今回はこのシリーズの続き。
『日本人と組織』を読んで学んだことをメモにしていく。
2 第2章「契約の『上下関係』と『相互関係』」を読む
本章は、ユダヤ人のある特徴から話を始まる。
つまり、「イスラエルの民は主権国家ができる前から『契約の箱』をかついで歩いていた」と。
そして、そして、彼らの神話、つまり、理想化の方向が「権威者たる絶対君主への服従による秩序の建設」ではなく、「契約の遵守」に向いている点を確認する。
もちろん、神話は古代の話である。
しかし、古代の事実や伝承が現代の精神構造・社会構造と無縁ではないことは前章で確認した通りである。
聖書を携えたピューリタンは新大陸アメリカにおいて新たな世界・新たな制度を作ろうとした。
もっとも、現実において、「新しい世界」を作ろうとして先祖返りする、つまり、伝統的発想の原点に回帰することはよくあることである。
事実、ピルグリム・ファーザーズたちが最初に作ったとされているものは「メイフラワー契約」である。
まさに、アメリカ人も「最初に契約ありき」だったわけである。
この傾向は以前『「空気」の研究』で学んだ通りである。
欧米的組織の軸が契約であることは前章で述べた通りである。
日本の組織も名目的に見ればそのことは変わらない。
ところで、通常、「契約は対等な者同士の間で締結されること」が前提となる。
そして、このような相互契約は欧米社会だけではなく日本にも中国にもあった。
しかし、組織と契約の関係で重要になるのは、対等な者同士で締結する相互契約ではなく、「上下関係を規律する契約」、つまり、上下契約である。
この上下契約という発想は、日本人から見て奇妙なものに見える。
というのは、「上下契約」のルーツは「神との契約」であり、ユダヤ・キリスト・イスラム等の宗教にはある一方、日本にはないからである。
そこで、上下契約が社会生活を規律している具体例を確認していく。
一つ目の具体例は、ローマ帝国時代の解放奴隷契約である。
「奴隷」というとその非人道性がイメージされるが、それを横において生産性に着目した場合、奴隷の生産性は決して高くなかった。
その一方で、ローマの外征の失敗等により、奴隷価格が高騰してローマ経済はインフレから破綻というルートをたどることになる。
こんな状況で、奴隷の生産性を向上するためのアイデアとして考えられたアイデアが解放奴隷契約である。
奴隷の所有者から見た場合、奴隷の管理という負担がある。
また、奴隷の生産性のためであるとしても、衣食住も十分保障した上に経済的刺激も与えるというのは面倒である。
ならば、奴隷から一定の資金を提供させることで奴隷を得るための資金を回収してし、奴隷を解放する。
そして、元奴隷(解放済み)と改めて雇用契約を結んで稼がせる。
その方が楽だ、と。
この発想は帝政ローマが始まったころに一種の流行となった。
また、技能者や学識者に対してはこの発想が進んでいたらしい。
この両者は鞭で生産性を上げられる職種ではないので、さもありなんという感じである。
もっとも、「奴隷だった人たちの管理」を行う人がいなくなった関係で治安上の問題に発展し、アウグストゥス(初代ローマ帝国皇帝)は何度か奴隷解放禁止令を出している。
ここで、この奴隷解放契約の構造を見る。
「当事者が対等でなければ相互契約は締結できない」という前提から見た場合、奴隷は主人と相互契約を締結できない。
また、奴隷から見た場合、主人と約束して金を積み立てて主人に預けたところで、主人が反故にしてしまえば奴隷は対抗手段がない。
その結果、奴隷と主人との間の約束は意味がない。
意味がなければ奴隷は疑心暗鬼になるだけで、生産性は上がらず主人も困る。
そこで、奴隷解放契約では、奴隷と主人の他に神を用意し、それによって諸問題を解決した。
その構造は次のとおりである。
1、奴隷と神は「資金提供契約」を締結する
2、奴隷は寄付金を神に納める
3、神は寄付金を奴隷解放の原資として用いる
4、主人と神は「奴隷の売買契約」を締結する
5、神は寄付金(奴隷が提供したもの)を主人に提供する
6、主人は「解放資金」を受領し、奴隷を神に引き渡す
7、奴隷は神の奴隷となるわけだが、神は奴隷を使役しないので、奴隷は解放される
ちなみに、解放奴隷のことをリベルテと呼び、この言葉からリバティーという言葉が生まれることになる。
本書によると、これは上下契約の古いパターンの一つである、ということになる。
ちなみに、西欧の結婚式における宣誓(契約)の構造もこれと同じである。
夫と妻は神の面前で神に対して「相手と結婚し(以下略)」と誓約するのである。
夫と妻の立場が平等なのは、文言・立場が平等だからに過ぎない。
この考えに立つと、「離婚は神に対して行った宣誓に反する行為であり、原則として許されない」ということになる。
解放奴隷契約の拘束力は、この結婚のケースと同じものとなる。
つまり、主人が資金(原資は奴隷が稼いだもの)をもらいながら奴隷を解放しないのは神に対する履行違背になる。
よって、主人は契約を守り、奴隷の疑心暗鬼は解消される。
こうして、契約の履行を神を登場させることで担保することになる。
もちろん、実質的に見れば、奴隷は資金を提供し、主人は奴隷を解放する、という意味で相互契約に見える。
しかし、構造を見れば、奴隷解放契約は(複数の)上下契約ということになる。
結婚と同じように。
さて、この解放奴隷契約のような上下契約のシステム。
この発想は、その後、当時の世界を席巻していたローマの軍隊を侵食していくことになる。
ちなみに、戦争を実践する軍隊ではその結果が人の生死がかかわるため、当時のもっとも合理的なシステムが取り入れられている。
だから、「軍隊がこの発想が取り入れる」というのは重要な意味を持つことになる。
つまり、ローマ軍において絶対的権威として振舞っていたのものとして「旗」があった。
例えるなら、軍旗が神であり、軍旗たる神への忠誠がローマ軍の内的規範であった。
そして、ローマ帝政時代、ローマ皇帝は香を焚いて軍旗を軍に下賜していたわけだが、このことを「カイサル焚香」と呼び、この内的規範の裏付けとなっていた。
この場合、ローマ軍における上下関係は「主人と奴隷」の関係であって、上下契約ではない。
さらに言えば、ネロ皇帝の時代、皇帝と一般人の関係は「皇帝とその奴隷」という関係となっていた。
しかし、この奴隷関係の軍隊のシステムに上下契約が忍び込む。
そして、両者が衝突し、悲劇を生むことになった。
その具体例がキリスト教の殉教である。
キリスト教には「誓いの禁止」という条項がある。
その趣旨は、「キリスト教の信者は神以外の偶像・人間に誓ってはならない。何故なら、それに誓った瞬間、神ではなくその偶像・人間に拘束されることになるから。」
まあ、一神教なら普通にありうるルールである。
しかし、このルールが帝政ローマ、あるいは、戦前の日本でも大問題となった。
キリスト教の誓いの禁止を見たローマや日本の指導者は必ずこう思うだろう。
「キリスト教信者は神以外への誓いを禁止している、ならば、軍(皇帝)や天皇陛下に忠誠は誓えないということなのか」と。
当然、思い浮かばなければならない疑問である。
これに対して殉教者たちは何と答えたか。
誓いの禁止がある彼らの誓約はこのような形になる。
「『帝国憲法及びこれに基づく法令・法規を遵守すること』を(自分の信仰する)神に対して誓います。」
現在の諸々の宣誓の形式は基本的にこの形をとっている。
逆に言えば、「これ以上」の誓約はできない、ということになる。
では、「これ以上」とは何か。
会社と従業員の関係に即して答えるならこうなる。
「『会社の定款・社規・社則、及びこれに準拠した慣行を遵守すること』を神に誓います」
「『企業や社長の奴隷となること』を誓うことはできません。何故なら、私は神の奴隷であり、企業や社長の奴隷ではないからです。」
要約すればこうなる。
「契約・ルールに従うことは誓約します。
しかし、『あなたと神とすること』を誓約することはできません」
ネロ皇帝の時代、皇帝と人民の関係は主人と奴隷である、と言った。
主人と書いたが、これは神と同じである。
つまり、キリスト教信者の返答は「お前(皇帝)は神ではない」と宣言したことと等しくなる。
皇帝が逆上したのも無理はなかろう。
さて。
この「上下支配関係」と「上下契約」という関係
この違いが宣誓の場面で現れたのがロッキード事件である。
上下契約の場合、契約という性質から「宣誓しない自由」はある。
その代わりに、「宣誓した以上、違背したら重罰(神罰)」が待っている。
法令上宣誓を拒否できないことはあるが、そのペナルティは「宣誓して違背するよりマシ」となる。
一方、上下支配関係の場合、宣誓拒否は支配関係からの脱却を意味するので、それ自体が重罪(神罰)になる。
その代わり、「宣誓が強制である以上、違背してもペナルティが宣誓拒否より重くなるかどうかは分からない」ということになる。
大小関係は支配者の胸先三寸で決まる。
日本は契約宗教の発想がなく、「貝原益軒の延長線上」にいる。
欧米から日本を見れば、「古代ローマのようだ」ということになる。
その結果、証言拒否に対しては上下契約ではなく、上下支配的な特徴が見られた。
もちろん、もちろんこれは証言拒否に限った話ではない。
別に、どっちが良い・悪いということではない。
ただ、忘れてはならない現実は、「我々は上下契約・相互契約によって作られた複雑な社会・組織を運営しなければ、我々の社会が維持できない」ということである。
問題はこの点にある。
よって、社会を維持・発展できるなら日本の精神構造はそのままでもいい、ともいえるのだろう。
以上が本章のお話。
勉強になった。
あと、別のところで学んだ点が線になっていく感じがつかめて、非常に快感が得られる。
この本はどんどん読んでいきたい。