・近代立憲主義・近代法・資本主義、これらとイスラム社会(イスラム教)は相性がよくないらしい。
そのため、ヨーロッパの逆襲にあっている。
2022年のロシアとウクライナの騒擾がヨーロッパ・アメリカとイスラムのパワーバランスを変えることになるかどうかは微妙だが。
この点、中華帝国と同様、イスラム社会においてもマックス・ウェーバーのいう前期的資本は大いに発展した。
また、平等・自由・法の概念はイスラム教に当然含まれている。
ただ、近代化だけは相性が悪いらしい。
それだけ、「イスラム教が(ある状況に対して)完璧だった」ということであり、イスラム教のすばらしさを示しているのかもしれない。
ところで、イスラム社会とヨーロッパ社会はイスラム教ができてから抗争を続けてきた。
最初の長い間(約1000年)はイスラム社会が優勢。
その後、近代化を果たしたヨーロッパが逆襲に転じる。
そして、2001年のセプテンバー・イレブン。
ただ、この事件によって近代化の権化たるアメリカ合衆国もある種の先祖返りをおこした。
近代化(自由主義・民主主義)を誇りにして、それを世界に押し付けているアメリカが、である。
例えば、近代デモクラシーの大原則として罪刑法定主義(事前の法律なくして刑罰なし)と無罪推定(疑わしきは罰せず)がある。
しかし、セプテンバーイレブン後のアメリカの言動はそれをかなぐり捨ててしまったかのような印象がある。
もちろん、国家安全保障上の必要性があり、やむを得ないものであるとは言えるとしても。
このアメリカの言動、山本七平氏の『「空気」の研究』に書かれていたことを前提としてみれば、アメリカがもっている二つの要素のうちの一方に極端に振れたとみることができる。
その意味で、アメリカは巨大なキリスト教国家、さらに言えば、白人国家であるということが分かる。
この点は硬貨に刻まれた「IN_GOD_WE_TRUST」などに見ることができる。
このような観点から見れば、セプテンバー・イレブン以後のアメリカとイスラム社会の争いは「キリスト教VSイスラム教」と言うべきものである。
そして、これまで長く続けてきた抗争の延長線上にあるもの、とも言える。
ただ、日本人にはこの辺がピンと来ないらしい。
それもそのはず。
仏教にせよ、儒教にせよ、日本の通常性(いわゆる「水」と「空気」の源泉)は宗教的なものを骨抜きにしてしまうからである。
しょうがないというしかない。
ただし、もし、形式的・員数的(受験レベルにおいて)に世界を理解すること、または、主観的に世界を理解することに満足せず、「実質的」に世界の理解をしていこうと欲するならば(もちろん、これは遠い道のりである)、一神教などの宗教の理解は必須となる。
そして、この本はイスラム教だけではなく、宗教の理解に役に立つ。
だから、読書メモにこの本を選んだわけだが。
以上、第1章に行く前にだいぶ走ってしまった。
次回から、第1章を読んでいくことにする。