今回はこのシリーズの続き。
『日本人と組織』を読んで学んだことをメモにしていく。
6 第6章「空間的組織観と時間的組織観」を読む
前章で、日本がパンティズムの世界であったこと、日本の組織もパンティズムを基本としていることを確認した。
パンティズムから脱宗教体制に入れば当然の結果である。
この点、何故、日本がパンティズムを基本とする世界であることを確認したのか。
これを確認することで、「日本の組織における長所と短所」と「パンティズムの世界の長所と短所」がある程度重なることになり、パンティズムに関する知識などを日本の組織に応用できるからである。
ここから話は「人間の外部世界の把握の仕方」に飛ぶ。
その把握の方法は大きく分けて次の2つになる。
①、空間的把握
外側の世界を固定された枠と考え、かつ、この枠は動かないという前提で、その枠の中で自分を出生から死亡まで把握する方法
②、時間的把握
外側の世界が変化するものであり、かつ、自分の生涯はその変化の一部を担うものであるという前提で、世界の変化と自分の生涯をマッチさせるという把握の方法
当然、時間の変化により外側の世界は変化したりしなかったりする。
そのため、現実に対応するためには、空間的把握と時間的把握の両方を組み込む必要がある。
その際には、その民族の歴史から影響を受けることは言うまでもない。
例えば、ヨーロッパには空間的把握に属するヘレニズムと時間的把握に属するヘブライニズムの矛盾を統合し続けてきた長い歴史がある。
その結果、ヨーロッパ人の伝統的把握は「二つの把握方法による矛盾や緊張状態を維持して、矛盾に耐えながら、緊張状態から生じるエネルギーを使って進歩する」ということになった。
次に、空間的把握の特徴を見てみる。
まず、空間的把握が招来するものは停滞である。
というのは、空間的把握を維持するためには外側の世界を固定する必要があるところ、外側の世界を固定してしまえば社会の進歩はなく、停滞するよりほかはないからである。
そして、パンティズムの世界と親和性があるのはこの空間的把握である。
ならば、日本に親和性があるのも空間的把握となる。
このことは、日本人が「有名校への進学→官庁・一流企業への就職・終身雇用」というエスカレーター式生き方を指向する点からも明らかである。
そして、日本の組織の原則が空間的把握の形をとることは当然である。
その結果、合理的に考えれば、「日本の組織の課題は組織にどうやって『時間的把握』を取り入れるか」という形になる。
というのも、「現実において外側の世界が不変」ということはあり得ないからである。
なお、組織は空間的把握で構成され、時間的把握という要素はない。
このことはモノティズム・中央統制型のヨーロッパ、パンティズム・枠内流動型の日本でも同じである。
また、空間的把握で構成される組織にいれば、人間の意識もまた空間的把握に偏っていく。
人の意識の比重が空間的把握に傾けば、組織の変化は妨げられ、組織の固定化が人の意識を空間的把握に特化させる。
このスパイラル(循環)は容易には止まらない。
その結果、人々の不満から社会的問題に発展しても、その結果は「枠を固定する方向」にしか作用しない。
前述の循環関係を考慮すればこの結果は当然であり、これに対して文句を言ってもしょうがない。
だから、「組織と人の意識のスパイラル」に手を付ける必要がある。
また、この循環は日本人に由来することを考慮すれば最も困難な課題ということになる。
というのも、空間的把握に特化した人間は、現実がその空間的把握から離れた場合、「裏切られた」という感想を持ち、強い反発が予想されるからである。
次に、時間的把握についてみてみる。
時間的把握の根幹にある発想は「社会には耐用年数がある」・「一定の時間の経過によって、社会が変化する」となる。
具体例を出せば、マルクス主義の「封建制社会→資本主義社会→社会主義社会→共産主義社会」がある。
もっとも、この発想は別にマルクス主義だけではなく、旧約聖書・新約聖書に由来する伝統的発想である
現に、新約聖書にこの種類の記載がある。
そして、新約聖書の記載を見ると、「社会の変化には前兆があること」・「急激な崩壊によって社会は変化し、その際に社会は大混乱になる」という発想・前提が見えてくる。
とすると、マルクス主義の発想はヨーロッパの時間的把握の典型例であり、正統な発想であり、ヨーロッパ人の常識ということになる。
この常識の内容をまとめると、「時代は一定の期間に区切られ、時代の終わりは必ずやってくる。次の時代の直前・ある時代の終焉を迎える時、社会は急激に崩壊し、大混乱を引き起こすが、その崩壊・混乱を耐えて次の時代まで生き延びた者は、次の時代で救済される」ということになる。
そして、このヨーロッパの発想はいわゆる「永久革命論」にふさわしいものとなる。
つまり、ヨーロッパの人たちは一方において現在の社会の崩壊を予想し、他方で合理的な一神教的組織を維持しようとする。
無論、この二つの意識は矛盾する。
しかし、この矛盾の中で人々はこの二つを調和させることを考える。
具体的には、現在の組織を平穏に次の時代に移すかを考えて、このように考えることで組織の固定化を防止することになる。
確かに、この発想ならば組織の固定化と永続化は両立し得そうである。
続いて、このヨーロッパの把握方法が形成されていく過程を歴史から見ていく。
バビロン捕囚から解放された後、イスラエルの地でエズラ革命が起き、「正典が絶対である」という時代がやってくる。
この「正典の絶対性」が確立した結果、「預言」から「正典の解釈」に流れが変わった。
これは正典の絶対化が起きれば当然に生じることであり、聖書・クルアーン・共産主義でも変わらない。
この点、イスラエルで「正典の解釈」を担ったのが律法学者である。
だから、律法学者は正典に依拠しなければ存在しえない。
他方、預言者は神から直々に言葉を賜った者であるところ、その賜った言葉は神の言葉であるため、従前の正典と矛盾しても問題がない。
その結果、この律法学者は預言者と両立しえないことになる。
イエスは「正典にはこのような記載がある。しかし、私は・・・と言う。」と述べた
(なお、イエスのこの発言の形式とプロテスタントやピューリタンの「教皇はそういう。だが、聖書はかくいう」がオーバーラップするのは気のせいだろうか)。
その結果、イエスは正典を冒涜した罪によって処刑されることになる。
もっとも、パウロがイエスの思想を絶対化し、再び解釈した上で、ヨーロッパに広めて新たな正典(キリスト教)を作ってしまったため、問題がややこしくなる。
というのも、絶対的な正典に依拠する律法学者と(絶対的な正典から)自由な発想を持つ預言者という両立しえない二つものが共に権威を持つ状態、つまり、旧約聖書と新約聖書の二つが共に権威を持つという状況が生まれてしまったからである。
この状況がヨーロッパの把握方法を規定していることは前述のとおりである。
ただ、キリストのような預言者が現れることはユダヤ教社会においては当然の前提だった(新約聖書の記載はそのことを前提としている)とは言える。
また、空間的把握・時間的把握とこれらをリンクさせると、空間的把握は律法学者とリンクし、時間的把握は預言者とリンクすることになる。
この「『それぞれ背後に権威があり、かつ、両立しえないもの』を抱え込んだ場合、その組織は相矛盾する二つの権威を共に存在させ続けなければならない」ことになる。
この要請を歴史的に最も長い間継続し続けてきた実体のある(形骸化されていない)組織がカトリック教会である。
カトリック教会は崩壊の危機に何度もさらされつつも、崩壊に至らず現在まで続いている。
この歴史的事実から、「アメリカ合衆国やソビエト連邦が崩壊しても(本書が書かれたのは昭和50年代、ソ連はこの後に崩壊した)、カトリック教会・バチカン市国は存続するであろう」と言われることもあるらしい。
まあ、この二つの矛盾する状態を作ったのがキリスト教であることを考慮すれば、この結果は当然かもしれない。
このように見ると、ヨーロッパの組織と「近代・科学・合理」の関連性は乏しく、むしろ、思想・伝統との関連性が強いことがわかる。
また、組織の存続の要点は「空間的把握(律法学者)と時間的把握(預言者)の調整」ということも見えてくる。
ところで、このカトリック教会はローマ教皇を頂点とした完全なピラミッド組織である。
そして、この組織は「完全な空間的把握」によるものであり、耐用年数(賞味期限)があるものとは想定されていない。
しかし、他方において、カトリック教会は霊能(カリスマ)という概念も認めている。
そして、この霊能(カリスマ)の能力を持った人間はその能力に基づいて行動することを許容している。
さらに、この霊能者が築いた組織その他をそっくり組み込むことで、組織の名称を変えずに実質的に組織の構成を組み替えていることも事実である。
その上、霊能者が作った組織と創始者たる霊能者を分離してしまうこともあるらしい。
つまり、聖者と認定された創始者が新時代に適応した組織を作りながら、組織を作った段階で聖者が組織から離れることもあるらしい。
これらを成立させる背景には「庶民への正典の浸透」が必要だろうが、これらのやり方がカトリック教会の長期間の存続のカギの一つとなる。
以上が本章のお話。
非常に参考になった。
個人的な感想としては、「カトリック教会の歩んだ方向と日本がこれまで歩んできた方向、ベクトルがかなり違わないか」ではあるが、この辺は本を読み終えてから、ということで。