薫のメモ帳

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司法試験の過去問を見直す10 その4

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成20年度の憲法第1問についてみていく。

 

 今回と次回で関連する最高裁判所判例を参照する。

 その後、本問の結論の妥当性について最高裁判例を軸に再考する

 なお、ここで参照した判例のいくつかは平成13年度の過去問(次回検討する予定である)を見る際に再度参照することになるため、詳しめに見ていくことにする。

 

5 法人(団体)の寄付に関する最高裁判所判例

 ここから参照する最高裁判所判例は次の4つである。

 

昭和41年(オ)444号取締役の責任追及請求事件

昭和45年6月24日最高裁大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/040/055040_hanrei.pdf

(いわゆる「八幡製鉄事件」)

 

昭和48年(オ)499号組合費請求事件

昭和50年11月28日最高裁判所第三小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/203/054203_hanrei.pdf

(いわゆる「国労広島地本事件」)

 

平成4年(オ)1796号選挙権被選挙権停止処分無効確認等事件

平成8年3月19日最高裁判所第三小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/864/055864_hanrei.pdf

(いわゆる「南九州税理士会事件」)

 

平成11年(受)743号債務不存在確認請求事件

平成14年4月25日最高裁判所第一小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/439/062439_hanrei.pdf

(いわゆる「群馬司法書士会事件」)

 

 各事案を比較してみると次のようになる。

 

八幡製鉄事件

 主体は株式会社(八幡製鉄株式会社)

 寄付先、政党(自由民主党

 寄付金額、350万円

 構成員への追加負担など、特になし

 判決による寄付の決議の効力、有効

 

国労広島地本事件

(寄付対象が複数あるため、それら毎に分けて考える)

 主体は、労働組合(事実上の強制加入団体)

 寄付先は、①他の労働組合、②安保闘争で不利益処分を被った組合員、③支持政党

 構成員の負担は、①が350円、②が30円、③が20円

 判決による構成員の協力義務の有無、①と②は義務あり、③は義務なし

 

・南九州税理士会事件

 主体は南九州税理士会(税理士にとっての強制加入団体)

 寄付先は政治団体政治資金規正法上の団体)

 構成員への負担、5000円

 負担に応じない構成員への不利益、「会費滞納者としての扱い」と「役員選挙の選挙権などのはく奪」

 判決による決議の効力、無効

 

・群馬司法書士会事件

 主体は群馬司法書士会(司法書士にとっての強制加入団体)

 寄付先は兵庫県司法書士会(復興支援目的)

 寄付総額は3000万円

 構成員への負担、1回の登記申請につき50円(期間は3年間)

 負担に応じない構成員への不利益、後述

 判決による決議の効力、有効

 

 

 これらの事件の判決で最高裁判所が述べたことを確認していく。

 

6 八幡製鉄事件最高裁判決を見る

 この点、八幡製鉄事件では「株式会社(営利社団法人)の権利能力」・「法人の人権享有主体性」・「政党への寄付と取締役の忠実義務違反」が主要な争点であり、「株主の寄付されない自由」についての言及はほとんどない。

 ただし、著名な判例であることを考慮し、重要な点をまとめておく。

 

 まず、最高裁判所は株式会社の権利能力を広い範囲で肯定した。

 

(以下、八幡製鉄事件最高裁判決より引用)

 x社は定款に定められた目的の範囲内において権利能力を有するわけであるが、目的の範囲内の行為とは、定款に明示された目的自体に限局されるものではなく、その目的を遂行するうえに直接または間接に必要な行為であれば、すべてこれに包含されるものと解するのを相当とする。そして必要なりや否やは、当該行為が目的遂行上現実に必要であつたかどうかをもつてこれを決すべきではなく、行為の客観的な性質に即し、抽象的に判断されなければならないのである

(中略)

 会社による政治資金の寄附は、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためになされたものと認められるかぎりにおいては、会社の定款所定の目的の範囲内の行為であるとするに妨げないのである。

(引用終了)

 

 また、次のように述べて、法人の人権享有主体性を肯定した。

 

(以下、同判決から引用)

 憲法第三章に定める国民の権利および義務の各条項は、性質上可能なかぎり、内国の法人にも適用されるものと解すべきである

(引用終了)

 

 これらのことから、法人・団体の寄付の自由は「憲法上の権利」から出発していると言える。

 本問でも、「団体の寄付の自由」を憲法上の権利と関連させたが、その根拠となる判例はこれである。

 

 

 以上を前提に、寄付を強制されない自由について各事件を見ていく。

 

7 国労広島地本事件最高裁判決を見る

 この事件の寄付団体は労働組合である。

 ただ、この事件では寄付先が複数になっている。

 具体的には、他の労働組合への寄付、安保闘争で不利益を受けた人たちへの寄付、支持政党への寄付が問題となっている。

 よって、具体的に見ていくことになる。

 

 

 まず、最高裁判所労働組合の団体の性質に言及しながら、次のような規範を成立する。

 

(以下、国労広島地本事件より引用、一文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 労働組合の組合員は、組合の構成員として留まる限り、(中略)組合費を納付する義務を負うものであるが、これらの義務(以下「協力義務」という。)は、もとより無制限のものではない

 労働組合は、労働者の労働条件の維持改善その他経済的地位の向上を図ることを主たる目的とする団体であつて、組合員はかかる目的のための活動に参加する者としてこれに加入するのであるから、その協力義務も当然に右目的達成のために必要な団体活動の範囲に限られる

 しかし、いうまでもなく、労働組合の活動は、必ずしも対使用者との関係において有利な労働条件を獲得することのみに限定されるものではない。(中略)

 しかし、このように労働組合の活動の範囲が広く、かつ弾力的であるとしても、そのことから、労働組合がその目的の範囲内においてするすべての活動につき当然かつ一様に組合員に対して統制力を及ぼし、組合員の協力を強制することができるものと速断することはできない。

 労働組合の活動が組合員の一般的要請にこたえて拡大されるものであり、組合員としてもある程度まではこれを予想して組合に加入するのであるから、組合からの脱退の自由が確保されている限り、たとえ個々の場合に組合の決定した活動に反対の組合員であつても、原則的にはこれに対する協力義務を免れないというべきであるが、労働組合の活動が前記のように多様化するにつれて、組合による統制の範囲も拡大し、組合員が一個の市民又は人間として有する自由や権利と矛盾衝突する場合が増大し、しかも今日の社会的条件のもとでは、組合に加入していることが労働者にとつて重要な利益で、組合脱退の自由も事実上大きな制約を受けていることを考えると、労働組合の活動として許されたものであるというだけで、そのことから直ちにこれに対する組合員の協力義務を無条件で肯定することは、相当でないというべきである。

 それゆえ、この点に関して格別の立法上の規制が加えられていない場合でも、問題とされている具体的な組合活動の内容・性質、これについて組合員に求められる協力の内容・程度・態様等を比較考量し、多数決原理に基づく組合活動の実効性と組合員個人の基本的利益の調和という観点から、組合の統制力とその反面としての組合員の協力義務の範囲に合理的な限定を加えることが必要である

(引用終了)

 

 最高裁判所は、労働組合の目的の範囲は広く考えている。

 その一方で、労働組合が事実上加入が強制される(事実上脱退が制約されている)団体である点を考慮し、協力義務の範囲に合理的な制限を加えようとしている

 

 そして、他の労働組合への支援目的の寄付については広い範囲で肯定した。

 

(以下、国労広島地本事件より引用、一文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 労働組合が他の友誼組合の闘争を支援する諸活動を行うことは、しばしばみられるところであるが、労働組合ないし労働者間における連帯と相互協力の関係からすれば、労働組合の目的とする組合員の経済的地位の向上は、当該組合かぎりの活動のみによつてではなく、広く他組合との連帯行動によつてこれを実現することが予定されているのであるから、それらの支援活動は当然に右の目的と関連性をもつものと考えるべきであり、また、労働組合においてそれをすることがなんら組合員の一般的利益に反するものでもないのである。

 それゆえ、右支援活動をするかどうかは、それが法律上許されない等特別の場合でない限り、専ら当該組合が自主的に判断すべき政策問題であつて、多数決によりそれが決定された場合には、これに対する組合員の協力義務を否定すべき理由はない。

(引用終了)

 

 

 次に、安保闘争に参加して不利益処分を受けた人たちへの支援金については労働組合の政治活動と協力義務の調整」に関する一般論を述べて、結果的に納入義務を肯定した

 ここで、次に参照する南九州税理士会事件との対比で興味深いことを述べているので、長めに引用する。

 

(以下、国労広島地本事件より引用、一文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 労働組合が労働者の生活利益の擁護と向上のために、経済的活動のほかに政治的活動をも行うことは、今日のように経済的活動と政治的活動との間に密接ないし表裏の関係のある時代においてはある程度まで必然的であり、(中略)。

 それゆえ、労働組合がかかる政治的活動をし、あるいは、そのための費用を組合基金のうちから支出すること自体は、法的には許されたものというべきであるが、これに対する組合員の協力義務をどこまで認めうるかについては、更に別個に考慮することを要する。

 すなわち、一般的にいえば、政治的活動は一定の政治的思想、見解、判断等に結びついて行われるものであり、労働組合の政治的活動の基礎にある政治的思想、見解、判断等は、必ずしも個々の組合員のそれと一致するものではないから、もともと団体構成員の多数決に従つて政治的行動をすることを予定して結成された政治団体とは異なる労働組合としては、その多数決による政治的活動に対してこれと異なる政治的思想、見解、判断等をもつ個々の組合員の協力を義務づけることは、原則として許されないと考えるべきである

 かかる義務を一般的に認めることは、組合員の個人としての政治的自由、特に自己の意に反して一定の政治的態度や行動をとることを強制されない自由を侵害することになるからである。

(中略)

 しかしながら、労働組合の政治的活動とそれ以外の活動とは実際上しかく截然と区別できるものではなく、一定の行動が政治的活動であると同時に経済的活動としての性質をもつことは稀ではないし、また、それが政治的思想、見解、判断等と関係する度合いも必ずしも一様ではない。

 したがつて、労働組合の活動がいささかでも政治的性質を帯びるものであれば、常にこれに対する組合員の協力を強制することができないと解することは、妥当な解釈とはいいがたい。

 例えば、労働者の権利利益に直接関係する立法や行政措置の促進又は反対のためにする活動のごときは、政治的活動としての一面をもち、そのかぎりにおいて組合員の政治的思想、見解、判断等と全く無関係ではありえないけれども、それとの関連性は稀薄であり、むしろ組合員個人の政治的立場の相違を超えて労働組合本来の目的を達成するための広い意味における経済的活動ないしはこれに付随する活動であるともみられるものであつて、このような活動について組合員の協力を要求しても、その政治的自由に対する制約の程度は極めて軽微なものということができる。

 それゆえ、このような活動については、労働組合の自主的な政策決定を優先させ、組合員の費用負担を含む協力義務を肯定すべきである。

 これに対し、いわゆる安保反対闘争のような活動は、(中略)、直接的には国の安全や外交等の国民的関心事に関する政策上の問題を対象とする活動であり、このような政治的要求に賛成するか反対するかは、本来、各人が国民の一人としての立場において自己の個人的かつ自主的な思想、見解、判断等に基づいて決定すべきことであるから、(中略)。

 一定の政治的活動の費用としてその支出目的との個別的関連性が明白に特定されている資金についてその拠出を強制することは、かかる活動に対する積極的協力の強制にほかならず、また、右活動にあらわされる一定の政治的立場に対する支持の表明を強制するにも等しいものというべきであつて、やはり許されないとしなければならない

 次に、右安保反対闘争のような政治的活動に参加して不利益処分を受けた組合員に対する救援の問題について考えると、(中略)。

 しかし、労働組合が共済活動として行う救援の主眼は、組織の維持強化を図るために、被処分者の受けている生活その他の面での不利益の回復を経済的に援助してやることにあり、処分の原因たる行為のいかんにかかわるものではなく、もとよりその行為を支持、助長することを直接目的とするものではないから、右救援費用を拠出することが直ちに処分の原因たる政治的活動に積極的に協力することになるものではなく、また、その活動のよつて立つ一定の政治的立場に対する支持を表明することになるものでもないというべきである。

 したがつて、その拠出を強制しても、組合員個人の政治的思想、見解、判断等に関係する程度は極めて軽微なものであつて、このような救援資金については、先に述べた政治的活動を直接の目的とする資金とは異なり、組合の徴収決議に対する組合員の協力義務を肯定することが、相当である。

(引用終了)

 

 規範に至る過程を少しまとめてみると次のようになる。

 

 労働組合の政治的活動は法的に肯定されるが、組合員の協力義務には限界がある。

 そこで、活動の政治性は濃淡があることを考慮し、個々の組合員の政治的思想などとの関連性が乏しく、かつ、政治的活動を直接の目的としない場合に限り、協力義務は肯定される。

 

 そして、不利益処分を被った人々への寄付へ協力義務を肯定した。

 その一方、政党への寄付に関する協力義務を否定した。

 

(以下、国労広島地本事件より引用、一文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 政治意識昂揚資金について右資金は、総選挙に際し特定の立候補者支援のためにその所属政党に寄付する資金であるが、政党や選挙による議員の活動は、各種の政治的課題の解決のために労働者の生活利益とは関係のない広範な領域にも及ぶものであるから、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかは、投票の自由と表裏をなすものとして、組合員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断ないしは感情等に基づいて自主的に決定すべき事柄である。

 したがつて、労働組合が組織として支持政党又はいわゆる統一候補を決定し、その選挙運動を推進すること自体は自由であるが(当裁判所昭和三八年(あ)第九七四号同四三年一二月四日大法廷判決・刑集二二巻一三号一四二五頁参照)、組合員に対してこれへの協力を強制することは許されないというべきであり、その費用の負担についても同様に解すべきことは、既に述べたところから明らかである。

(引用終了)

 

 実は、この国労広島地本事件、概要と結論は知っていたが(短答式試験では出てくることがあるし、平成13年の論文式試験憲法第1問でも出てきたため)、最高裁判所の判決文を詳細に読んだのは今回が初めてであった。

 かなり踏み込んで書いてある。

 試験に合格する前に何故読まなかったのか、と感じる今日この頃である。

 まあ、このような感想はこの判決だけに感じることではないのだけれども。

 

 

 さて、次に南九州税理士会事件に移りたいが、判決への引用だけで分量が結構な量になっている。

 よって、南九州税理士会事件などについては次回にみていく。

司法試験の過去問を見直す9 その10(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成11年度の憲法第1問についてみていく。

 

 前回と前々回は、世田谷事件と堀越事件についてみてきた。

 今回は、本問を見て気になった細かい点についてみていく。

 

25 特別権力関係について

 まず、本問の検討の際にみてきた「特別権力関係」について少し考えたい。

 そして、この「特別権力関係」を考える際に、参照したいのが次の書籍にある文章である。

 

 

 この42ページに非常に興味深いことが書いてある。

 少し長めに引用したい。

 

(以下、上記書籍の42ページから引用、一部中略、各文毎に改行、強調は私の手による)

 憲法上の下で人間は平等であり、一私人としては内閣総理大臣も課長補佐も対等で平等である。

 しかし、一旦公的私的雇傭契約によって組織の一員となった場合、「上司」は指揮命令する権能を与えられ、「部下」はこれに服従する義務を負う。

 ここまでは『法律用語辞典』も『広辞苑』も正しいが、ぬけているのは、

「特別権力関係においては責任は、すべて決定を下し指揮命令した者が負う」という大原則である。

 指揮命令だけして責任は回避するというのは「特別権力関係」の大原則を逸脱した指揮権の濫用になるのだ。

 特別権力関係の法的側面は右のとおりだが、さらにもう一つ、重要な要素として「感情的要素」、すなわち「上司の部下への思いやり」と「部下の上司(又は組織)への忠誠心」という大切なものがある。

(中略)

 すなわち上司の部下に対する感情移入(思いやり)、評価、賞讃、褒章、昇進などの処遇があってこそ、そして「士ハ己ヲ知ル者ノタメニ死ス」という、部下の上司に対する中世、尊敬、自己犠牲が期待できるのだ。

「尊敬と愛情(リスペクト&アフェクション=ハーバード大学の教訓ときいている)」という感情の相互交流のない上司と部下の上下関係は、任期の切れ目が縁の切れ目、とくに嫌いな上司な転勤は部下の祝いごとで、それこそ祝杯をあげ、赤飯を炊いてその人事を寿ぐという騒ぎになる。

(引用終了)

 

 まあ、「そうだよな」ということが一般化されている

 この点、情緒的要素が強い日本教社会の場合、感情的要素が欠落したシステムが長続きするとは考えられない。

 もちろん、感情的要素を嫌う人間が出てくることがありえても。

 また、『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』(リンク先は後述)の288ページでも言及されていたが、感情的な要素、または、人格的な要素が要求されるのは日本だけではない。

 

 

 ところで、私が「特別権力関係」というのを初めて知ったのは2004年、司法試験の勉強を始めてからのこと(私が卒業した大学の学部は法学部ではない)。

 司法試験に合格するために学んだがために、憲法学的な観点から、また、簡略した内容しか教えられていない。

 ただ、次のウィキペディアを見ればわかる通り、上で佐々先生が述べられていた感情的要素・上司の持つ責任については言及されていない。

 この欠落は何を意味するのだろう。

 

 確かに、部下の人権(権利)制約の正当化だけが焦点になっているから、感情的要素や上司側の責任が抜けたという事情はある。

 十分にある

 しかし、感情的要素は法学を舞台とするから抜けてもいいとしても、上司側の責任が抜けてもよいというのはいささかあれである

 そして、この要素が欠落したことが特別権力関係論に大きな欠陥を持たせる羽目になったのではないのか。

 そのような感想が頭に浮かぶ。

 

 次に、このような感想も持った。

 上司側の責任を十分に補完させた特別権力関係論は従前の日本教と親和的だったのではないか、と。

 この点、「日本的儒教」の規範たる「君、君タラズトモ、臣、臣タレ」とは適合的ではないかもしれない。

 しかし、この規範は部下に対する規範に過ぎず、上司の堕落を正当化する規範ではない

 また、特別権力関係論は日本の「事大主義」やいわゆる「包摂モデル」(「人権モデル」と対となる発想)とも親和的に見える。

 この辺は「正直分からない」のだが、日本教日本教社会についての理解を深めたら再検討したいと考えている。

 

 もちろん、21世紀の日本では上司側の責任を身軽にする方向で進んでいる(この辺の話は宮台先生の主張を参照することで理解できる)。

 また、日本には、員数主義・純化の傾向といった作用もある。

 さらには、小室先生が述べた複合アノミーも。

 そのため、現在は上でいう「特別権力関係の大原則を逸脱した指揮権濫用」がよりまかり通りやすくなっているとも言いうる。

 その点を考慮すれば、特別権力関係やこれを含む概念たる「部分社会の法理」を積極的に活用すべきとは到底考えられないのだが。

 

26 結論の妥当性、特に、表現の自由の価値について

 最後に、本問の結論の妥当性を「表現の自由」の価値を踏まえて考えてみたい。

 

 本問の検討において、私は所長の処分を違法とした。

 その背後にあるのは、表現の自由(特に、自己統治の価値)の重要性であり、思想言論の自由市場へのリスペクトである。

 

 ただ、本問や平成18年判決や平成11年の判決(死刑囚の発信不許可処分取消訴訟)の合法性・合憲性を判断する際、「議論それ自体に価値を見出さない人」や「政治的議論に価値を見出さない人」たちはこれらの事案をどう判断するであろうか。

 議論に価値を見出さなければ表現の自由を重要視することはない。

 ならば、これらの事件で制限された原告の権利を重要な権利だとは考えないことになる。

 この場合、違法の結論に対して否定的評価を加えても不思議ではないと考えられる(当然だが、そのことの当否は考えない)。

 

 この点、平成11年の判決において発信されようとした文章の要旨は「死刑に関する意見」であった。

 また、平成18年の判決は「受刑者の待遇改善その他(本問と同じ)」であった。

 これら2つの話題は「国政上の重要な議題」になりうるもので、それなりの重要性を有すると考えられる。

 たとえ、原告らの意図が個人的利益のためになされたものであっても。

 

 しかし、そう考えるのは、(議会政治における)議論の重要性や表現の自由の重要性を肯定するという前提があって、である。

 つまり、「主権者たる国民がこれらの情報をどれだけ重視するか」・「それらの情報に基づいた議論をする気がどの程度あるか」という要素は軽視できないように考えられる。

 

 どうなのだろう。

 もちろん、全員が議論に主体的・積極的に参加しなくてもいい(当然である)が、主体的・積極的に参加したい人たちによる議論を容認・許容する必要がある

 その辺の主権者(国民の多数派)の意見やいかに。

 少々気になった。

 

 

 以上で本問の検討を終える。

 次回に検討する問題は既に検討中の平成20年の過去問である。

司法試験の過去問を見直す9 その9

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成11年度の憲法第1問についてみていく。

 なお、今回は前回に続いて、堀越事件と世田谷事件についてみていく。

 

22 両事件へのあてはめ

 堀越事件と世田谷事件の「政治的活動」の態様は基本的に変わらない。

 世田谷事件最高裁判所判決の記載を借りれば次のようになる。

 

(以下、世田谷事件最高裁判所判決から引用、強調は私の手による)

 本件配布行為が,勤務時間外である休日に,国ないし職場の施設を利用せずに,それ自体は公務員としての地位を利用することなく行われたものであること,公務員により組織される団体の活動としての性格を有しないこと,公務員であることを明らかにすることなく,無言で郵便受けに文書を配布したにとどまるものであって,公務員による行為と認識し得る態様ではなかった

(引用終了)

 

 そのため、両事件の判断の差は「公務員の地位・権限」に求めるしかない。

 まず、堀越事件では次のように述べて控訴審の無罪判決を支持した。 

 

(以下、堀越事件最高裁判所判決から引用、強調は私の手による)

 本件配布行為は,管理職的地位になく,その職務の内容や権限に裁量の余地のない公務員によって,職務と全く無関係に,公務員により組織される団体の活動としての性格もなく行われたものであり,

(引用終了)

 

 他方、世田谷事件は次のように判断している。

 こちらは少し長めに引用する。

 

(以下、世田谷事件から引用)

 被告人は,(中略)課長補佐であり,庶務係,企画指導係及び技術開発係担当として部下である各係職員を直接指揮するとともに,同課に存する8名の課長補佐の筆頭課長補佐(総括課長補佐)として他の課長補佐等からの業務の相談に対応するなど課内の総合調整等を行う立場にあり,国家公務員法108条の2第3項ただし書所定の管理職員等に当たり,一般の職員と同一の職員団体の構成員となることのない職員であったものであって,指揮命令や指導監督等を通じて他の多数の職員の職務の遂行に影響を及ぼすことのできる地位にあったといえる。

 このような地位及び職務の内容や権限を担っていた被告人が政党機関紙の配布という特定の政党を積極的に支援する行動を行うことについては,それが勤務外のものであったとしても,(中略),当該公務員による裁量権を伴う職務権限の行使の過程の様々な場面でその政治的傾向が職務内容に現れる蓋然性が高まり,その指揮命令や指導監督を通じてその部下等の職務の遂行や組織の運営にもその傾向に沿った影響を及ぼすことになりかねない。

 したがって,これらによって,当該公務員及びその属する行政組織の職務の遂行の政治的中立性が損なわれるおそれが実質的に生ずるものということができる。

(引用終了)

 

 この判決を見ると、「外側、つまり、国民から見た場合、『部下』がおらず、また、『裁量』がなければ公務員の政治的中立性に対する信頼を損なう危険が実質的にないが、指揮監督できる『部下』がいると信頼を損なう危険が実質的にある」ということになる。

 どうなのだろう。

 もちろん、「『信頼』まで含めて考えるならば危険はあるのかもしれない」と言えなくもない。

 しかし、その一方、「判決で述べる危険は『政治的行為』がなくても存在するのでは?」とも考えられる。

 これを前提とすると、「判決で述べる危険は『政治的行為』をしない一部の公務員にも存在しうるが、政治的行為をしない限り放置してもいい」ということになるようにも見えるのだが。

 

 

 ところで、堀越事件控訴審判決に対する検察官上告において、検察官は判例違反を取り上げている。

 まあ、当然の主張である。

 これに対して、最高裁判所「事案が異なる」と述べて一蹴した

 この部分もみてみよう。

 

(以下、堀越事件判決から引用、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 所論引用の判例(前掲最高裁昭和49年11月6日大法廷判決)の事案は,(中略),勤務時間外の行為であっても,その行為の態様からみて当該地区において公務員が特定の政党の候補者を国政選挙において積極的に支援する行為であることが一般人に容易に認識され得るようなものであった。

 これらの事情によれば,(中略),公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものであったということができ,行政の中立的運営の確保とこれに対する国民の信頼に影響を及ぼすものであった。

 したがって,上記判例は,このような文書の掲示又は配布の事案についてのものであり,判例違反の主張は,事案を異にする判例を引用するものであって,本件に適切ではなく,所論は刑訴法405条の上告理由に当たらない。

(引用終了)

 

 興味深いのは、この判決の基準を猿払事件の事案に当てはめた場合、「(公務員の)労働組合協議会の構成員である職員団体の活動の一環」として行われた以上、政治的中立性を損なうおそれがあったが実質的に認められると判断している点であろうか。

 

 

 ところで、両判決には千葉勝美裁判官(裁判官出身)の補足意見が掲載されており、裁判官の発想を知るうえで貴重なことが書いてある。

 そこで、補足意見をみていく。

 

23 補足意見から見る判例の価値について

 千葉裁判官は平成15年の過去問を検討した際に参照した再婚禁止期間規定に関する法令違憲判決で貴重な補足意見を述べている。

 また、次の書籍を書いている(最近、図書館で借りてきた、これから読む予定である)。

 その意味で、裁判官の発想を外部に発信することに対して積極的な方と言える。

 

 

 そこで、補足意見を通じて、色々とみてみたい。

 

 

 ところで、最高裁判所が小法廷で判決をする際に判例変更をすることはできない。

 根拠条文は裁判所法第10条第1項第3号である。

 

裁判所法第10条

第1項 事件を大法廷又は小法廷のいずれで取り扱うかについては、最高裁判所の定めるところによる。但し、左の場合においては、小法廷では裁判をすることができない。

 第1号 当事者の主張に基いて、法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを判断するとき。(意見が前に大法廷でした、その法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するとの裁判と同じであるときを除く。)

 第2号 前号の場合を除いて、法律、命令、規則又は処分が憲法に適合しないと認めるとき。

 第3号 憲法その他の法令の解釈適用について、意見が前に最高裁判所のした裁判に反するとき

 

 このことから、両事件の判決が猿払事件判決と抵触する場合、大法廷で判決をする必要が出てくる。

 また、ここまでの内容を見ると、猿払事件と両事件の判決はその発想が異なり、猿払事件と両立しないように思われる。

 そのため、千葉裁判官は猿払事件との整合性について丁寧な説明をしている

 最初にこの辺を見ておく。

 

 

 まず、千葉裁判官は次のように述べている。

 

(以下、補足意見から引用、文章ごとに改行、一部中略、強調は私の手による)

 猿払事件大法廷判決は,国家公務員の政治的行為に関し本件罰則規定の合憲性と適用の有無を判示した直接の先例となるものである。

 そこでは,(中略),本件罰則規定の禁止する「政治的行為」に限定を付さないという法令解釈を示しているようにも読めなくはない

 しかしながら,判決による司法判断は,全て具体的な事実を前提にしてそれに法を適用して事件を処理するために,更にはそれに必要な限度で法令解釈を展開するものであり,常に採用する法理論ないし解釈の全体像を示しているとは限らない。(中略)

 そうすると,猿払事件大法廷判決の上記判示は,本件罰則規定自体の抽象的な法令解釈について述べたものではなく,当該事案に対する具体的な当てはめを述べたものであり,本件とは事案が異なる事件についてのものであって,本件罰則規定の法令解釈において本件多数意見と猿払事件大法廷判決の判示とが矛盾・抵触するようなものではないというべきである。

(引用終了)

 

 つまり、「大法廷であっても判決は事案に即して出されたものであって、抽象的な違憲審査をした結果ではない。そして、本件の事案と過去の事案に異なる事情がある以上、過去の大法廷判決に矛盾・抵触するわけではない」と述べている。

 この点、日本国憲法違憲審査制は付随審査制であるからそういえなくもない。

 ただ、それだと裁判所法10条1項3号が骨抜きにならないか、と考えられなくもないが。

 

24 補足意見から見る「表現の自由に対する規制基準」一般について

 次に、千葉裁判官は違憲審査の手法について次のように述べている。

 これまた、非常に興味深いので、みてみたい。

 

(以下、補足意見から引用、文章ごとに改行、一部中略、強調は私の手による)

 なお,猿払事件大法廷判決は,本件罰則規定の合憲性の審査において,公務員の職種・職務権限,勤務時間の内外,国の施設の利用の有無等を区別せずその政治的行為を規制することについて,規制目的と手段との合理的関連性を認めることができるなどとしてその合憲性を肯定できるとしている。

 この判示部分の評価については,いわゆる表現の自由の優越的地位を前提とし,当該政治的行為によりいかなる弊害が生ずるかを利益較量するという「厳格な合憲性の審査基準」ではなく,より緩やかな「合理的関連性の基準」によったものであると説くものもある。

 しかしながら,近年の最高裁大法廷の判例においては,基本的人権を規制する規定等の合憲性を審査するに当たっては,多くの場合,それを明示するかどうかは別にして,一定の利益を確保しようとする目的のために制限が必要とされる程度と,制限される自由の内容及び性質,これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を具体的に比較衡量するという「利益較量」の判断手法を採ってきており,(中略)

 この見解を踏まえると,猿払事件大法廷判決の上記判示は,当該事案については,公務員組織が党派性を持つに至り,それにより公務員の職務遂行の政治的中立性が損なわれるおそれがあり,これを対象とする本件罰則規定による禁止は,あえて厳格な審査基準を持ち出すまでもなく,その政治的中立性の確保という目的との間に合理的関連性がある以上,必要かつ合理的なものであり合憲であることは明らかであることから,当該事案における当該行為の性質・態様等に即して必要な限度での合憲の理由を説示したにとどめたものと解することができる(中略)

 そうであれば,本件多数意見の判断の枠組み・合憲性の審査基準と猿払事件大法廷判決のそれとは,やはり矛盾・抵触するものでないというべきである。

(引用終了)

 

 興味深い意見である。

 ぶっちゃけて要約すると、「当罰性の強い(規制の必要性の高い)行為に対する違憲審査は一般論として厳格な基準を用いるべき場合(例えば、表現の自由や集会の自由が問題になる場合)であっても緩やかな基準を用いて判断している」というものである。

 そして、猿払事件は「規制の必要性の高い事案」であったにすぎず、同様の事案でもストレートに適用されるわけではない、と。

 事実、堀越事件ではストレートに適用されなかった。

 

 つまり、補足意見を前提とするならば、司法権を行使する裁判所としては、各事案における具体的妥当性の追求がより大事で、判例の法的安定性はそれほど重視しない」ということが推測できる。

 確かに、このことをうかがわせる最高裁判所の判決は他にもみられている。

 しかし、そうなると、自然科学法則(万有引力の法則など)や社会科学法則と比較して、最高裁判所判例の一般性が弱くなるのではないか、という感想が頭に浮かぶ。

 ただ、これについては「それでいい」というところなのかもしれない。

 

 

 なお、補足意見はこの次に「条文解釈についての意見」が書いてあり(これがあったので、本問の条文解釈は合憲限定解釈なのかただの解釈なのか、という疑問が生じた)、非常に勉強になった。

 これらのことは、今後に生かしていきたい。

 

 

 以上、表現の自由に関する最高裁判決について見てみた。

 本来なら表現の自由に対する内容中立規制(平成3年度の過去問)に関する判決を絡めたほうがいいようにも考えられるが、それをやり出すと問題がさらに拡散するので、今回は割愛する。

 

 次回は、本問の各論に属する部分で私が気になった点を見て、本問の検討を終了する予定である。

司法試験の過去問を見直す9 その8

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成11年度の憲法第1問についてみていく。

 

 なお、最近、「世田谷事件」や「堀越事件」といった表現の自由に関する重要な最高裁判決を詳しく読んだ

 また、今回の過去問検討を逃すと、表現の自由について検討する機会が当分来ないようである(残っている過去問で表現の自由が論点となっている問題は平成7年であるところ、この問題を見るのは当分先の予定である)。

 そこで、ここで「公務員や在監者など憲法上特別な身分を有する者の表現の自由に関する最高裁判決を比較したい。

 

18 在監者関係の表現の自由に関する判例について

 まず、本問と関連の強い在監者に関する最高裁判決を確認する。

 もっとも、判例の詳細はこれまでの検討で見ているため、ここでは結論を確認するにとどめる。

 

 参考にする判例は次の2つである。

 

昭和52(オ)927号損害賠償請求事件

昭和58年6月22日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/137/052137_hanrei.pdf

(いわゆる「よど号ハイジャック新聞記事抹消事件」)

 

平成15年(オ)422号損害賠償請求事件

平成18年3月23日最高裁判所第一小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/855/032855_hanrei.pdf

(以下、「平成18年判決」という)

 

 これらの判決では、未決者・既決者に対する発信の自由(閲読の自由)といった表現の自由憲法21条1項)に制限を加える場合、「相当の(具体的)蓋然性の基準」によって合憲性・合法性の判断している。

 もちろん、施設長の裁量は一部において肯定されるが、その裁量判断も「蓋然性の有無」をめぐって審査される点は変わらない。

 こうやって考えると、裁判所は「在監者の表現の自由の制約に対して『具体的な事情』や『具体的な障害(危険)』を考慮した上で判断する」と言っていいことになる。

 

 ここで、判決における一般論と審査基準の部分をみておこう。

 

(一般論についてよど号ハイジャック新聞記事抹消事件から引用、強調は私の手による)

 これらの自由に対する制限が必要かつ合理的なものとして是認されるかどうかは、右の目的のために制限が必要とされる程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を較量して決せられるべきものである

(引用終了)

 

(未決者の閲読の自由の制限に関する基準についてよど号ハイジャック新聞記事抹消事件から引用、強調は私の手による)

 監獄内の規律及び秩序の維持のためにこれら被拘禁者の新聞紙、図書等の閲読の自由を制限する場合(中略)当該閲読を許すことにより右の規律及び秩序が害される一般的、抽象的なおそれがあるというだけでは足りず、被拘禁者の性向、行状、監獄内の管理、保安の状況、当該新聞紙、図書等の内容その他の具体的事情のもとにおいて、その閲読を許すことにより監獄内の規律及び秩序の維持上放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性があると認められることが必要であり、かつ、その場合においても、右の制限の程度は、右の障害発生の防止のために必要かつ合理的な範囲にとどまるべきものと解するのが相当である。

(引用終了)

 

(上記平成18年判決から既決者の発信の自由の制限に関する基準、強調は私の手による)

 受刑者のその親族でない者との間の信書の発受は,受刑者の性向,行状,監獄内の管理,保安の状況,当該信書の内容その他の具体的事情の下で,これを許すことにより,監獄内の規律及び秩序の維持,受刑者の身柄の確保,受刑者の改善,更生の点において放置することのできない程度の障害が生ずる相当のがい然性があると認められる場合に限って,これを制限することが許されるものというべきであり,その場合においても,その制限の程度は,上記の障害の発生防止のために必要かつ合理的な範囲にとどまるべきものと解するのが相当である。

(引用終了)

 

 以上が在監者の場合である。

 次に、公務員の場合についてみていく。

 

19 公務員の政治的表現の自由に関する最高裁判所判決について

 令和の時代から振り返れば平成24年というと「相当前」と言いうるが、猿払事件に類似した2つの事件に対して最高裁判所の判断が示された。

 一つが堀越事件、もう一つが世田谷事件である。

 この2つの事件は判断された法廷が同じであり、判決日も同一である。

 そして、堀越事件では表現の自由の制約を違法(無罪)とし、世田谷事件では表現の自由の制約を合法(有罪)とした。

 猿払事件を形式的に適用すれば両方とも合法・有罪になると推測されるにもかかわらず、である。

 そこで、この両判決をみていく。

 

 

 なお、これから取り上げる最高裁判所の判決・決定は次の4つである。

 

昭和44年(あ)1501号国家公務員法違反被告事件

昭和49年11月6日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/800/051800_hanrei.pdf

(いわゆる「猿払事件最高裁判決」)

 

平成10年(分ク)1号裁判官分限事件の決定に対する即時抗告事件

平成10年12月1日最高裁判所大法廷決定

(いわゆる「寺西判事補事件最高裁決定」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/800/051800_hanrei.pdf

 

平成22年(あ)762号国家公務員法違反被告事件

平成24年12月7日最高裁判所第二小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/801/082801_hanrei.pdf

(いわゆる「堀越事件最高裁判決」)

 

平成22年(あ)957号国家公務員法違反被告事件

平成24年12月7日最高裁判所第二小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/802/082802_hanrei.pdf

(いわゆる「世田谷事件最高裁判決」)

 

 寺西判事補事件については処分された人間が裁判官(判事補)であるが、それ以外の事件は(行政)公務員がその対象になっている。

 また、本件については次の論文を参考にしているため、そのリンク先を掲載する。

 

国家公務員の政治活動の自由をめぐる二つの東京高裁判決 :堀越事件判決と世田谷事件判決の意義

(著者_長岡 徹、雑誌名_法と政治第61号、発行年2011年1月20日)

https://kwansei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=17989&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

 

 また、事件に関連性のある国家公務員法人事院規則の条文も確認しておく。

 まずは国家公務員法から。

 

国家公務員法102条第1項)

 職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない

 

 なお、この規定に対しては罰則もあり、当時の国家公務員法110条第1項19号、現在では法111条の2号に定められている(当時の条文に従うと刑罰は「3年以下の懲役または100万円以下の罰金」になる)。

 

 また、この法102条1項の「人事院で定める政治的行為」については、人事院規則14条に定められている。

 本件で問題になった条文の14条6項7号を確認する。

 

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=324RJNJ14007000

 

人事院規則第14条第6項

 法第百二条第一項の規定する政治的行為とは、次に掲げるものをいう。

(中略)

 第7号 政党その他の政治的団体の機関紙たる新聞その他の刊行物を発行し、編集し、配布し又はこれらの行為を援助すること。

 

 つまり、党の機関紙を配布する行為は人事院規則第14条6項7号により「政治的行為」となり、その結果、国家公務員法110条1項19号(当時)により刑罰が科されることになる。

 

 以上の資料を見ながら、以下、各事件をみていく。

 

20 猿払事件・堀越事件・世田谷事件の比較

 裁判所は司法権を行使する機関であり、事案から離れて審理する機関ではない。

 つまり、各事案を確認することは極めて重要である

 そこで、それぞれの事案とそれらの事実に対する裁判所の評価を引用して引き抜いて見る。

 なお、予断を排除するなどの理由により、固有名詞は極力排除した。

 

猿払事件

 被告人は郵便局に勤務する郵政事務官で労働組合協議会事務局長を勤めていた

 被告人は、衆議院議員選挙に際し、右協議会の決定にしたがい、党を支持する目的をもつて、同日同党公認候補者の選挙用ポスター六枚を自ら公営掲示場に掲示したほか、その頃四回にわたり、右ポスター合計約一八四枚の掲示方を他に依頼して配布した

 被告人は非管理職である現業公務員でその職務内容が機械的労務の提供にとどまるものであった。

 被告人の行為は、勤務時間外に、国の施設を利用することなく、かつ、職務を利用せず又はその公正を害する意図なく、労働組合活動の一環として行われた

 

(堀越事件)

 被告人は社会保険事務所に年金審査官として勤務していた厚生労働事務官

 被告人は、衆議院議員総選挙に際し、党を支持する目的をもって、同党の機関紙を配布した

 被告人は裁量の余地のない職務を担当する、地方出先機関の管理職でもない

 被告人の行為は、休日に、勤務先やその職務と関わりなく、勤務先の所在地や管轄区域から離れた自己の居住地の周辺で、公務員であることを明らかにせず、無言で、他人の居宅や事務所等の郵便受けに政党の機関紙や政治的文書を配布した

 

(世田谷事件)

 被告人は厚生労働省大臣官房統計情報部社会統計課長補佐として勤務する国家公務員(厚生労働事務官)である。

 被告人は、党を支持する目的で、党の機関紙を投函して配布した

 被告人は同課に存する8名の課長補佐の筆頭課長補佐(総括課長補佐)であった。

 被告人の行為は、勤務時間外である休日に、国ないし職場の施設を利用せずに、それ自体は公務員としての地位を利用することなく行われたものであること、公務員により組織される団体の活動としての性格を有しないこと、公務員であることを明らかにすることなく、無言で郵便受けに文書を配布したにとどまるものであって、公務員による行為と認識し得る態様ではなかった

 

 ところで、堀越事件と世田谷事件の共通項として次の点が挙げてもよいかと考えられる。

 

「勤務時間外(休日)に、国の施設を利用せず、自分の地位とは無関係に行ったもので、配布行為を外部から見て公務員による行為とは認識しえない状況であった」

 

 当然だが、勤務時間内、とか、国の施設を利用した、とか、自分の地位を利用した、とか、外部から見てあの人が公務員と分かった、などの事情があれば、問題、いや、大問題になりうるであろう。

 しかし、堀越事件や世田谷事件にはそのような事情はない。

 そこで、「このような行為に対して刑罰を科してまで制限することで、どんな法益を保護されるというのだ」という問題点が両事件から浮かび上がることになる。

 

21 両事件における法律・規則の合憲性判断

 両事件の原審たる控訴審判決はそのロジックが異なっていた(その点は上記長岡先生の論文に詳しい)。

 他方、最高裁判決においては両事件のロジックが共通している。

 そこで、最高裁判所が示したロジックを見てみる。

 

 最初に、公務員の政治的表現の自由の制限について、最高裁判所は条文解釈として次のようなことを述べている。

 

(以下、両事件の判決から引用、文章ごとに改行、一部中略、強調は私の手による)

 法102条1項は,公務員の職務の遂行の政治的中立性を保持することによって行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持することを目的とするものと解される。

 他方,国民は,憲法上,表現の自由(21条1項)としての政治活動の自由を保障されており,(中略)公務員に対する政治的行為の禁止は,国民としての政治活動の自由に対する必要やむを得ない限度にその範囲が画されるべきものである。

  このような本法102条1項の文言,趣旨,目的や規制される政治活動の自由の重要性に加え,同項の規定が刑罰法規の構成要件となることを考慮すると,同項にいう「政治的行為」とは,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが,観念的なものにとどまらず,現実的に起こり得るものとして実質的に認められるものを指し,(中略)

 上記のような本法の委任の趣旨及び本規則の性格に照らすと,本件罰則規定に係る本規則6項7号,13号(5項3号)については,それぞれが定める行為類型に文言上該当する行為であって,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものを当該各号の禁止の対象となる政治的行為と規定したものと解するのが相当である。(中略)

 そして,(中略)公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるかどうかは,当該公務員の地位,その職務の内容や権限等,当該公務員がした行為の性質,態様,目的,内容等の諸般の事情を総合して判断するのが相当である。

 具体的には,当該公務員につき,指揮命令や指導監督等を通じて他の職員の職務の遂行に一定の影響を及ぼし得る地位(管理職的地位)の有無,職務の内容や権限における裁量の有無,当該行為につき,勤務時間の内外,国ないし職場の施設の利用の有無,公務員の地位の利用の有無,公務員により組織される団体の活動としての性格の有無,公務員による行為と直接認識され得る態様の有無,行政の中立的運営と直接相反する目的や内容の有無等が考慮の対象となるものと解される。

(引用終了)

 

 この条文解釈を見ると、この判決は「具体的事情を見ながら保護法益たる『公務員の職務の遂行の政治的中立性』に対する侵害の危険が発生の有無を考慮する」ことになる。

 このような事情を一切考慮しないと考えられる猿払事件とは雲泥の差である。

 

 その上で、両事件はよど号の事件を引用して「表現の自由に対する制約が認められる際の一般論」を展開している。

 その上で、上記条文解釈を前提とする場合は法令が合憲である旨判示している。

 まあ、このことは上の条文解釈の意義を考えれば当然といえる。

 

 

 ところで、ここまでの手順は寺西判事補事件に対する最高裁判所の決定と発想が類似している

 そこで、寺西判事補事件の最高裁決定を見ておく。

 

 まず、本件とは関連性が乏しいが、裁判官の政治的中立性について色々述べているのでその内容も確認する。

 

(以下、寺西判事補事件の最高裁判所決定を引用、ところどころ中略、強調は私の手による)

 このような司法権の担い手である裁判官は、中立・公正な立場に立つ者でなければならず、(中略)。

 裁判官は、独立して中立・公正な立場に立ってその職務を行わなければならないのであるが、外見上も中立・公正を害さないように自律、自制すべきことが要請される。

 司法に対する国民の信頼は、具体的な裁判の内容の公正、裁判運営の適正はもとより当然のこととして、外見的にも中立・公正な裁判官の態度によって支えられるからである

 したがって、裁判官は、いかなる勢力からも影響を受けることがあってはならず、とりわけ政治的な勢力との間には一線を画さなければならない。そのような要請は、司法の使命、本質から当然に導かれるところであり、現行憲法下における我が国の裁判官は、違憲立法審査権を有し、法令や処分の憲法適合性を審査することができ、また、行政事件や国家賠償請求事件などを取り扱い、立法府や行政府の行為の適否を判断する権限を有しているのであるから、特にその要請が強いというべきである。

(中略)

 裁判所法五二条一号が裁判官の積極的な政治運動を禁止しているのは、右に述べたとおり、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するとともに、三権分立主義の下における司法と立法、行政とのあるべき関係を規律することにその目的があると解されるのであり、右目的の重要性及び裁判官は単独で又は合議体の一員として司法権を行使する主体であることにかんがみれば、裁判官に対する政治運動禁止の要請は、一般職の国家公務員に対する政治的行為禁止の要請より強いものというべきである。

(引用終了)

 

 と述べた上で、裁判所法52条1号の条文解釈について次のように述べる。

 

(以下、決定から引用)

 裁判所法五二条一号の「積極的に政治運動をすること」(中略)とは、組織的、計画的又は継続的な政治上の活動を能動的に行う行為であって、裁判官の独立及び中立・公正を害するおそれがあるものが、これに該当すると解され、具体的行為の該当性を判断するに当たっては、その行為の内容、その行為の行われるに至った経緯、行われた場所等の客観的な事情のほか、その行為をした裁判官の意図等の主観的な事情をも総合的に考慮して決するのが相当である。

(引用終了)

 

 興味深いのは、この決定で最高裁判所が「積極的に政治運動をすること」の条文解釈にあたり、「中立性を損なう危険」を考慮していることであり、要件の判断に関して具体的な事情を考慮して判断している点である。

 このことについては上述の論文で拝見したが、裁判所の発想の変遷が見られるようで興味深い。

 

 こうやって見ると、表現の自由に対する制約について広く認める」という発想(前々回で述べた発想、または、猿払事件の発想と言ってもよい)は少なくても今の裁判所では積極的に採用していないように思われる。

 もちろん、「これですら温い」という批判は十分可能であるとしても。

 

 

 なお、ここからそれぞれの判決は各事案へのあてはめに進む。

 しかし、諸々の引用により既にかなり長くなってしまった。

 そこで、各事案へのあてはめその他については次回に回す。

司法試験の過去問を見直す9 その7

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成11年度の憲法第1問についてみていく。

 

 この点、前々回から憲法外の視点から本問を見ている。

 ただ、前々回からみている論点については今回で終了したい。

 なぜなら、この辺にしないと話に収拾がつかなくなるからである。

 

15 人権享有主体性について

 前々回から死刑囚の発信不許可処分最高裁判決(平成7年(行ツ)66号発信不許可処分取消等事件平成11年2月26日最高裁判所第二小法廷判決、リンクは省略)の反対意見を見ながら、日本教から見た場合の違憲審査基準その他について考えた。

 これは立憲主義的発想と日本教の相性を見るためである。

 

 次に、日本教の観点から見れば、本問のような既決者の発信の自由の制限が問題となる場合、用いるべき違憲審査基準は「『相当の蓋然性』の基準ではなく、『一般的・抽象的なおそれ』の予見で足りると考えているのではないか」という仮説を立ててみた。

 さらに、人権思想と日本教の相性を見る前提として、いわゆる「法律の留保」と「公共の福祉」について比較した(なお、本当は今回のメモで用いる予定であったが、問題点の予想以上の深さから今回は触れない、ただし、いずれ触れたいと考えている)。

 今回は「人権総論の論点(いわゆる人権享有主体性)に関する日本教の評価」をみていきたい。

 

 

 まず、人権の背後にある思想を確認する。

 なお、『痛快!憲法学』の読書メモを活用する。

 

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 この点、人権がキリスト教、または、ジョン・ロックの思想を前提としているのは既に見てきた通りである。

 概要を確認すると次の通りとなる。

 

1、人権は前国家的なものであるから、『人』であれば等しくその権利がある

(生命・自由・財産の不可侵)

2、社会を営む都合上、人々は社会契約=憲法を締結し、政府に与えた

(社会契約説)

3、契約=憲法や政府の行為に不適切な部分が現れれば、人々はそれを改廃できる

(抵抗権)

 

 この思想が生活と関連している、また、この思想を採用するという意思があるので、アメリカとヨーロッパでは憲法が実効的に機能している面がある。

 では、日本ではどうか。

 

 

 ここで、福沢諭吉の『痩我慢の説』を取り上げる。

 というのも、この文章の序論で興味深いことを述べているからである。

『瘦我慢の説』の序文は「立国は私なり、公に非ざるなり」から始まるわけだが、その後に次の文章が続く。

 

(以下、『痩せ我慢の説』から引用、強調は私の手による、リンクは後述)

 地球面の人類、その数億のみならず、山海天然の境界に隔てられて、各処に群を成し各処に相分止むを得ずといえども、各処におのおの衣食の富源あれば、これによりて生活を遂ぐべし。

 また或は各地の固有に有余不足あらんには互にこれを交易するも可なり。

 すなわち天与の恩恵にして、耕して食い、製造して用い、交易して便利を達す。

 人生の所望この外にあるべからず。

(引用終了)

 

 そして、この後、「なんで人間は勝手に境界を引いて国家を作るんだ?(以下略)」と続く。

 もちろん、福沢諭吉の主張は引用後に続くわけだが、ここではその前段階の認識の部分を見ておきたい。

 

 ここで、福沢諭吉は「生きる上で望むこと」として、「天からもらった恩恵(太陽光や土地や海の恵み)を用いて、(勤労により)農作物を生産して食べ、(勤労により)道具を作って用い、余剰・不足分があればそれを(勤労により)交換して豊かに生きる」と述べている。

 実は、この福沢諭吉の発想とロックの思想の背後にある「勤労の思想」は似ているなあ、と考えるがどうなのだろう。

 

 

 もっとも、この福沢諭吉の発想が当時の臣民、または、現在や将来の国民に共有されているかは分からない。

 そこで、山本七平氏や小室直樹氏らの書籍を見ながらこの辺を考えてみる。

 参考にする書籍や読書メモは次のとおりである。

 

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 それから、読書メモは作っていないが、最近読んだ次の書籍も参考にしたいと考えている。

 

 

 

 

 

 この点、資本主義・立憲主義・民主主義を成立させたキリスト教の特徴として次の要素がある。

 

キリスト教

救済は個人単位

規範なし(ただし、信仰は求められる)

原則予定説

崇拝対象は「一つの絶対神

ユダヤ教から派生(契約準拠)

 

 他方、私は上記書籍を通じて「日本教」の概要として次のような輪郭を作っている。

 

日本教

救済は集団単位

規範なし(「空気」が規範として機能する)

予定説(無条件救済)

崇拝対象は「周囲の多数ある自然その他(多神教)」

 

 

 以上を前提に、日本教から「人権の固有性・不可侵性・普遍性の原則」という人権総論の核に属する発想(人権享有主体性)までリンクさせることができるであろうか。

 現時点で結論を出せばかなり苦しいと考えられる。

 もちろん、憲法」に「空気」が伴わせれば十分に可能であるが、それについては今回は考えない。

 また、一時的に憲法に「空気」を伴わせたところで、「水」を差され続ける結果として「空気」は雲散霧消するので、この手段はあまり意味がないと考えている。

 

 苦しいと考える大きな要素が「集団単位」と「多神教という組み合わせである。

 人権思想を持つキリスト教一神教」+「個人単位」+「規範なし」という組み合わせである。

 これに対して、日本教多神教」+「集団単位」+「規範なし」という組み合わせである。

 とすれば、救済単位は集団であって、個人でない

 つまり、人権享有主体性の「個人」の部分が出てこない(人権の固有性の不在)。

 

 また、多神教である結果、全員が信仰する対象はある種ばらばらである。

 その結果、「(等しい)権理」という統一概念に持っていくことが容易ではない(人権の普遍性の不在)。

 

 以上より、日本に妥当するものは「人権」ではなく「家権」のようなものではないかと考えられる。

 もちろん、「家」の部分には、「団体」・「企業」・「村落」・「共同体」を代入してもよい。

 

 また、日本で個人の権利保護をうたうなら、そのような「家権」のようなモデルを前提として、個人を可及的に保護する体制を作った方がいいのかもしれない、と考えることもある

 もちろん、現在の日本のプレゼンスの大きさと国際化の流れを考えれば、現実的には不可能だろうが。

 さらに言えば、私個人としては流浪の民のような状況であり、人権モデルの方が圧倒的に有利であり、「家権」を前提とするようなモデルを望む気はほとんどないのだが。

 

 

 ところで、以前からこの問題について一度検討したいと考えていたが、考えていたよりもずっと奥が深すぎる。

 よって、今回の検討はこの辺で終え、もう少し書籍を読んでから取り組みたい。

「これでは『尻切れトンボ』であり、『検討不十分』ではないか」という批判は十分承知の上で。

 

 最後に、憲法の前提たる「社会契約」の観点から見た気になる点を取り上げ、この手の問題を終わりにする。

 

16 論理の拒絶について

 最近、私は『数学嫌いな人のため数学』を読んでいる。

 そして、この本を見ていて、憲法との関係で重要なことが書かれていたので、それを確認する。

 それがいわゆる「『空』の思想」と「論理の否定」である。

 

『数学嫌いな人のための数学』では、「『空』の思想」と数学や資本主義との相性の悪さについて述べているが、同様に立憲主義との相性の悪さも示していることになる。

 何故なら、アメリカ・ヨーロッパにある立憲主義・民主主義・資本主義の背後にあるものは同じだからである。

 

 さらに言うと、この「『空』の思想」と「論理の否定」は問題の解明を複雑化している

 何故なら、「論理の肯定」がある場合、両者の思想を言語化して比較参照することができる一方、「論理の肯定」がない場合、それができないからである。

 このことは「キリスト教イスラム教の比較」・「キリスト教儒教の比較」が日本教との比較と比べて容易であることから推測することができる。

 そして、そう考えるとこの問題に踏み込むことに躊躇せざるを得ない。

 まあ、対外的な要請に応じてこの問題を見ているわけではないので、別に踏み込むことをやめてもいいのだけれども。

 

 

 以上、憲法について日本教から見えるものを考えてみた。

 まあ、「結局のところ、よくわからない」以外の感想がないけれども。

 

 次回は公務員・在監者に対する表現の自由に関する最高裁判決をみていきたい。

カタカナ民法から見える世界

 私が旧司法試験の勉強を開始した2004年(平成16年)、民法が改正された

 そして、その翌年からカタカナの民法ではなく、現代語となった民法が施行されるようになった。

 

 この「民法の現代語化」については次のウィキペディアの記事で紹介されている。

 

ja.wikipedia.org

 

 21世紀から見た場合、2003年時点の民法、つまり、2004年に改正される前の民法には「いつの時代やねん」と突っ込みを入れたくなる条文がいくつか存在した

 例えば、次の2つの条文が挙げられる。

 

(以下、旧民法の条文については次のサイトのものをお借りした)

http://roppou.aichi-u.ac.jp/joubun/m29-89.htm

 

(改正前民法)第310条
 日用品供給ノ先取特権ハ債務者又ハ扶養スヘキ同居ノ親族及ヒ其僕婢ノ生活ニ必要ナル最後ノ六个月間ノ飲食品及ヒ薪炭ノ供給ニ付キ存在ス

(改正前民法)第317条

 旅店宿泊ノ先取特権ハ旅客、其従者及ヒ牛馬ノ宿泊料並ニ飲食料ニ付キ其旅店ニ存スル手荷物ノ上ニ存在ス

 

 ちなみに、現在、これらの条文は次のようになっている。

 

民法310条)

 日用品の供給の先取特権は、債務者又はその扶養すべき同居の親族及びその家事使用人の生活に必要な最後の6箇月間の飲食料品、燃料及び電気の供給について存在する。

民法317条)

 旅館の宿泊の先取特権は、宿泊客が負担すべき宿泊料及び飲食料に関し、その旅館に在るその宿泊客の手荷物について存在する。

 

 今一度確認するが、上のカタカナの民法は2004年まで有効に使われていたものである。

 21世紀の観点から見てみると、使われている言葉がすごい。

 

 例えば、「僕婢」

 これはいわゆる「家事使用人」のことである。

 例えば、薪炭油」

 薪と炭と油、つまり、燃料費(光熱費)のことである。

 例えば、「従者」と「牛馬」

「『従者』っていつの時代だよ」って突っ込みたくなる。

 あるいは、「『牛馬』って何ぞや」という突っ込みも入るであろう。

 

 

 もっとも、以上の私の感覚は21世紀から見たために生じたものである。

 別の観点から見れば、例えば、次の読書メモの観点から見れば、異なるものが見えることになる。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 つまり、この民法が成立したのは明治29年(1896年)である。

 明治29年とは、明治政府が日清戦争で清に勝利して下関講和条約を締結した次の年のことである。

 そして、この条文の記載が当時の実情だったことになる

 この点は、私がどういう感想を持とうが変わることはない。

 

 つまり、この時代は家事使用人としての「僕婢」がおり、燃料として「薪」や「炭」や「油」(灯油)が用いられていた。

 また、旅行においては主人に対して「従者」や「牛馬」が随行していくこともあった。

 そして、317条の先取特権は「従者や牛馬に関する宿泊料」に関して主人の手荷物などを担保(先取特権)にすることを認めていたわけである。

 

 そして、明治29年と2003年との間には約100年の時間差しかない。

 この100年で日本も世界も大きく変わったことになる。

 

 さらに、戦後、民法家族法の部分は改正され、カタカナから平仮名になった。

 これに対して、財産法の部分は改正されなかった。

 このことから、「戦後直後も明治時代と大差なかった」と推測することができる。

 このことは『危機の構造』の第1章の記載からも推測することができる。

 そうすると、高度経済成長というのはすごいなあ、と考える次第である。

 

 

 ちなみに、私が司法試験の勉強を開始した2004年2月、刑法は既に平仮名になっていた。

 また、商法は2005年に会社法が成立して、商法の会社に関する条文が平仮名になった。

 そのため、司法試験の勉強中に商法に関する条文が大きく変わってしまい、そのために苦労した記憶がある

 もっとも、司法試験や法律から離れた今となっては過去の思い出の一部に過ぎない。

 

 あと、日本国憲法について見てみると、憲法自体は平仮名であるが、旧仮名遣いになっているところがいくつかある。

 例えば、前文第二段の「われらは、(中略)を地上から永遠に除去しようと努めてる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思。」とか。

 または、「行」・「失」・「負」となっている条文とか。

 もしくは、憲法82条2項但書の「(中略)国民の権利が問題となつてる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。」とか。

 このような文言が時代を感じさせるのだなあ、と考える次第である。

 

 

 ところで、今年の1月某日、カタカナ民法の条文に関する話をネタとして話そうと考えていた。

 そして、上に記載したカタカナ民法の条文をコピペして(昔の民法の条文を暗記することはめんどくさい)、コピペしたデータをテキストファイルに保存し、スマホへデータをコピーして持っておいた。

 もちろん、話をする際に条文を確認するためである。

 

 しかし、「いざ、話をしよう」とスマホに移したテキストデータを開いたら、そこにあるのは文字化けた文字が・・・

 条文が言えない状況では話ができないので、急遽別の話をしてなんとか間を持たせたが・・・。

 そのため、このネタについて話をするのは少し先になりそうである。

 

 

 最近、カタカナ民法にまつわる話をしようと考えたので、備忘のために残す。

 今後、このことで話をしようとした場合、このブログにアクセスすれば話ができるので。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 13

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

13 第3章の第2節を読む(前編)

 前節では、日本教徒が無意識に持っている「空」の思想と数学的思考の相性の悪さについてみてきた。

 今の日本を見るに、本書の説明は非常に説得的に感じられる(「単純に過ぎるのではないか」という疑問はあると考えられるが、そもそも学問は単純なモデルからスタートするものである)。

 

 第2節のタイトルは「資本主義的私的所有権の絶対性と抽象性」。

 似たような話は既にいくつかのメモで触れている(具体的なメモは次の通り)が、「数学と資本主義の関係」と「日本の現状」を加えて見直していくことにする。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

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hiroringo.hatenablog.com

 

 

 日本教徒の数学の論理(同一律矛盾律排中律)の不在、これが日本の資本主義と民主主義にどのような影響を与えたか。

 それを見ていくのが本節である。

 

 上の読書メモでも触れられているが、近代資本主義の前提にある重要な要素が「私的所有権」である。

 そして、この「私的所有権」には①所有権の絶対性、②所有権の抽象性という特徴がある

 また、これまでの歴史を見る限り、この「私的所有権」という概念は近代資本主義のみが持つ特徴である。

 

 ここで、日本で私的所有権が法律上保障されている条文・判例などを確認しておく。

 まず、憲法29条1項で財産権不可侵の原則を明示し、同時に我が国が私有財産制度を保障することが示されていると言われている。

 以上のことは次の最高裁判所を根拠にすることができる。

 

昭和59年(オ)805号共有物分割等事件

昭和62年4月22日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/203/055203_hanrei.pdf

(いわゆる「森林法共有林事件」)

 

 次に、「所有権の抽象性」については次の2つの条文が参考になるのではないかと考えられる(なお、ここでは不動産のみ対抗要件の条文を掲げる、動産は「占有」概念がかなり複雑なので省略する)。

 

民法176条

 物権の設定及び移転は、当事者の意思表示のみによって、その効力を生ずる。

 

民法177条

 不動産に関する物権の得喪及び変更は、(中略)その登記をしなければ、第三者に対抗することができない。

 

 つまり、不動産の譲渡を受けた場合、その所有権を第三者に主張するために必要なものは「譲渡に関する当事者の合意」(契約書は必ずしも不要)と「所有権移転登記」だけである。

 不動産の管理状況・占有状況がどうなっているかどうかということはほとんど関係ない。

 つまり、不動産の管理・占有状況とは独立して所有権を主張できるわけで、これぞ所有権の抽象性を示していることになる。

 

 また、所有権の絶対性については以前掲げた民法206条が参考条文になる。

 

民法206条

 所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分をする権利を有する。

 

 

 以上を前提として、この所有権に話を移す。

 この所有権が近代国家の主権と同じ構造をしているということは以前のメモで述べた通りである。

 そして、近代国家以前のヨーロッパには近代国家に存在する絶対的な主権はなかった。

 この主権に関しては次のメモが参考になる。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 その結果として、というわけではないが、近代国家前のヨーロッパにも私的所有権はなかった

 私的所有権に関する資本主義と伝統主義の衝突の具体例として、本書はアメリカのハワード・ヒューズの例が掲載されている。

 これは次のようなお話である。

 

 ハワード・ヒューズの父親は削岩機会社で大成功を収めたが、ハワードが18歳のときに亡くなった。

 そこで、ハワードが父親の会社の権利・財産を継いだ。

 ところが、ハワードはその会社を売り払って映画会社を立ち上げようとする。

 周りの親族はこれを見て大慌て、「若旦那の暴挙」と大反対をし、親権を発動して裁判になった。

 もっとも、アメリカは資本主義の国、「遺産をどう使おうが当人の勝手(所有権の絶対性)」という理由によりハワードが勝利した。

 その後、ハワードは映画会社を成功させ、事業をどんどん拡大させていくことになる。

 これが資本主義のモデルタイプである。

 この背後には、「資本主義では資本家(所有者)が決定の責任とリスクを負う」というものがある。

 

 もっとも、これをみて「うーん」と思う日本教徒が多いだろう。

 その直感は決して間違いではない。

 というのも、資本主義の国でなければこのようなことは基本的には生じないのだから。

 例えば、伝統主義の国で、かつ、所有と経営が分離している場合、若旦那は所有者だが決定しない、また、経営者が従前の伝統に従って削岩機会社の経営を続けることになるのだから。

 

 本書はここで資本主義に必要とされる「創造的破壊」について触れられている。

 これについては次のメモが参考になる。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

  そして、資本主義においては「革新(=創造的破壊)」こそ資本主義の命である

 これがなければ、資本主義は瓦解してしまう。

 

 この「革新」という資本主義の命を絶やさないため、抽象性と絶対性の両性質を兼ね備えた私的所有権とそのような所有権を持った資本家の存在が重要になる

 何故なら、所有なき経営(委任を受けて業務を行う取締役をイメージせよ)においては、資本主義体制であっても会社の前提を崩すことはできないのだから(それは委任の範囲外である)。

 

 また、所有権に抽象性と絶対性が備わった結果、所有権が形式合理化(計算可能化・数学化)した

 その結果、資本家も自分の決定に対する合理的計算が可能となって、合理的経営ができるようになったのである。

 

 しかし、このような所有権は資本主義以外ではなかった

 もちろん、それは日本もヨーロッパも変わりはない。

 本書では、鎌倉時代に作られた貞永式目の「悔還し権」が紹介されている。

 また、中世ヨーロッパでも上級所有権・下級所有権のような概念があり、土地の譲渡や相続においては多数の当事者がかかわることになった。

 この点は以前のメモで述べたとおりである。

 

 もちろん、所有権の絶対化が適さない例も現実に存在する。

 それゆえ、現代においても一定の例外がある。

 例えば、共有・合有・総有といった複数の所有者がいる場合。

 あるいは、地上権・永小作権・入会権・地役権といった物権。

 ただ、これらは例外として扱われている。

 

 そしrて、私的所有権の特色はいわゆる「交換対象としての商品」や「財貨」の特色と同様である

 このことを鋭く指摘したのがかのマルクスである。

 そして、商品においても絶対性や抽象性といった特徴を挙げることができる

 

 では、「商品の絶対性」はどこから来たのか。

 それは商品交換から生まれたと言われている。

 そのため、資本主義においては商品交換が生命線であり、これがストップすれば資本主義はストップすることになる。

 そのことは、資本主義の発生条件のうちの客観的な部分(大量の資本・高度な技術・商業や流通の発達)からもわかる。

 また、商品には貨幣や物品だけではなく、証券・サービス・労働・情報が含まれている。

 このことから、商品にも所有権の抽象性の要素があることがわかる。

 

 また、商品の流通を考える際には、「商品の資本主義的生産」と「商品の資本主義的消費」の要素が含まれている

 資本主義的というとわかりにくくなるが、具体化すると「利潤の最大化のための生産」と「効用の最大化の消費」という言い方にできる。

 ぶっちゃけて言えば、「利益を高めるために合理的に生産して販売しよう」・「快楽や目的をより達成得られるようにするため合理的に購入して消費しよう」となる。

 イメージするなら、「製造過程の無駄を省いて利益を上げる」とか「同等の商品を安く買って消費する」といったものがいいだろう。

 

 この点、イメージ(安く買う、利益をあげる)から逆算した場合、商品の流通における資本主義的生産・消費に対して「こんなの当然ではないか」と考えるかもしれない。

 しかし、「商品の資本主義的生産・消費」は市場の自由がなければ成立しない

 さらに言えば、市場がレッセ・フェールだから当然なのである。

 そして、市場の自由は資本主義だからこそ達成されたのであって、すべての経済においてそうなのではない。

 このことは、現在の弱者保護のための福祉的ルールを見ればイメージできるが、ここでは、中世のギルドの例が挙げられている。

 

 例えば、中世のギルドは各企業を厳しく統制していた。

 その結果、ギルドのルールを無視して利潤の最大化を目指すことができなかった。

 あるいは、フランス革命前夜のフランスでも工業の統制が行われていた。

 このような例は枚挙にいとまがない(徳川時代の日本も一種の「専売」制度があった、この点はいずれ、山本七平氏の書籍の読書メモで確認したい)。

 

 以上をまとめると、我々が一種の当然と考えている「利潤・効用最大化のための生産・消費」は資本主義だからできたことであって、資本主義以外の社会であればギルドや慣習や政府が人民の所有権に介入しまくっていた。

 その結果、決められたルール以外の使用ができず、合理性追求など不可能だったのである。

 

 

 ところで、本書では「マイナスの所有の数学化」というタイトルのコラムがある。

 このコラムは数学と経済学のイメージの双方に役に立ちそうなので考えてみる。

 

 数学においてマイナスの概念は導入しがたいかもしれない。

 しかし、資本主義においてマイナスの概念はある程度すんなり入る

 というのは、具体的なイメージが容易だからである。

 例えば、「財産がマイナス」とは「所持している財産よりも借金が多い」とイメージできる。

 また、「所得がマイナス」とは「利益よりも損失が多い」とイメージできる。

 もちろん、そんな事業は長続きしないだろう(道楽目的や持ち出し覚悟のボランティアでもない限り)。

 また、このような事業を継続するよりは別の仕事をした方がいいとも考えられる。

 よって、例外的な場合に該当するであろうが。

 さらに、「マイナスの価格を持つ商品」も「お金を払わなければ引き取ってもらえない商品」とイメージできる。

 

 ところで、これらの「マイナス」概念も商品の抽象化・絶対化から発生している

 というのも、所有と占有が分離していなければ(商品の抽象化が成立しない)、マイナスの所有はあり得ないのだから。

 

 この「所有概念の数学化」は時代を経るにしたがって成長・発展した。

 まずは、プラスとマイナスの概念の導入からである。

 加減概念は商品交換からスタートし、貨幣を経て一般化した。

 というのも、商品を交換するためには、交換の基準が必要となるからである。

 

 しかし、価値が一元的に指標化できるとは結構すごいことである

 さらに言えば、米ならば米の範囲で同一と言われ、数量計算されうることももっと驚くべきことかもしれない

 これらは我々が当然だと思っている部分でもあるが。

 

 

 以上、所有権の絶対性について確認した。

 ここから、所有権の抽象性についてみていくわけだが、相応の分量になってしまったので、続きは次回に。

司法試験の過去問を見直す9 その6

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成11年度の憲法第1問についてみていく。

 そして、前回から憲法外の視点から本問を見ている。

 今回はその続きである(なお、あと2回ほど続く予定である)。

 

 なお、色々と考えてはいるものの、「よくわからない」以外の感想が出てこない

 ただ、この点は以前から一度考えてみたいことであったので、収拾がつかないことが明白になるまで続けていくことにする。

 

13 原則と例外の割合

 前回は、「法の支配」による原則論と反対意見の共通性を確認した。

 その上で、反対意見に掲げた基準自体を前提として、その上で、立法事実を用いて反対意見に反論できるかをみてきた。

 また、その反論はあまり意味がなさそうなことも確認した。

 

 しかし、できる反論は他にもたくさんあるので、それらについてみていきたい。

 次の反論は次のとおりである。

 

 死刑囚の場合(なお、監獄法を見れば、受刑者も同様である)、いわゆる「相当の蓋然性」がなくても、「一般的・抽象的なおそれ(可能性)」があれば制限できる。

 そして、本件の基準はその基準を満たしているので、例外として正当化される。

 

 もし、「いわゆる『公共の福祉』はマジックワードである」と考えていれば、これがメインの反論になる

 そこで、この点を見ていく。

 

 

 この点、河合裁判官は反対意見に「(注)」というものを掲載して、次のようなことを述べている。

 

(以下、反対意見から引用、各行ごとに改行、強調は私の手による)

注 最高裁昭和五二年(オ)第九二七号同五八年六月二二日大法廷判決・民集三七巻五号七九三頁参照。

 なお、右判例が刑事被告人の新聞等閲読の自由の制限について示している適法性判断基準は、拘置所長の裁量に関する部分を含め、基本的には、死刑確定者の発信の自由の制限についても妥当するものである

 たしかに、刑事被告人と死刑確定者との間には、大きな相違がある。

 刑事被告人は、無罪の推定を受け、原則として一般市民と変わらない自由を享受すべき者であるのに対し、死刑確定者は、既に有罪が確定し、しかも極刑の宣告を受けている者である。

 そのため、拘禁の目的あるいは監獄内秩序等の障害が発生する可能性が高く、その防止のため心情の安定に配慮する必要もはるかに強いであろう

 しかしながら、右のような相違は、すべて、右判例の判断基準を適用する場合の判断要素として考慮すれば足りることである。

 少なくとも、死刑確定者の発信の制限について右判断基準を全面的に排除する理由となるものではない

(引用終了)

 

 つまり、いわゆるよど号事件の「相当の蓋然性の基準」は未決者の閲読の自由だけではなく、死刑囚の発信の自由にも適用されると述べている。

 また、本問で紹介した平成18年度の最高裁判決(リンク先省略)も受刑者の発信の自由について同様のことを述べている。

 一応、該当部分を引用しておこう。

 

(以下、平成15年(オ)422号損害賠償請求事件・平成18年3月23日最高裁判所第一小法廷判決から引用、各文毎に改行、強調は私の手による)

 監獄法46条2項の(中略)目的にかんがみると,受刑者のその親族でない者との間の信書の発受は,受刑者の性向,行状,監獄内の管理,保安の状況,当該信書の内容その他の具体的事情の下で,これを許すことにより,監獄内の規律及び秩序の維持,受刑者の身柄の確保,受刑者の改善,更生の点において放置することのできない程度の障害が生ずる相当のがい然性があると認められる場合に限って,これを制限することが許されるものというべきであり,(中略)

(引用終了)

 

 このことから、最高裁判所は平成11年以降、反対意見の方向に舵を切ったと言えなくもない。

 

 ただ、ここでは敢えて反論とその論拠などを考えてみる。

 もちろん、現在の時点で私はこの最高裁判所の意見や反対意見に賛成の立場なのだけれども(でなければ、本問の結論を違法にしていない)。

 

 

 まず、「具体的な障害が生じる(相当の)蓋然性がなければ権利の制約ができない」、つまり、「一般的抽象的なおそれがあるだけでは権利の制約はできない」という部分に「一般的抽象的なおそれ(危険の可能性)があれば、表現の自由を制約してもいいではないか?」と言う反論を加えてみる。

 

 ここで参照したいのが、何度も紹介している猿払事件最高裁判決である。

 合理的関連性の基準として何度も引用している部分を改めて引用する。

 

昭和44年(あ)1501号国家公務員法違反被告事件

昭和49年11月6日最高裁判所大法廷判決(いわゆる「猿払事件」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/800/051800_hanrei.pdf

 

(以下、いわゆる猿払事件最高裁判決から引用)

 右のような弊害の発生を防止するため、公務員の政治的中立性を損うおそれがあると認められる政治的行為を禁止することは、禁止目的との間に合理的な関連性があるものと認められるのであつて、たとえその禁止が、公務員の職種・職務権限、勤務時間の内外、国の施設の利用の有無等を区別することなく、あるいは行政の中立的運営を直接、具体的に損う行為のみに限定されていないとしても、右の合理的な関連性が失われるものではない。

(引用終了)

 

 この猿払事件という表現の自由に関する極めて重要な判決によれば、「おそれ」がある表現行為、しかも、政治的表現の自由という参政権にもかかわるものに対して包括的に制限をかけてもよい(合憲である)と述べている

 ならば、死刑囚に対する発信の自由に対しても同じように障害の発生する「おそれ」(一般的抽象的可能性)がありさえすれば制約してもよい、と考えることは不思議ではない

 

 そして、この前提に立った場合、受刑者や死刑囚の信書の発信によって「秩序維持ができない障害が発生する一般的抽象的なおそれがある」とさえ言えないことはないだろう。

 特に、死刑囚に関してその危険性が高いことは河合裁判官の反対意見でも否定していないのだから。

 その結果、これらの基準は例外として正当化されることになる。

 

 これが、この反論のロジックである。

 猿払事件という超著名な、しかも、現時点まで判例変更されていない判例を使った反論である以上、それなりの説得力を持たせることができる。

 

 

 当然だが、この反論に対して「この反論は表現の自由の重要性、特に、自己統治の価値を軽視している」という再反論は可能である。

 事実、猿払事件最高裁判決にはこのような批判があるのだから。

 また、これらの再反論が不合理であるとは考えられない。

 しかし、それは民主主義や立憲主義から見て妥当な意見であるに過ぎない。

 つまり、日本教から見てその再反論が妥当であるとは限らない。

 そして、日本に根付く「事大主義」から見た場合、①議会や政府が権力を持っていること、②その議会や政府が認めた権利の制限であることの2点から、権利の制約は広く認められるという発想になりやすいように推測できる。

 どうなのだろう。

 

 私はこの要素は相当強いのかな、と考えている。

 そして、その強いことを支えているのが、そもそものロジックを構成する人権享有主体性の問題である。

 何故なら、人権享有主体性を認めれば認めるほど例外は限定的になる一方、認めない方向で考えるならば例外は広く認められることになるからである。

 そこで、以下、人権享有主体性という原則論についてみていく。

 

 ただ、人権享有主体性それ自体の問題の前に、大日本帝国憲法で用いられていた「法律の留保」という概念も見ておきたい。

 そこで、法律の留保に関する一通りの知識をまとめておく。

 

14 法律の留保の歴史的経緯

 前回、大日本帝国憲法には人権規定に「法律の留保」がついていた旨述べた。

 そして、この「法律の留保」は必要十分条件である。

 その結果、「公共の福祉」との共通点として「法律上の根拠のない権利制約はできない」という点と、「公共の福祉」との違う点として「法律上の根拠があれば権利制約ができる」という点がある。

 つまり、「法律の留保」には立法の暴走(立法行為と立法内容の不合理性)を止める手段がないという限界がある。

 例えば、たとえ法律による権利制約が不合理極まりないもの(例えば、治療薬が広まったあとのハンセン病の隔離政策や合理的根拠のない選挙権のはく奪など、立法不作為国賠訴訟になった事件など)であったとしても、裁判所は違憲判断ができないことになる(裏技的な救済はできなくはないだろうが、国会が判断を改めない限り抜本的な判断はできない)。

 つまり、「裁判所が立法内容・立法行為に対して違憲判断ができるか」という違いが「法律の留保」と「公共の福祉」の大きな違いになる。

 

 

 ところで、戦前からこの現象を見た場合、この「法律の留保」は世界的に見て特異な現象ではない。

 なぜなら、違憲立法審査権を認めていた近代国家は多くなかったからである。

 例えば、立憲君主国たるイギリスは議会主権の国であって、議会に対する違憲審査権がないと言われている。

 また、大陸系のフランスやドイツで違憲立法審査権が認められたのは戦後である。

 この背後には、ヨーロッパでは王政とそれに与した裁判所に対して国民が対抗したという歴史がある。

 その結果、これらの国では議会制への信頼が厚い(司法に対する信頼が薄い)という事情がある。

 一方、議会制が発展していたイギリスから独立したアメリカは逆に議会への信頼が(相対的に)薄い

 そのため、独立直後、早い段階から違憲立法審査権判例上認められていた。

 

 もっとも、第二次世界大戦がその流れを変えることになる

 例えば、ワイマール共和国は全権委任法の可決によって自身の憲法を死文化させてしまった。

 その結果、憲法第二次世界大戦を止められなくなるのは歴史が示すとおりである。

 このような結果、ドイツでは憲法裁判所、フランスでも憲法院が作られ、議会に対するコントロールがなされるようになる。

 

 以上は、「法律」の信頼度(違憲立法審査の可否)についての歴史的経緯である。

 そして、この話になるとヨーロッパやアメリカの傾向が出てくる。

 もっとも、この話で「日本はどうなのか」ということは司法試験の勉強をしていたころはあまり見なかったような気がする

 どうなのだろう。

 

 この点、欧米を簡単に類型化すると次のようになると言われていた。

 

イギリス・裁判所_信頼、議会_信頼

アメリカ・裁判所_信頼、議会_不信

戦前のフランスとドイツ・裁判所_不信、議会_信頼

 

 司法試験を勉強していたころ、私は自身の感想として「日本はどちらにも信頼がないのかなあ」という感覚を持っていた。

 ただ、正確に述べるなら「日本の場合、いずれにも関心がない」なのかもしれない。

 もちろん、その場合、信頼でも不信(いずれも関心がある、が前提になる)でもなくなるわけだが。

 

 

 以上、法律の留保についてあれこれみてきた。

 これも考慮しながら、原則論たる「人権享有主体性」・「憲法上の権利として保護されうること」についてみていきたい。

 ただ、既にそこそこの分量になっているので、続きは次回に。

司法試験の過去問を見直す9 その5

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成11年度の憲法第1問についてみていく。

 そして、ここからは憲法外の視点から本問を見ていく。

 ただ、今回は少し長くなってしまったので、複数回にわける。

 

11 受刑者などの人権享有主体性

 まずは、人権享有主体性の問題である。

 日本教は本問のような受刑者に人権享有主体性があると考えているのか

 

 まず、出発点として前回引用した平成11年判決の河合裁判官の反対意見から見てみる。

 確かに、この判決の原告は死刑囚であって、受刑者ではない。

 しかし、「有罪が確定している点」・「身体拘束を受けている点」では受刑者も同様である。

 その意味で、両者はセットで考えることができるので、両方について考えていく。

 

 

 まず、この反対意見では、「憲法上の権利の制約」に関する原則と例外について次のように述べている。

 

平成7年(行ツ)66号発信不許可処分取消等事件

平成11年2月26日最高裁判所第二小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/789/062789_hanrei.pdf

 

(上記判決の反対意見から引用、章番号などは省略、強調は私の手による)

 他人に対して自己の意思や意見、感情を表明し、伝達することは、人として最も基本的な欲求の一つであって、その手段としての発信の自由は、憲法の保障する基本的人権に含まれ、少なくともこれに近接して由来する権利である

 死刑確定者といえども、刑の執行を受けるまでは、人としての存在を否定されるものではないから、基本的にはこの権利を有するものとしなければならない

 もとより、この権利も絶対のものではなく、制限される場合もあり得るが、それは一定の必要性・合理性が存する場合に限られるべきである。

 すなわち、死刑確定者の発信については、その権利の性質上、原則は自由であり、一定の必要性・合理性が認められる場合にのみ例外的に制限されるものと解すべきであって、監獄法四六条及び五〇条の規定も、この趣旨に解されることは明らかである。

(引用終了)

 

 以上の反対意見は日本国憲法が採用する「法の支配」(法治主義ではない)を前提にすれば当然の主張である。

 なお、細かく見ていくため、上の主張を2つのブロックによって整理する。

 

(人権享有主体性について、ロジック1)

(べき論)「生物上の人間」、かつ、「日本国籍を持つ者」には憲法上の権利(本問ならば発信の自由)が原則として保障される

(事実)本問の死刑囚は、「生物上の人間」であり、「日本国籍もある」

(結論)本問の死刑囚には発信の自由が憲法上の権利として保障されうる

 

 

 このロジック、その内容に理解できない、ということはないであろう。

 では、この結論に賛同できるであろうか?

 さらに言うと、賛同することの帰結が分かるであろうか?

 

 なお、「空気的にオッケーだけど・・・」ということは気にしなくていい。

 また、「『賛成できない』という意見はどうか」という点も気にしなくていい。

 さらに、そのことを誰かに表明しなくていい。

 

 というのも、犯罪被害者やまたこの関係者がこの結論に耐えられないということはあり得ない話ではないからである(私がその立場に立たされた時にどうなるか、「それはそれとして・・・」と言えるか、私には判断できない、少なくても、今と逆の結論にならないことに自信はない)。

 

 まあ、このロジック自体は反対する人はそれほど多くはないだろう。

 しかし、これを認めた瞬間、程度の差があれ、次の帰結が成立することになる。

 では、次のロジック2は受け容れられるであろうか。

 実務その他を見る限り、これは日本社会では受け入れられていないように思われる(その旨は反対意見に書いてある)。

 

(ロジック2、公共の福祉による制約)

(帰結としてのべき論)公共の利益の実現を目的とした合理的な手段がある場合に限り、憲法上の権利は制約できる(この両条件を満たすと言えない場合は、制約できない)

 

憲法上の権利」も絶対無制約のパワーワードではないが、「公共の福祉」もパワーワードではないことはどっかで書いた気がする。

 つまり、目的の正当性と手段の合理性(場合によっては必要性)がなければ、権利は制約することができないのである

 これがロジック1を賛同することの帰結である。

 

 この帰結を改めてみて考えてみてほしい。

 それでもロジック1に賛成できますか、と。

 

 

 ここで、旧監獄法46条2項を見直してみる。

 

(旧)監獄法第46条第2項

 受刑者及ビ監置ニ処セラレタル者ニハ其親族ニ非サル者ト信書ノ発受ヲ為サシムルコトヲ得ス但特ニ必要アリト認ムル場合ハ此限ニ在ラス

 

 ロジック1から見た場合、この条文は原則と例外が逆転している。

 とすれば、当時の立法者はこのロジック1・2を踏まえていない(いなかった)ということになる。

 というのも、2000年ころに露見した諸々の事件によって監獄法が改正されたが、改正された条文は次の通りになっているからである。

 

刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律

第126条 刑事施設の長は、受刑者(未決拘禁者としての地位を有するものを除く。以下この目において同じ。)に対し、この目、第百四十八条第三項又は次節の規定により禁止される場合を除き、他の者との間で信書を発受することを許すものとする

第128条 刑事施設の長は、犯罪性のある者その他受刑者が信書を発受することにより、刑事施設の規律及び秩序を害し、又は受刑者の矯正処遇の適切な実施に支障を生ずるおそれがある者(受刑者の親族を除く。)については、受刑者がその者との間で信書を発受することを禁止することができる。ただし、婚姻関係の調整、訴訟の遂行、事業の維持その他の受刑者の身分上、法律上又は業務上の重大な利害に係る用務の処理のため信書を発受する場合は、この限りでない。

 

 ただ、監獄法がその辺を踏まえていないのは当然ともいえる。

 なぜなら、この監獄法は明治時代にできたものであること、明治時代にできた大日本帝国憲法はいわゆる外見的立憲主義憲法であって、憲法には「法律の留保」が明示的に規定されており、法律さえあれば権利の制約が自由だったのだから。

 例えば、当時の表現の自由の条文を見てみよう。

 なお、漢字の一部は現代のものに変え、カタカナは平仮名に変えておく。

 

大日本帝国憲法29条

 日本臣民は法律の範囲内において言論著作印行集会及び結社の自由を有す

 

 この観点から見れば、監獄法がロジック1・2を踏まえていないことは当然ともいえる。

 

 少し本題から離れるが、河合裁判官の反対意見にある「監獄法四六条及び五〇条の規定も、この趣旨に解されることは明らかである。」は、やや「ん?」ということになる。

 もっとも、「ん?」と言ってしまうと、「原則例外を逆転させたこれらの法律は違憲である」と言うしかなくなってしまうので、憲法適合的に考えるならばこう言うしかないのだが。

 

 

 以上、「法の支配」によるロジックと現実(実務)をみてきた。

 当然だが、多数意見(判決)を批判する人間はこの前提がある。

 さらに言えば、本問は司法試験の過去問であり、そこで問われる能力は法律実務家の能力である。

 よって、河合裁判官のような反対意見を書けなければ、能力としてお話にならない。

 

 しかし、近代の前提を持たない人間が河合裁判官のような意見を聴いて「ん?」となることは不思議ではない。

 また、日本の道徳には「沈黙の(真実を表明しないという)道徳」という重要な規範がある(詳細は次のメモ参照)。

 その関係で、日本教徒であれば、意見にまつわる「空気」にひよって黙ってしまうということもあるだろう。

 そのため、内心で「どうなのだろう?」とか「賛成できない」と考えることが非難に値するわけではない

 これは近代主義から見てもそうあるべきであり、それが具体化されたものが次の過去問で取り上げる「思想・良心の自由」(憲法19条)である。

 

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 ただ、日本教はどう考えるのだろう。

 せっかくなので、今回はこの点を少し踏み込んでみたい

 

 もちろん、私の推論が正解であるというつもりは毛頭ない。

 また、単純すぎる意味のない張りぼてができるだけで終わるかもしれないが。

 

12 反対意見が示すもの

 河合裁判官は反対意見で次のように述べる。

 

(以下、反対意見から引用、各文ごとに改行、強調は私の手による)

 しかるに、東拘基準は、この原則と例外を逆転し、わずかの場合を除き、死刑確定者の発信を、それを制限することの具体的必要性や合理性を問うことなく、一般的に許さないとしているのであって、右の権利の性質に矛盾し、法の規定にも反するものといわねばならない

 原審は、拘置所長が東拘基準を準則として採用し、かつ、これを適用して本件処分をしたことが、拘置所長の専門的裁量権の行使として適法であるとするもののごとくである。

(引用終了)

 

 なお、引用内にある「東拘基準」とは東京拘置所が決めた死刑囚の発信に対する許可を定めた基準のことであり、前回参照した通り限定的・例外的な場合しか死刑囚の発信基準を認めなていない基準のことである。

 

 これまで見てきた通り、反対意見はロジック1と2を採用した結果出てくる原則論的な主張である。

 だから、これに反対するロジックの組み立て方はレイヤーごとに存在する。

 そこで、レイヤーごとに判断することで、日本教的発想の概形を探ってみたい。

 

 

 まず、最初の反論は、「ロジック2の例外に当たる場合と旧監獄法の規定や東拘基準はほぼ重なり合っている」というものである。

 ただ、この反論は大きく2種類のパターンに分けられる。

 一つ目のパターンは「河合裁判官が考える基準に従っても、拘置所の基準による発信の差し止めは正当化できるので問題ありません」という反論である。

 二つ目のパターンは「河合裁判官が考える基準は例外として厳しすぎます。本来考えるべき例外はもっと広く認められるべきで、その観点から見れば、監獄法や基準はその範囲のものとして問題ありません」というものである。

 

 いずれの反論にせよ「河合裁判官の考える基準」を具体化する必要があるので、その基準を見てみる。

 

(以下、反対意見から引用、セッション番号省略、各文毎に改行、強調は私の手による)

 死刑確定者の拘禁は、その刑の執行を確保することを目的としている。

 したがって、この目的を阻害するおそれのある文書の発信は、制限されて当然である。

 また、監獄は多数の者を収容する施設であって、その正常な管理のためには内部の規律・秩序を維持する必要があるから、その障害となるような文書の発信が制限されることも、やむを得ない。

 ことに死刑確定者は、その置かれている立場から、一般に、拘禁の目的を阻害し、あるいは監獄内の規律・秩序を乱す挙に出る可能性が刑事被告人や受刑者より高いといえるであろうから、そのような挙に出ることを防止するという意味で、死刑確定者の心情の安定に特に配慮する必要があることも理解できる。

 そして、これらについては、監獄内の実情に通暁し、直接その衝に当たる拘置所長の裁量にゆだねられるべきところが少なくないことも確かである。

 しかし、拘置所長の右裁量権の行使が合理的なものでなければならないことは、多言するまでもない。

 したがって、拘置所長が、拘禁の目的が阻害され、あるいは監獄内の規律・秩序が害されることを理由に、右裁量権の行使として、死刑確定者の発信を制限する場合でも、そのような障害発生の一般的・抽象的なおそれがあるというだけでは足りず、対象たる文書の内容、あて先、被拘禁者の性向や行状その他の関係する具体的事情の下において、その発信を許すことにより拘禁の目的の遂行又は監獄内の規律・秩序の保持上放置することのできない障害が生ずる相当の蓋然性があることを具体的に認定することを要し、かつ、その認定に合理的根拠が認められなければならない

 さらに、その場合においても、制限の程度・内容は、拘置所長がその障害発生の防止のために必要と判断し、かつ、その判断に合理性が認められる範囲にとどまるべきものである。

(引用終了)

 

 まとめると次のようになる。

 

(例外を広める方向のもの)

・刑(死刑など)を執行を妨害するおそれのある目的の文章の発信は制限できる

・秩序内の維持の障害となりうる文章の発信は制限できる

・死刑囚ならば、自身の極刑を阻止するなどの理由で制限されるべき発信を実践する可能性が高い

・また、実務に通じた施設関係者の判断が必要であり、そのために裁量判断を認める必要もある。

(例外を狭める方向のもの)

・死刑囚であっても、未決囚と同様、そのような障害発生の一般的・抽象的なおそれがあるだけでは文章の発信を制限できず、障害の発生する「相当の蓋然性」がなければ制限できない

・さらに、その場合でも制限の程度は必要(過剰にならない)程度でなければならない。

 

 つまり、河合裁判官はよど号事件と同様、「具体的な障害が生じる蓋然性がなければ制限してはならない。」と述べている。

 その上で、次のように述べている。

 

(以下、反対意見を引用、各文毎に改行、セッション番号省略、ところどころ中略、強調は私の手による)

 拘置所長の右認定・判断は、本来個々の文書ごとにされるべきものであるが、対象たる文書の性質等によっては、ある程度の類型的認定・判断が可能なものもあるであろう。

 したがって、そのような文書につき、右の類型的な認定・判断に基づいてあらかじめ取扱基準を設けておき、発信の許可を求められた文書が右類型に属する場合には、その基準によってこれを取り扱うという措置も、まったく許されないものとはいえない。

 しかし、そのような取扱いが拘置所長の裁量権の合理的行使として是認されるためには、右3で述べた障害発生の相当の蓋然性があることの具体的認定とその認定の合理的根拠の存在、並びに、その基準の定める程度・内容の制限が必要であるとの判断とその判断の合理性が、当該類型的取扱いが対象とする死刑確定者の文書のすべてを通じて、認められなければならない。

 東拘基準は、死刑確定者が発信を求める文書のうち、前述の除外文書以外の一般文書のすべてを対象として、これを許さないとするものである。

 右に述べたところからすれば、そのような類型的取扱いが拘置所長の裁量権の行使として是認されるためには、(イ)拘置所長が、「死刑確定者に一般文書の発出を許せば、個々の文書の内容やあて先、その発信を求める理由や動機、個々の死刑確定者の個性や気質、日常の行状など、具体的事情の如何を問わず、常に、拘禁の目的の遂行又は監獄内規律・秩序の保持上放置できない障害が生ずる相当の蓋然性がある」と認定したこと、(ロ)その拘置所長の認定に合理的な根拠があると認められること、(ハ)拘置所長が、「そのような障害発生を防止するためには、死刑確定者の一般文書の発出をすべて不許可とする措置が必要である」と判断したこと、及び、(ニ)拘置所長のその判断に合理性が認められること、という要件がそろわなければならない。

(引用終了)

 

 ここでは、相当の蓋然性基準を適用する際の在り方が示されている。

 つまり、「包括的な制限」をかけるためには、次の条件が満たされなければならないことになる。

 

1、拘置所長が「死刑確定者に一般文書の発出を許せば、個々の文書の内容やあて先、その発信を求める理由や動機、個々の死刑確定者の個性や気質、日常の行状など、具体的事情の如何を問わず、常に、拘禁の目的の遂行又は監獄内規律・秩序の保持上放置できない障害が生ずる相当の蓋然性がある」と認定したこと(蓋然性の判断)

2、拘置所長が、「そのような障害発生を防止するためには、死刑確定者の一般文書の発出をすべて不許可とする措置が必要である」と判断したこと(必要性の判断)

 

「予め届け出た親族以外の人間に対する発信を制限する」とか「月2回以上の発信とか紙にして何枚以上の発信を制限する」といった部分規制ではなく、全面的な包括的制限をかけるのであればこうならざるを得ない。

 もちろん、裁判所が適法と判断するためには、この2点について裁量判断として合理的であることがさらに必要であるが。

 

 

 では、本件についてはどうであろうか。

 河合裁判官は次のように述べている。

 

(以下、反対意見から引用)

 しかし、東拘基準を設定し、あるいはこれを維持するに当たり、東京拘置所長において、右(イ)及び(ハ)の認定・判断をしたか否かは明らかでなく、たとえそのような認定・判断をしていたとしても、それについて右(ロ)及び(ニ)の要件が満たされているとはとうてい認めることができない

(中略)

  したがって、東拘基準による類型的取扱いを拘置所長の合理的裁量権の行使として、是認することはできない。

(中略)

 原審もまた確定していないところであって、同被上告人は単に東拘基準を適用したのみで本件処分をしたと解するほかはない。

 そして、東拘基準及びこれに基づく類型的取扱いを是認できないことは右に述べたとおりであるから、結局、上告人の本件文書の発出を許可しなかった本件処分は、何らの合理的理由なしに上告人の発信の権利を制限したものとして、違法といわざるを得ない。

(引用終了)

 

 私釈三国志風にこの意見を意訳すれば、「たとえ、そのような判断があっても裁判所から見てそんな判断に合理性があるとは到底言えねーし、そもそもそんな判断ありゃしないだろう」となる。

 また、私も似たような感覚を持っている。

 もっとも、現実はどうなのであろうか。

 

 この点、拘置所側が本気で立証しようと思えば、明らかにできないとまでは思わない(それが採用されるかは別としても)。

 あるいは、「これをクソ真面目に立証するためには、『(一部、または、全部の)死刑囚に対して一種の実験をする』、または、『一回発信の自由を大幅に認めて、監獄内の秩序に対して相当の混乱を引き起こす必要がある』ということになるが、どちらも行政の判断としてできるわけないだろう。」ということになる。

 まあ、後者は冗談だが。

 

 ただ、「具体的な例外」それ自体をどうこう言うのは妥当ではないように思われる。

 さらに言えば、ここでガチガチやりあうのがメイン争点とは思えない(河合裁判官の反対意見はこの部分に集中しているが)。

 となると、この反論はメインディッシュではないと考えられる。

 

 

 では、次のステップ、次の反論に進もうと考えるわけだが、ここまででかなりの分量になってしまった。

 よって、残りは次回以降にて。

司法試験の過去問を見直す10 その3

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成20年度の憲法第1問についてみていく。

 

4 本問自治会の決議の有効性

 まず、問題文を確認する(前回同様、問題文の出典先は法務省のサイトである)。

 

www.moj.go.jp

 

(以下、問題文を引用)

 A自治会は 「地縁による団体 (地方自治法第260条の2)」の認可を受けて地域住民への利便を提供している団体であるが,長年,地域環境の向上と緑化の促進を目的とする団体から寄付の要請を受けて,班長らが集金に当たっていたものの,集金に応じる会員は必ずしも多くなかった。

 そこで,A自治会は,班長らの負担を解消するため,定期総会において,自治会費を年5000円から6000円に増額し,その増額分を前記寄付に充てる決議を行った。

 この決議に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。

(引用終了)

 

 また、出題の趣旨は次のとおりである。

 

(以下、出題趣旨を引用)

 自治会のような団体が寄付に協力するために会員から負担金等を徴収することを総会決議で決めることは会員の思想信条の自由を侵害しないかについて,関連判例を踏まえつつ,自治会の性格,寄付の目的,負担金等の徴収目的,会員の負担の程度等を考慮に入れて,事案に即して論ずることができるかどうかを問うものである。

(引用終了)

 

 その上で、前回までの流れを確認する。

 

 まず、原則論として、「住民の寄付を強制されない自由」が憲法19条によって保障されうることを確認した。

 次に、その自由が無制限でないことを確認し、憲法の私人間適用に関する関節適用説を採用し、地方自治法260条の2第1項の「目的」の解釈において憲法19条を考慮することを示した。

 さらに、自治体が事実上の強制加入団体であることを踏まえ、決議の有効性についていわゆる実質的関連性の基準(目的が重要でなく、また、手段に実質的関連性がない場合は無効)を採用することを示した。

 

 ところで、出題趣旨を見ると、次の要素を考慮することが予定されていたらしい。

 

1、自治会の性格

2、寄付の目的

3、負担金等の徴収目的

4、会員の負担の程度

 

 既に、自治会の性格については言及した。

 そのため、ここからのあてはめでは少なくても残りの点について言及する必要があることがわかる。

 

 

 これからあてはめを行う。

 重要な要素は、①決議(強制徴収)の目的、②決議(強制徴収)の実効性、③強制徴収以外の代替手段可能性、④手段の相当性の4つ。

 以下、順に見ていく。

 

 

 この点、本問決議の目的は、「長年,地域環境の向上と緑化の促進を目的とする団体」へ寄付をし、その結果として「地域環境の向上」や「緑化の促進」を実現することにある。

 そして、自治会のような「地縁による団体」の存在意義には「良好な地域社会の維持」(地方自治法第260条の2第2項1号)があるところ、地域環境の向上などに長年手掛けている団体に寄付をすれば、地域社会の維持を実効的に実現することができる。

 そして、地域環境を向上させることは住民の環境を向上させ、各住民の幸福追求権(憲法13条後段参照)の実現に寄与する。

 よって、決議の目的は公共の利益の実現にとって重要であると言える。

 

 

 まず、決議の目的を憲法的利益とリンクさせた

 本問は憲法の問題だからである。

 また、「目的を否定する」ということは「団体への寄付は濫用的目的でなされている」というようなものである。

 よって、ここはすんなり肯定したほうがよい。

 

 次に、手段の実質的関連性(合理性・必要性・相当性)についてみていく。

 まず、肯定的な事情を拾っていこう。

 

 

 次に、決議内容を見ると、決議前の段階では「班長らが集金に当たっていた」一方で、「集金に応じる会員は必ずしも多くなかった。」という現状があった。

 そのため、集金による方法から会費の中に寄付相当分を織り込んでしまえば、班長の負担が減り、集金の効率は飛躍的に向上する

 そうすれば、本問決議は目的を実現するための個々の班長の負担を下げるものであり、手段として実効性があると言うことができる。

 また、「地域環境の向上」という課題は住民にとって共通の利害関係のあるものであり、どの思想によっても容認されやすいと言える。

 さらに、寄付相当分として増額される分も1年に1000円(6000-5000円)であり、これは1か月あたり缶コーヒー1本分に相当する程度でしかない。

 ならば、意に沿わない寄付を強制したところで、住民が持っている思想と両立しえない、とか、負担額が重すぎる、という事情も考え難い

 以上のことを考慮すると、手段として一定の合理性があることは否定できない。

 

 

 以上、手段の実効性・適切さについて肯定的な事情を拾ってみた。

 こちらを主軸に沿って答案を作成すれば、本問決議は有効、ということになる。

 また、自治会が株式会社であり、住民が株主であれば、まあ、ここまでの事情を述べて適法になるであろう

 

 しかし、本番の私がそうしたように、ここから手段の実質的関連性を否定していく。

 否定する際の重要な要素は、「割合」と「住民が集金に応じない理由」の2点である。

 

 

 しかし、本問では「集金に応じる会員は必ずしも多くなかった。」の背景には、住民の「寄付の実効性への疑問」が少なくないとは言えない。

 というのも、この寄付はA自治会が「団体から寄付の要請」があって行っているものであって、自治会自らその団体を選んで積極的に寄付をしているわけではないからである

 そこで、地域環境の向上という目的を実現するために寄付という手段が具体的に見て実効性があるのか疑問がある、少なくても、住民には疑問を持つ者もいると言うことができる

 さらに言えば、本問決議によって自治会の年会費が1000円上乗せされるところ、この増額相当分の大半が団体への寄付になることを考慮すれば、自治会の予算に比して団体に対する寄付が過大であるということができる

 

 また、寄付額自体は年間1000円、1か月あたり100円未満であるが、従前の自治会会費である5000円の20%に相当する額である。

 そして、増額割合で見ればこの額を少ないということはできない

 さらに、増額分の1000円の支払いを拒めば、自治会から追い出される可能性があるところ、追い出されることによる不利益は転居する場合もしない場合も年間1000円より圧倒的に大きい。

 

 さらに、本問で寄付を受ける団体は地域環境の向上を目的とするいわゆる社会福祉法人社会福祉法1条、22条)に該当すると考えられるところ、社会福祉法人への寄付は自発的なものによるべきとされている(同法116条参照)を考慮すれば、福祉団体に対して寄付を強制されない自由の重要性は額の多寡によらず重要なものと考えられる。

 そこで、決議によって制限される権利の程度は軽くはない。

 

 最後に、寄付金の徴収手段についても班長が集金に出向くという手段ではなく、各自自治会会費と同時に寄付分を渡すといった班長に負担をかけないで従前と同等の寄付を回収する手段もあり、本問決議の内容は不必要(手段として過剰)とも言える。

 

 以上を考慮すると、本問決議にはその手段において目的を達成するために有効・適切であるとは言えず、実質的関連性が認められない。

 したがって、本問決議は「目的」の範囲内とは言えない。

 

 以上より、本問決議は住民の寄付を強制されない自由を制限するものとして違法・無効である

 

 

 一気に結論まで書きあげてしまった。

 なお、結論は私が本番に書いた内容と同様である。

 また、根拠についても「社会福祉法人」云々と「全予算に対する割合」以外の要素は全部触れている(もちろん、実質的関連性の基準は採用せず、具体的利益衡量の手法によったが)。

 

 この点、引き付ける条文が地方自治法260条の2第1項の「目的」か民法90条の「公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為」かという問題がある。

 南九州税理士会事件は民法の「目的」の問題になっており、本番の私もここでもその手法に従った。

 また、群馬司法書士会事件の反対意見を述べた2裁判官は2人とも「目的」の問題に引き付けている。

 しかし、群馬県司法書士会事件の判決は「目的」も「公序良俗」の両方に触れている(3VS2であり、理由もそれほど詳細でないと考えられたのに、補足意見がないのは結構意外である)。

 さらに、後に述べる大阪高等裁判所の判決のケースでは、私が調べた範囲によると公序良俗に反するとなっている。

 となると、この点については「どちらでもいい」ということではないかと考えられる。

 少なくても、用いた条文によって大きく評価が異なることはないだろう。

 

 

 ところで、大阪高等裁判所の判決(最高裁は上告棄却により追認)は類似の事案(額も寄付先の団体の個数も異なる)は決議を公序良俗違反を理由として違法にした。

 これを見て改めて本問を考えるなら、結論は当時と同じ「違法」であると考える。

憲法の条文に違背するわけではないため、結論は「違法」であって「違憲」ではない)

 そして、今見直して改めて気になったのは、予算に占める割合である。

 

 会費を5000円から6000円に増額する(増加分1000円)、増額分は寄付にあてる、という場合、従前の予算の20%を寄付に充てることになる

 さすがに、一団体に対する寄付であればこれは多くね?と。

 また、団体が複数としても、従前の予算の約20%が寄付ってちょっと、となる。

 当然だが、これは「寄付」であって自治会がしたいこと(するべきこと)を外部に委託する際の委託料ではないのである

 

 また、一気に会費20%増というのは月100円程度でも重くね?というのはある

 そして、それが「寄付」のためとなるとなおさらである。

 

 こうやって考えると、結論は違法のまんまでいいかなあ、と言える。

 

 

 以上で本問の検討は終了である。

 次回は、憲法外から見て考えたことを述べ、本問の検討を終了する。