薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

司法試験の過去問を見直す7 その2

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成14年度の憲法第1問についてみていく。

 

3 「公共の福祉」による制約_違憲審査基準

 まず、問題文を確認する。

 なお、出典は前回と同様、法務省である。

 

(以下、平成14年度の司法試験・二次試験・論述式試験・憲法第1問の問題文)

 A市の市民であるBは,A市立図書館で雑誌を借り出そうとした。

 ところが,図書館長Cは 「閲覧用の雑誌,新聞等の定期刊行物について,少年法第61条に違反すると判断したとき,図書館長は,閲覧禁止にすることができる。」と定めるA市の図書館運営規則に基づき,同雑誌の閲覧を認めなかった。

 これに対し,Bは,その措置が憲法に違反するとして提訴した。

 この事例に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。

(問題文終了)

 

 前回、「図書館所蔵の雑誌を閲覧する権利」を憲法21条1項の「表現の自由」を解釈することによって、憲法上の権利たりうることを確認した。

 もっとも、「憲法上の権利たりうる」ことは制限が一切許されないことを意味するわけではない。

 つまり、知る権利は絶対無制約ではなく、「公共の福祉」(憲法12条・13条)による制限を受ける

 そこで、本問のCの措置が「公共の福祉」による制約と言えるか。

 まずは、違憲審査基準が問題となる。

 

 

 ここでは、規範定立までの論述を「原則→修正→歯止め」という形で考える。

 まずは原則論から。

 

 この点、知る権利は、情報の取得を通じて個人の人格を形成・発展させるいわゆる自己実現の価値と、取得した情報を生かして民主主義的討論を通じて国家の意思形成に参加するといういわゆる自己統治の価値に寄与する極めて重要な権利である。

 よって、このような価値を有する知る権利を制限する際には厳格な審査基準をもって臨むべきであるのが原則である、と。

 

 この辺は、知る権利が表現の自由と表裏の関係にあることを考えれば、当然に出てくる原則論である。

 なお、似たような言い回しは前回取り上げた「よど号ハイジャック新聞記事抹消事件」の最高裁判決でも見られる(具体的な言い回しは前回のブログ記事参照)。

 ところで、この原則論、どうせひっくり返すのに必要なのか、とも思える。

 まあ、この原則論を掲げるのは個人的趣味の面もあるかもしれない。

 

 

 しかし、この原則論は直ちにひっくり返すことになる

 

 つまり、本問のように図書館の所蔵する書籍・雑誌を閲読する際には、どのような方法で実現するのかといったことを考える必要がある

 そして、その具体的な方法を考えるにあたっては、図書館の事情や図書館を運営する自治体の事情を考慮せざるを得ない

 また、本問で制限されている権利は請求権的な性質を持つものであり、外部に流通している特定の情報へのアクセスを禁止するといったいわゆる自由権に対する制約とは性格を異にする

 よって、図書館が所蔵する雑誌を閲読する自由の制約については管理権者の裁量を尊重せざるを得ず、その意味で合理的関連性の基準のような緩やかな基準によるべきとも考えられる

 

 ここで、例外を考える際には、必要性と許容性の両方から考えた。

 この「必要性と許容性の両方から考える」という発想は重要である。

 

 

 そして、場合によってはこれ以上踏み込まずに「合理的関連性の基準」で考える、といったことも可能である。

 ただし、このブログでは歯止めをかけることにする。

 歯止めをかける際に用いる事情は、「図書館」という事情である。

 つまり、単に「地方公共団体がもっている情報を出せ」という情報公開請求とは異なる視点で考える、ということになる。

 

 ここで参考になるのが、船橋市立図書館事件最高裁判決で用いられた言い回しである。

 最高裁判決において参考になる部分を引き抜いてみよう。

 

(以下、「船橋市立図書館事件最高裁判決」から引用、一部省略、注釈・強調は私の手による)

 図書館は,「図書,記録その他必要な資料を収集し,整理し,保存して,一般公衆の利用に供し,その教養,調査研究,レクリエーション等に資することを目的とする施設」であり(図書館法2条1項)、「社会教育のための機関」であって(社会教育法9条1項)、国及び地方公共団体が国民の文化的教養を高め得るような環境を醸成するための施設として位置付けられている(同法3条1項,教育基本法7条2項参照)。

 公立図書館は,この目的を達成するために地方公共団体が設置した公の施設である(図書館法2条2項,地方自治法244条,地方教育行政の組織及び運営に関する法律30条)。

 そして,図書館は,図書館奉仕(図書館サービス)のため,①図書館資料を収集して一般公衆の利用に供すること,②図書館資料の分類排列を適切にし,その目録を整備することなどに努めなければならないものとされ(図書館法3条),特に,公立図書館については,その設置及び運営上の望ましい基準が文部科学大臣によって定められ,教育委員会に提示するとともに一般公衆に対して示すものとされており(同法18条),平成13年7月18日に文部科学大臣によって告示された「公立図書館の設置及び運営上の望ましい基準」(文部科学省告示第132号)は,公立図書館の設置者に対し,同基準に基づき,図書館奉仕(図書館サービス)の実施に努めなければならないものとしている。

 同基準によれば,公立図書館は,図書館資料の収集,提供等につき,①住民の学習活動等を適切に援助するため,住民の高度化・多様化する要求に十分に配慮すること,②広く住民の利用に供するため,情報処理機能の向上を図り,有効かつ迅速なサービスを行うことができる体制を整えるよう努めること,③住民の要求に応えるため,新刊図書及び雑誌の迅速な確保並びに他の図書館との連携・協力により図書館の機能を十分発揮できる種類及び量の資料の整備に努めることなどとされている。

 公立図書館の上記のような役割,機能等に照らせば,公立図書館は,住民に対して思想,意見その他の種々の情報を含む図書館資料を提供してその教養を高めること等を目的とする公的な場ということができる。

 そして,公立図書館の図書館職員は,公立図書館が上記のような役割を果たせるように,独断的な評価や個人的な好みにとらわれることなく,公正に図書館資料を取り扱うべき職務上の義務を負うものというべきであり,閲覧に供されている図書について,独断的な評価や個人的な好みによってこれを廃棄することは,図書館職員としての基本的な職務上の義務に反するものといわなければならない。

 他方,公立図書館が,上記のとおり,住民に図書館資料を提供するための公的な場であるということは,そこで閲覧に供された図書の著作者にとって,その思想,意見等を公衆に伝達する公的な場でもあるということができる。(中略)

 そして,著作者の思想の自由,表現の自由憲法により保障された基本的人権であることにもかんがみると,公立図書館において,その著作物が閲覧に供されている著作者が有する上記利益は,法的保護に値する人格的利益であると解するのが相当であり,(後略)

(引用終了)

 

 船橋市立図書館事件とは、「図書館の職員が、自分の好みに従い、また、図書館の基準に反して、とある思想に基づく書籍100冊あまりを恣意的に廃棄した」という事件に対して、一部の著者たちが損害賠償を請求した国家賠償請求事件である(なお、請求相手は自治体であるが、適用法規が国家賠償法なので国家賠償になる)。

 なお、ウィキにも該当事件についての言及があったので、そのリンクを張っておく。

 

ja.wikipedia.org

 

 この事件の下級審では、恣意的な廃棄の違法性を認定した

 しかし、国家賠償の要件たる「権利の侵害」を否定したため、請求は退けられた。

 この点、私から見ると、「権利の侵害がない以上、違法性を認定することは司法のしゃべりすぎ(越権行為)ではないか」との疑問を持たないではないが、その点はまあいい。

 しかし、上告された最高裁判所はこれをひっくり返すことになる。

 

 本問の兼ね合いで重要なことは「図書館が舞台である」ということである。

 

 つまり、「公立図書館は、住民に対して思想・意見その他の種々の情報を含む図書館資料を提供してその教養を高めること等を目的とする公的な場」である。

 このことを考慮すれば、図書館の蔵書へのアクセスを制約する場合には図書館の公共性や知る権利の重要性を考慮して慎重に判断するべきであると言える。

 とすれば、本問措置の違憲性を判断する際には、形式的・抽象的に審査する合理的関連性の基準ではなく、具体的・実質的に審査する厳格な合理性の基準を用いるべきである。

 具体的には、①目的が重要であり、②目的と手段との間に実質的関連性がある場合に合憲と判断すべきであると考える。

 

 

 以上、「①原則→②修正→③歯止め」の流れに乗せて規範を定立した。

 また、③歯止めについては「図書館」の公共的性格を強調することが重要であると考える。

 そうでないと、通常の情報公開請求との違いが出てこないからである。

 

 

 以上、規範定立まで進めることができた。

 次回はあてはめについてみていくことにする。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 2

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

2 第1章の第1節を読む(前編)

 まずは、第1章である。

 第1章のタイトルは「数学の論理と源泉_古代宗教から生まれた数学の論理」

 また、第1章の扉絵に登場する人間は数学者ガウスである

 

 この点、大学に入るまでの私はいわゆる高校数学、ないし、受験数学においてトップ2シグマに入るレベルであった(でなければ、東大S1に入れない)。

 しかし、数学の歴史についてはほとんど知らなかった

 

 確かに、数学を道具として使いこなす場合、数学史・数学者について知る必要はない。

 しかし、全員が最先端の数学を使いこなすわけではないのだから、より教えるべきは数学史や数学者ではないのか。

 ふと、そんなことを考えた。

 まあ、現段階の義務教育にそれを入れたところで、教え方があれでは意味がないどころか、数学嫌い・歴史嫌いを量産することになりそうなので、現段階でそれを主張していく気はないけれども。

 

 話がそれた。

 元に戻そう。

 

 そして、今回見ていく第1節のタイトルは「神は存在するのか、存在しないのか」

「数学は神の論理である」という冒頭の言葉を引き継ぐ展開となっている。

 

 

 本書で著者(小室直樹先生)は言う。

 代数学は優れた論理学を作ったギリシャから始まった

 しかし、形式論理学と宗教をリンクさせたのは古代のイスラエル人である、と。

 

 数学の話がいきなり宗教へ飛んだ。

 数学と宗教というと、かなりスケールが飛んだ話に見える。

 もっとも、このスケールの広さこそ本書の特徴であるから、このスケールに耐えられないとこの本は読めないだろう

 

『日本人のためのイスラム原論』で見てきたが、ユダヤ教古代イスラエル人の宗教)は「人格を持つ1つの絶対神を仰ぐ宗教」という意味で特異的であった。

 そして、このユダヤ教キリスト教イスラム教をも産み出す土壌になる。

 この辺は次のメモにある通りである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 さて、ギリシャが作った形式論理学と数学を、古代のイスラエル人が思想と宗教に応用させた。

 というのも、古代イスラエル人の宗教的かつ重要な疑問が「神は存在するのか、存在しないのか」であり、その疑問を解決する手段として古代ギリシャ人が遺した「存在問題」を活用したからである。

 

 本書では「こんなことを断言すれば、読者は驚くに違いない」という趣旨のことが書いてあるが、小室先生の本を何冊も読んでいると「ああ、(また)あの話か」ということですんなり入る。

 その辺の話は上のメモで見てきたので、細かい話は割愛する。

 

 

 本書では、ここからユダヤ教の「神」についての説明に移る。

 従前のメモと重複するので、要旨を箇条書きにすると次の通りになる。

 

・当時のメジャーな宗教、自然由来(太陽神など)・変化(成長や死)がある

古代イスラエルの宗教、人格あり・絶対的な支配力を持ち続ける(変化なし)

 

 自然・環境が上か(当時のメジャーな宗教、いわゆる「法前仏後」)、あるいは、下か(イスラエルの宗教、いわゆる「神前法後」)という観点から見れば対照的である。

 ちなみに、日本教や仏教は自然・環境が上になると考えられる一方、キリスト教イスラム教は自然・環境が下になるため、この点でも対照的と言える。

 

 もっとも、自然由来でないと考えたためであろうか、「神は存在するのか」という問題がより重要になる。

 そこで、古代イスラエル人は「神の存在証明」に取り組むことになる。

 

 

 ところで、古代イスラエルの世界において、神が人に対して最も強く言うべきことは「私は存在する」ということであった

 このことを示すのが、神の「私はあってある者」という自己紹介である。

 ここで、旧約聖書からモーセが神の名を尋ねた際のやりとりを確認する。

 

(以下、旧約聖書出エジプト記(口語訳)の第3章第13節から第15節を引用、節番号省略、強調は私の手による、具体的なリンク先は次のとおり)

 モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。

 神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

 神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。

(引用終了)

 

ja.wikisource.org

 

 まあ、存在しないものは無視されるし、崇められることも期待できないから、当然のこととも言いうるが。

 

 次に重要なものが、「神と人民の契約(律法)」である。

 人民は契約を遵守しなければならない。

 また、契約は遵守されたのか、遵守されなかったのかが明確でなければならない。

 というのも、遵守されなかった場合、神罰によって民族皆殺しの運命にあうからである。

 この点を示すのが、ノアの洪水(『創世記』の第6章~第9章)であり、ゾドムとゴモラの悲劇(『創世記』の第18章~第19章)である。

 その結果、古代のイスラエル人は思考を論理に向けることになる。

 そして、数学のための論理(形式論理学)を産み出すことになる。

 

 

 以下、数学とその背後にある論理を会得するために、古代イスラエル人の宗教をみていく。

 次に、イスラエルの宗教が古代ギリシャの論理と同じものに収束するさまをみていく。

 というのも、数学において重要なものは「論理」だからである

 この点は、数式をいじくりまわして遊んでいる日本教徒にはわかりにくいかもしれないが。

 

 この点、「論理」という文字は漢字でできているが、この言葉は西洋からきている

 英語で「論理」いうところの「ロジック(logic)」の語源はロゴス(logos)である。

 ロゴスと言えば、「はじめにロゴスあり」という『ヨハネによる福音書』を想像するかもしれないが、そのロゴスである。

 

 ところで、この「論理」とは論争のための道具・手段である。

 では、誰と論争するのか。

 日本教徒であれば、「相手は他人でしょう」と考えるかもしれない。

 しかし、究極的にはこの論争の相手は「神」である。

 つまり、ここで想定しているのは「神と人との論争」ということになる。

 

 この点、日本教徒が「神を相手に論争をする」と考えると腰をぬかすかもしれない。

 しかし、古代イスラエルの宗教は「神との論争」を軸にして展開する

 

 この点、(ユダヤ教の)神は、当時のイスラエルの首長だったアブラム(後のアブラハム)に語り掛ける。

 神に忠実だったアブラハムは神の言葉通りに実行した。

 その言葉がどんなに不合理であっても(例えば、『創世記』の第22章)。

 

 この点、アブラハムは神の僕として模範的な存在であった。

 後のイスラエル人がアブラハムを模範としていれば、問題は起きなかっただろう。

 しかし、歴史は逆の方向に進む。

 つまり、イスラエルの人々は神に反抗し、神の言葉に抗い、抵抗する

 これに対して、神も人間の言い分に反論し、あるいは、新しい命令を出す。

 かくして、神と人間との論争が発生することになった

 

 

 この点、神のメッセンジャーになったのが「預言者」である

 預言者として著名なのが『出エジプト記』のモーセである。

 神のメッセンジャーである預言者この預言者の重要な仕事は神との論争である

 

 また、神との論争で有名なのが『ヨブ記』である

 神に対する信仰の篤いヨブだったが、このヨブにあらゆる苦難が襲う。

 その結果、ヨブは神に論争を挑むことになる。

 このヨブと神の論争を「私釈三国志」風にまとめると次のようになる。

 

(ヨブ)おお、神よ。何故、神は私に危難を与えたのですか?私の何がお気に召さないのですか。その様はまるでオオカミではないですか。

(神)お前の「神を信仰すれば、神は信仰した人間を報いなければならない」という考え方だ。神はお前らの考え・想像に縛られる存在ではない。そのことが分からなかったことがお前の罪だ。

 

「神と人間との契約(人民は契約を守る。神は人民を守護する)」を軸に考えた場合、ヨブと神のやりとりにおける神の主張は契約を反故にしているように見える。

 その意味で神はヨブを論破したとは言えず、強権を発動して黙らせた、とも言える。

 

 ところで、神とヨブとの論争。

 このような「神と人との論争」はヨブだけではない。

 預言者モーセもしっかり論争している。

 また、預言者エレミヤと神との論争は預言者の苦悩を示してやまない。

 

 以下、モーセが行った神との論争、その反面としての、民へ説得について『出エジプト記』からみてみる。

 

 この点、神から言葉と杖を受け取ったモーセがファラオ(エジプト王)に奇蹟を見せつけ、イスラエルの民の解放に成功する。

 しかし、ファラオはそのことを後悔して、軍隊を用いてイスラエルの民を追撃する。

 イスラエルの民は徒歩、エジプト軍は戦車、その移動力の差は甚大である。

 このとき神はモーセをして紅海を割ってイスラエルの民を救うとともに、エジプト軍を海の藻屑にした。

 このときの神・モーセイスラエルの民のやりとりを旧約聖書で確認しよう。

 

(以下、口語訳旧約聖書の『出エジプト記』の第14章の第10節から第18節までを引用、節番号は省略、強調は私の手による)

 パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、

 かつモーセに言った、「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。

 わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」

 モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。

 主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。

 主はモーセに言われた、「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのかイスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。

 あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。

 わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、彼らはそのあとを追ってはいるであろう。こうしてわたしはパロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得よう。

 わたしがパロとその戦車とその騎兵とを打ち破って誉を得るとき、エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」。

(引用終了)

 

 興味深いのは、民が「エジプトで死んだ方がマシだ」不平を述べていること、モーセが民を説得していること、また、神もモーセに命令を下していることである。

 なお、エジプト脱出の結果について旧約聖書ではこのように書かれている。

 

(以下、口語訳旧約聖書の『出エジプト記』の第14章第31節を引用、節番号は省略)

 イスラエルはまた、主がエジプトびとに行われた大いなるみわざを見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じた。

(引用終了)

 

 さて、エジプト脱出を通じてモーセと神の奇蹟を見せつけられたイスラエルの民

 しかし、神(ヤハウェ)とイスラエルの民との摩擦はまだまだ続く。

 モーセの胃は悲鳴(!)を上げる一方。

 その辺の記載を旧約聖書から確認しよう。

 

(以下、口語訳旧約聖書の『出エジプト記』の第16章の第1節から第16節までを引用、節番号は省略、強調は私の手による)

 イスラエルの人々の全会衆はエリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきたが、

 その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。

 イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」

 そのとき主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。

 六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう」

 モーセとアロンは、イスラエルのすべての人々に言った、「夕暮には、あなたがたは、エジプトの地からあなたがたを導き出されたのが、主であることを知るであろう。

 また、朝には、あなたがたは主の栄光を見るであろう。主はあなたがたが主にむかってつぶやくのを聞かれたからである。あなたがたは、いったいわれわれを何者として、われわれにむかってつぶやくのか」。

 モーセはまた言った、「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。主はあなたがたが、主にむかってつぶやくつぶやきを聞かれたからである。いったいわれわれは何者なのか。あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってでなく、主にむかってである」。

 モーセはアロンに言った、「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたは主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたからである』と」。

 それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。

 主はモーセに言われた、

「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。

 夕べになると、うずらが飛んできて宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周囲に露が降りた。

 その降りた露がかわくと、荒野の面には、薄いうろこのようなものがあり、ちょうど地に結ぶ薄い霜のようであった。

 イスラエルの人々はそれを見て互に言った、「これはなんであろう」。彼らはそれがなんであるのか知らなかったからである。モーセは彼らに言った、「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである。

 主が命じられるのはこうである、『あなたがたは、おのおのその食べるところに従ってそれを集め、あなたがたの人数に従って、ひとり一オメルずつ、おのおのその天幕におるもののためにそれを取りなさい』と」。

(引用終了)

 

 荒野をさまようイスラエルの民たちはモーセと神に苦情を述べる。

 これに対して、神は天からパンを降らせ、または、鶉を恵むことによって論争はやんだ。

 

 もっとも、話はこれで終わらない。

 荒野からレビディムに宿営したイスラエルの民は「水がない」ということで神に論争を挑む

 それに対して、神はモーセを通じてイスラエルの民に水を恵む。

 

(以下、口語訳旧約聖書の『出エジプト記』の第17章の第1節から第6節まで引用、節番号は省略、強調は私の手による)

 イスラエルの人々の全会衆は、主の命に従って、シンの荒野を出発し、旅路を重ねて、レピデムに宿営したが、そこには民の飲む水がなかった。

 それで、民はモーセと争って言った、「わたしたちに飲む水をください」。モーセは彼らに言った、「あなたがたはなぜわたしと争うのか、なぜ主を試みるのか」。

 民はその所で水にかわき、モーセにつぶやいて言った、「あなたはなぜわたしたちをエジプトから導き出して、わたしたちを、子供や家畜と一緒に、かわきによって死なせようとするのですか」

 このときモーセは主に叫んで言った、「わたしはこの民をどうすればよいのでしょう。彼らは、今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」。

 主はモーセに言われた、「あなたは民の前に進み行き、イスラエルの長老たちを伴い、あなたがナイル川を打った、つえを手に取って行きなさい。

 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる」。モーセイスラエルの長老たちの目の前で、そのように行った。

(引用終了)

 

 このように神(+モーセ)とイスラエルの民の関係は緊張の連続である。

 しかし、この段階における神(+預言者)とイスラエルの民の関係を知っておくことは重要である

 

 

出エジプト記』の話はここから「十戒」に移る。

 だが、ちょっと長くなりすぎたので、今回はこの辺で。

司法試験の過去問を見直す6 その5(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成18年度の憲法第1問をみてみる。

 もっとも、今回は本問を前提に考えたことなどについてみていく。

 

7 「放送の多様性や質の低下の防止」という規制目的

 この問題、このブログ上で私は結論を違憲に導いた。

 当時の司法試験業界(!)でも多数派は違憲だったと推測している

 

 この点、違憲の理由として重要な要素になるのが、「想定されている損害が大きい」・「一発免許取消という制裁が厳しすぎる」ということだろう。

 しかし、もう一つ気になる要素がある。

 それが、「放送の多様性や質の低下の防止」という規制目的である。

 つまり、「近代国家において、これは政府(政治部門)の仕事なのか」という素朴な疑問こそ、本問の最大の疑問点である。

 

 もちろん、この素朴な疑問の背後には「政府(政治部門、ないし、多数派)はこのような一見もっともな理由を掲げて、言論弾圧をしてきたではないか」というものもある。

 しかし、ここではそのような「政府の濫用的意図」は考えない。

 

 

 この点、近代主義、つまり、夜警国家的に考えた場合、放送の質・多様性のレベルをどうするべきかは、「自由放任」である

 この辺については次のメモで述べられている。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 当然、具体的な名誉棄損とか具体的な虚偽の風説が流布された場合、政治部門はそれらに対応する必要がある。

 しかし、それ以上については「ノータッチ」である。

 この観点から考えれば、この規制目的は目的において違憲ということになる。

 

 しかし、日本国憲法において自由主義近代主義の要素は原則のラインまで相対化されている。

 また、現代的権利の「知る権利」は現代社会においては極めて重要な権利である。

 よって、その「知る権利」の充実化という観点から見れば、目的において違憲ということはできない。

 

 もっとも、最初に述べた「素朴な疑念」は手段の検討において、各要素の重みを変えることになる。

「原則論から考えればこれは政府の仕事ではない」という要素は「厳格な合理性」の有無、つまり、実質的関連性の有無を考える上で大きな要素となっている。

 損害・制裁・実効性の有無について評価する際の。

 

 となると、この細かい評価が合憲か違憲かを分ける要素になるのではないか。

 もちろん、どちらの評価を採るかによって点数が大きく変わるということはないとしても。

 

 

 そして、この点の評価をめぐる問題に付随して現れる問題が「日本国民(日本国憲法の制定者)はパターナリズムに基づく制約をどこまで受忍するのか」という問題である

 パターナリズム・温情主義。

 基本的に、日本は戦後までこのパターナリズムで回ってきた。

 戦後に法体系が入れ替わったからとしても、その名残はあちこちに残っている。

 その最たる具体例こそ応用憲法こと刑事訴訟法の248条に定めた起訴便宜主義である。

 

刑事訴訟法第248条

 犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる。

 

 この起訴便宜主義は、罪を犯した(適法な証拠による立証が可能である)場合であっても、検察官に起訴しない権限を付与したものである。

 刑罰権の行使は国家権力が最も現れる場面。

 その際に、犯罪があっても起訴しなくてもいい、という権限を行政(検察)に与えている。

 

 もちろん、起訴便宜主義の背後には「刑法の謙抑的・補充的要素」がある。

 だから、起訴便宜主義=パターナリズムとはならない。

 しかし、起訴しない条件に条文上の制約がなく、検察官に無制限の裁量を与えているように見えること、現在の検察・裁判実務から考えれば、この背後に温情主義がある点は否定できない

 

 当然だが、温情主義だからダメということはない。

 また、現状を見る限り、「どちらかと言えば『いい』システム」とはなっているだろう。

 特に、コストの面から考えると。

 ただ、副作用がないわけではない。

  

 少し具体例で道がそれすぎた。

 本題に戻そう。

 

 

 放送の質・多様性という要素も、放送業界の問題であるということは否定できない。

 また、「公共性が強い」(だから規制が許される)とか「第四の権力」(権力に対する独立性の観点から規制は許されない)とか言われているとしても、これらの要素はどちらか一方の結論に持っていけるものでもない。

 よって、本問の規制はパターナリズムの要素が見られることになる。

 当然、「国民VS放送業界」という観点から見れば他者加害の要素があるので、純然たるパターナリズムに基づく制約ではないとしても。

 

 このパターナリズムをどこまで受け入れるか、パターナリズムは例外に過ぎないという価値観をどこまで容認するのか

 そして、国民(憲法の設定権者)はどのように考えるのだろう。

 そんなことが気になった。

 

 まあ、日本教的には(特別な空気がない限り)逆の結論になるような気がする

 

8 補償と賠償について

 本問の出題趣旨に「補償・賠償」についての言及があった。

 当時、非常に驚いた記憶がある。

 

 確かに、本問の規制を経済的自由に対する規制と考えれば、損失補償の請求(憲法29条3項)に発想が及ばないことはない。

 また、最高裁判所は、憲法29条3項の損失補償請求権は具体的権利(法律の成立なくして主張できる権利)と考えている(いわゆる河川付近地制限令事件最高裁判決)。

 よって、本問でも損失補償について言及することはできないでもない。

 

 もっとも、本問法律を合憲と考えた場合、損失補償は認められるのだろうか。

 確かに、「法律上に言及がないこと」は請求できないことの理由にならない。

 しかし、本問の広告規制は放送業者であれば誰でも課せられる制約になる。

 このことを考えると、「特別な犠牲」とは言い難いように思われる。

 よって、合憲の場合、補償は不要、ということになるだろう。

 

 

 では、違憲の場合の賠償についてはどうだろうか。

 本問法律が可決・公布された場合、規制基準が明確である(数値で判断できる)ことを考慮すれば、行政裁量が強い法律には見えない。

 ならば、国賠で争う場合、立法不作為が争点になるように考えられる。

 そして、本問法律制定行為が違憲・違法とまでは言い難い。

 ならば、特段の事情がなければ賠償が通る可能性もなさそうである

 

 

 こうやって考えると、合憲にしない限り、答案に書けることは少なそうである。

 そして、「答案に対する反映」という観点から見ると、「司法試験委員会は合憲の方が妥当だと判断している」という推測もできないではない。

 正直、よくわからないが。

 

 

 以上で本問の検討を終わる。

 次に検討する過去問は、既に検討を開始している平成14年度の過去問である。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 1

0 はじめに

 次に読む本はこれである。

 

 

 著者はこのブログでたびたび取り上げている故・小室直樹先生である。

 

ja.wikipedia.org

 

 タイトルに「数学」とあるように、本書は数学の本である。

 ただし、本書は数式がいっぱい並べられている通常の数学の教科書ではない。

 この本は「数学嫌いな人」のための本であるから、数式がいっぱい並べられている通常の数学の本を見ても、数学嫌いな人は1文字も読むことなく投げ出してしまうであろう。

 

 本書は「数学とは何か」・「数学の存在意義(何のために数学は存在するか)」・「数学の効用(数学はどのように役に立つか)」について書かれた本である。

 つまり、数学の総論について書かれた本である。

 いうなれば、この本は「数学なんか必要なんですか?」・「数学って何のために学ぶんですか?」という質問に答えるための本と言ってもよい。

 

 だから、数式は少ししか登場しない。

 また、登場する数式を読み飛ばしたとしても、趣旨は分かるようになっている。

 

 そのため、数学の内容(定理・公式その他)について見たい方は別の本を見たほうがよいだろう。

 例えば、最近、私は高校までの数学を一気に見直すために次の本を読んだ(ついでに問題も解いた)が、この本は有用であった。

 もし、実用数学技能検定準1級を突破したいなら、この本は十分有用である。

 

 

 また、「数学の歴史」については次の本を読んだ。

 読み物として面白かった。

 

 

 では、本書を最初からみていく。

 

1 「はじめに」を読む

 本書の最初のページには次の一文が掲載されている。

 

(以下、本書のページiにある1行を引用)

 数学とは神の論理なり

(引用終了)

 

 いきなり「神」が登場する。

 数学の由来から考えるならば、この「神」は天照大御神ではなく、イスラエルの神たる「ヤハウェ」である。

 その神の論理が数学だという

 

 なお、この一文から日本人と数学の相性の悪さを読み取ることができる

 一神教的発想・思考方法が日本人に身についているわけがないから。

 

 

 さて、次のページに移ると、「はじめに」に相当する文章が5ページある。

 ちなみに、本書は平成13年に書かれた本である

 私は22歳、歴史的事件としてはかのセプテンバー・イレブンがある。

 当時、世間を騒がせた本として「分数のできない大学生」という本もあった(本書でも紹介されている)。

 

 

 本書で著者(小室直樹先生)は嘆く。

 当時の文部省(現在の文部科学省)が推進する「ゆとり教育」によって日本の数学教育は崩壊してしまった、と。

 この点、資源がない日本で生き残っていくためには、優秀な労働者・技術者・経営者といった優秀な人材を育成していかなければならない。

 そして、科学技術の根本に数学があること、最新の技術に追いつき使いこなすためには数学を自由自在に使える必要があることを考慮すれば、数学教育が崩壊して何故優秀な人材が生まれようか、と。

 

 ところで、「資源がない日本云々」という言葉はよく耳にする。

 ただ、逆に考えると、「『日本を生き残らせる意思がない』なら、別に人材育成の必要はない」とも言える。

 案外、政治家・官僚の本音はそんなところなのかもしれない。

 もちろん、彼ら自身の所属集団(文部科学省とか自民党とか)を生き残らせる意思はあるであろうが。

 閑話休題

 

 では、どうするか。

『日本人のためのイスラム原論』で「イスラム教に入信するか、イスラム教について徹底的に理解せよ」と述べた故・小室先生は次のように言う。

「あなた自身がマセマティシャン(mathematician)になれ」と。

 すごい発言である。

 

 ただ、間違えてはならないのは「マセマティシャン」の意味である。

「マセマティシャン」というのは「数学者」という意味で使っているのではない。

「数学好き」という意味で使っているのだ、という。

 

 本書は次のように言う。

 

 数学好きになって数学を縦横無尽に使いこなせ

「数学ができないと二十一世紀の日本は真っ暗になる」と絶叫し、政府その他をした激励し、世の中を数学に向かわせよ

 その過程で数学教育を改革せよ

 

 まあ、わからないではないが、ちょっと無理ではないか、と。

 

 もっとも、「マセマティシャンになれ(数学好きになれ)」といってもどうすればいいのか。

 そこで、小室先生は「本書を読め(この本がその答えである!)」と続く。

 そして、数学を知るための第一歩として最初の「数学は神の論理である」にリンクする。

 

「数学は神の論理(神の教え)である」とは何か。

 この点、数学が近代科学の根本になった最大の理由はギリシャ形式論理学とリンクしたからである、と。

 この点、形式論理学はかたっくるしくて、とっつきにくい。

 しかし、イスラエルの神がこの形式論理学を数学とリンクさせた

 といっても、これだけ言われただけではピンとこないであろう。

 そこで、第1章で数学の起源について神の存在証明を通じて説明するのだそうだ。

 

 その上で、第2章がアリストテレス形式論理学についてみていく。

 その後、第3章で数学と近代資本主義の関係を見て、第4章で証明を通じて数学の有効性を確認し第5章で数学を使って経済の諸現象を説明していく様をみていく

 

 

 数学の起源、とか、数学と神の関係なんて初等中等教育でやったことがない。

 これは個々の数学の成果(定理や公式その他)とは関係ないからだろうか。

 その意味で大変楽しみである。

 

 次回から第1章について本格的に見ていく。

『日本人のためのイスラム原論』を読む 27(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 なお、今回が最終回である。

 

 

27 本書の感想

 最初の感想はこちらである。

 

イスラム教SUGEEEEEE」

 

 なにやらキリスト教すげー」と似たような感想を持つことになったが(詳細は次のメモの通り)、「すごい」と感じたことは事実である以上、その感想を書くしかない。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 

 次に、「世界を知るためには、イスラム教とイスラム教社会についても知っておく必要がある」という感想をもった。

 以前、イスラム教社会の歴史に関する本(次のリンクの通り)読んだが、機会があれば再読したいと考えている。

 

 

 また、「足らない分野を補う」という観点から見れば、中国とインド、そして、アフリカ(特に、サハラ砂漠以南)と南アメリカの歴史も見ておきたいと考えている。

 優先順位としては中国とインドが先に来るだろうが。

 

 

 さらに、非常に優れたイスラム教の教えを見ながら、「苦悩するイスラム教社会」と「『セイの法則』の理論公害で一度大きく勢力を削られた古典経済学派」がダブって見えた

セイの法則」の理論公害については次のメモで見たとおりである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 つまり、「セイの法則」に頼りすぎた古典経済学派は大恐慌という歴史的事件に対して有効な手を打てず、結果、ケインズ派に押される事態を招いた。

 同様に、イスラム教社会も「非常にバランスがとれているイスラム教」に頼りすぎた結果、近代という一種のモンスターに対応できないでいるように見えた。

 もっとも、この点についてはイスラム教が生まれてから19世紀までがうまく行き過ぎたのではないか」という感じもしないではないが。

 

 

 最後に、私の浅はかな考えではあるが、「『規範』があり、かつ、『預言者が現れることがない』という事情がある以上、イスラム教を維持したままの近代化は難しい。とすれば、近代とは別の手段で近代(欧米列強)に匹敵する経済力や軍事力を維持することを考えたほうがいいのではないか」という感想を持った。

 その一方で、キリスト教宗教改革が成功したのは、『規範』がなかったからではないか」という感想をも持った。

「信仰のみっ!」と叫べたからこそ、過去の「規範」にこだわる必要がなかった

「規範」という原則と例外の合法的な境界がなかったからこそ、原則と例外の関係を自由に変更することができ、また、原則に基づいた徹底的な思考ということができた。

 その結果、二極に大きく揺れるという弊害があるとしても(この傾向はアメリカに大いにみられる)。

 

 さらに言えば、日本の「規範なし」という特徴は日本の近代化に大いに貢献したのだな、という感想ももった。

 もちろん、これが現代日本の構造的アノミーの源泉にもなっているので、一長一短なところも否定できないが。

 

28 日本教の立ち位置

 私が本書を読んだ目的は「他の宗教を通して日本教を理解すること」にある。

 というのも、日本教には言語によって作られたドグマがないように見える(ドグマとして機能するのは「空気」である)ので、他の宗教と比較しながら「同じ機能を果たすもの」を見ていく必要があるからである(この発想で日本教を見たのが後日メモにする予定の「『日本教』の社会学」である、なお、本書のリンクは後述)。

 

 まず、世界の宗教をざっくり分けてみる(わからない部分は不明としておく)。

 

・仏教

救済は個人単位、規範あり、切迫性なし、因果律、崇拝対象は不明

儒教

救済は集団単位、規範あり、切迫性不明、因果律か予定説については不明

崇拝対象は「天」(人格なし)

ユダヤ教

救済は集団単位、規範あり、切迫性不明、因果律

崇拝対象は「ヤハウェ」(人格のある一つの絶対神

キリスト教

救済は個人単位、規範なし、切迫性あり、予定説

崇拝対象は「神」(人格のある一つの絶対神

イスラム

救済は個人単位、規範あり、切迫性なし、宿命論的予定説

崇拝対象は「アッラー」(人格のある一つの絶対神

 

 よくわからない部分は「不明」にしているが(今後、補填する予定である)、本書で見てきた範囲であれば、このような感じになるであろうか。

 

 

 では、日本教はどのようになるであろうか。

 

 まず、「規範なし」ということは言えそうである。

 この点は、本書で言及されている日本の歴史を見ればわかる。

 

 次に、「切迫性」もなさそうである。

 この点は、予定説を信じてコーリング(ベルーフェ)に邁進するピューリタンプロテスタント)たちが持っていた不安感・切迫感が日本人にないことから判断した。

 また、日本が儒教や仏教の教えの影響を受けていることを考慮している。

 この点、近代化に邁進した明治時代・高度経済成長に邁進した戦後を見ると、日本人に切迫感があるように見えるが、社会状況が切迫感をもたらしたとはいえ、日本教それ自体に切迫感が埋め込まれている感じはしない(もっとも、この辺はよくわからない)。

 

 さらに、日本は崇拝対象が多数ある「多神教と考えられる。

 この点は、山本七平の書籍(具体的なメモは次のリンクから)から判断した。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 

 あと、予定説と因果律についてはどうだろうか

 山崎安斎たちが提唱した学説、つまり、明治時代の神学から考えると「予定説」になるらしい。

 また、日本の自然の豊かさを考慮すると、「因果律」よりも「予定説」になりそうな気もする。

 何故なら、「自然から恵みを受けること」に対する人為的条件というものがイメージしづらいからである

 もっとも、自信はない。

 

 あと、日本の歴史を見ると、集団救済のように見える。

 ただ、この辺はよくわからない。

 

 以上をまとめると次のようになる。

 

日本教

救済は集団単位、規範なし、切迫性なし、予定説(無条件救済)

崇拝対象は周囲の多数ある自然など(多神教

 

 こんなところだろうか。

 この部分は別の本を見ながらさらに補強していていく予定である。

 

 

 以上で本書のメモを終わる。

 今後の予定だが、まずは次の2冊のうちのどちらかを読みたいと考えている。

 

 

 こちらは中国に関するお話

 イスラム教についてみたのだから、中国についても見る必要があると考えられる。

 特に、日本と中国は密接にかかわっていたのだから、この本を読むことは日本(日本教と日本社会)の理解にもつながるはずである

 

 

 こちらは近代科学、そして、形式科学たる数学のお話

 近代を理解するために役に立つと考えたため、この本もメモにしようと思う。

 

 以上の2冊を見た上で、本丸たる日本教に乗り込もうと考えている

 具体的に読む本は次の2冊である。

 

 

 

 また、各論に相当する本として次の2冊も読みたい。

 

 

 

 この点、日本教・日本社会などについて読みたい本は他にもある。

 また、それらの本のうちメモにするレベルまで深く読みたい本もある。

 しかし、とりあえずはこれらの6冊をメモにすることを目標にする。

 もちろん、今後、読書ブログに回せる時間が激減していくことを考慮すれば、これらの6冊が終わるのは最低でも来年末、もしかしたら再来年になるかもしれないが。

『日本人のためのイスラム原論』を読む 26

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

26 「第3章_欧米とイスラム_なぜ、かくも対立するのか_第2節を読む」(完結編)

 前回まででイスラム教と近代(資本主義・民主主義)との相性の悪さ」をみてきた。

 もちろん、「近代がキリスト教を前提としていること」・「キリスト教イスラム教の違いが大きいこと」を考えれば、当然の結果とも言いうるが。

 

 

 話はここから現代に移る。

 欧米列強の反撃に対して、当時のイスラム教社会は近代とイスラム教との相性の悪さに気付かなかった。

 欧米列強の反撃の強さ、「まずは対処療法でなんとかする」という発想からすればやむを得ない面があるとしても。

 そこで、近代化、つまり、西欧化の道を選ぶことになる。

 トルコもイランもエジプトも。

 この辺は、アヘン戦争・アロー戦争で完敗した中国、不平等条約を押し付けられた日本も同様である。

 

 しかし、イスラム教社会で近代化を試みてもイスラム教がその障壁になってしまう。

 また、資本主義の流入は貧富の格差を引き起こす

 このことは、第一次世界大戦前夜の近代資本主義が膨大な貧富の差を産み出した結果、ロシア革命が起きたこと、また、ソビエト連邦崩壊後の自由主義グローバリズムの暴走が巻き起こした世界の惨状を見れば明らかである。

 なお、この辺の事情は次のメモにまとめた通りである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 これを見て、敬虔なイスラム教徒はこう思うだろう。

「昔はよかった」と。

 ・・・さすがに、これではまとめすぎたので、丁寧に書くか。

 

イスラム教社会のよさは『究極的にはカリフも物乞いも同じ人間である』ことにあったのではないか。それなのにこの不平等が促進されている現状はなんだ。この社会状況で生活していて、(宗教的)救済が得られるはずがなかろう。また、この社会でいくら成功したところで、現世での幸福すらもたらすことはないだろう」と。

 

 この考えがイスラム教徒の間で共有され、イスラム復興運動につながることになる。

 つまり、キリスト教の歴史のなかでたとえるならば、イスラム復興運動は「聖書に戻れ!」と叫んだマルティン・ルタージャン・カルヴァンの「宗教改革」に類似するものになる。

 そして、この復興運動の具体例が「イラン革命」である。

 

 このことは、イラン革命の主導者がホメイニ師であったことにも表れている。

 なお、ホメイニ師の「師」という敬称を見ると、聖職者をイメージするかもしれないが、イスラム教には僧や聖職者はいない。

 では、このホメイニ師は何者かというとイスラム法学者ウラマー)である

 ホメイニ師はしばしば「アヤトラ・ホメイニ」とも言われるが、アヤトラというのはウラマーの中の高位の学者の呼び名なのである。

 

 

 さて、この「宗教改革」というべきイスラム復興運動はイスラム圏全域に広がった(もっとも、本書は約20年前である、現在がどうかはよくわからない)。

 このことは、イスラム復興運動に共感する人間が多く、また、イスラム教と近代の間の大きな矛盾に気付いたということでもある。

 

 では、この復興運動に対してアメリカとヨーロッパはどう応えたか。

 アメリカとヨーロッパの態度を端的に示したのが、イスラムファンダメンタリズムという言葉である。

 日本語に訳せば「イスラム原理主義」になる言葉、これが何を意味するかを知るためには、キリスト教ファンダメンタリズムについて理解しなければならない。

 そこで、話はキリスト教ファンダメンタリズムに移る

 なお、キリスト教ファンダメンタリズムについては、次のメモで触れられている。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 

 この点、キリスト教におけるファンダメンタリズムとは何か。

 キリスト教におけるファンダメンタリズムとは、「聖書に書かれた事実は、『例外なく』現実に起きた事実であり、真理である」という考え方を指す。

 だから、ファンダメンタリズムを信奉するファンダメンタリストは「聖書に書かれた事件は、『例外なく』現実で起きたことである」と考えることになる。

 重要なことは「例外なく」の部分である。

「多くの部分が真実である」という程度ではファンダメンタリズムとは到底言えない。

 

 例えば、福音書には、イエス・キリストが奇蹟を起こして病人を治した旨の記載がたくさんある。

 このことから、ファンダメンタリストは「これらの治療の事実」を現実で起きた事実とみる。

 また、福音書には、イエス・キリストは病人の治療の際に「汝の信仰、汝を癒せり」と仰った旨の記載がある

 このことから、ファンダメンタリストは「病を治療するためには信仰があればよく、医者も薬もいらない」と考える。

 まあ、イエス・キリストは「信仰があったから癒せた」と述べているにすぎず、「信仰がなければ、癒せなかった」と述べているわけではないので、後者については論理的には「あれ?」ということになるが。

 

 現在、このキリスト教におけるファンダメンタリストアメリカにたくさんいる。

 その中には高名な科学者でさえいる。

 日本人がその点に大きな戸惑いを感じるということは上のメモで見てきたとおりである。

 

 ただ、聖書の記述と近代科学の不整合を説明することは極めて容易である

 ファンダメンタリストではない私でも答えられる。

 回答の内容を述べれば、次のとおりである。

 

「(自然科学法則の一例たる)万有引力の法則を作ったのは(全知全能の)神である。

 我々人間が自然科学の法則に逆らうことができなくても、(全知全能の)神ならば法則を一時的に変更・停止することが可能である。

 イエス・キリスト(神)が水上を歩いたときも、イエス・キリスト(神)が万有引力の法則などの法則を一時的にストップさせたと考えれば、自然科学と矛盾することはない」

 

 この点、自然科学には帰納法の限界がある、ということは言及した。

 だから、例外的な現象の存在の可能性を叩き潰すことができない。

 また、自然科学は「作用している法則の内容」について説明できても、「その法則が形成された原因」について必ずしも答えられるとは限らない。

 そのため、その答えられない部分を聖書で補完することは十分可能、ということになる(この内容は「『空気』の研究」のメモでも触れた)。

 もちろん、その補完内容に納得するか・同意するかは別として。

 

 

 なお、このファンダメンタリストの中で最も有名なものが「クリスチャン・サイエンス」という集団を作ったメアリー・ベイカー・エディという女性である

 エディ女史は19世紀後半から20世紀初頭に大活躍した人物である(なお、エディ女史はカーネギーの次の本にも登場しており、本を読んでいた私は大いに驚いた記憶がある)

 

 

 エディ女史の元にはたくさんの信者が集まった。

 というのも、エディ女史のところに担ぎ込まれてきた重病人に対して、エディ女史が「汝は癒されたり」と述べると、この重病人がたちまち元気となってしまったからである。

 かくして、エディ女史の教団はたちまち膨れ上がった。

 

 なお、エディ女史は近代医学のすべてを否定している

 この背後には、「イエス・キリストは医者の助けも薬の力も借りることなく病気を治している。つまり、人間の信仰には病をいやす力がある。よって、医学なんて要らない」というキリスト教ファンダメンタリズムがある。

 また、クリスチャン・サイエンスの教義には「実在するのは神だけである。神は善であるからこの世に悪は存在しない。ゆえに、病気・老衰・苦痛も実在しない」というものがある。

 ここまでくるとあれだが、この教義は仏教の思想に類似してくる。

 というのも、釈迦は「すべて外界のものは人間の心(煩悩)が作り出したものである」・「生老病死の苦しみも煩悩が生み出したのだから、煩悩から脱却すれば苦しみもなくなる」と説いたからである。

 

 これらのエディ女史の主張に対して、日本人やアンチ・ファンダメンタリストは「誰かの死体」をエディ女史の目前に突きつけ、「ここにある死体の存在や『死ぬ人が存在すること』をアンタはどう説明するんだ」と詰問することをイメージするかもしれない。

 ただ、この初歩中の初歩の質問にサラッと答えられないようでは、ファンダメンタリスト失格である。

 エディ女史であれば、穏やかに、かつ、直ちに、次のように答えるであろう。

「あなたはここにある物を『死体』と称し、『人の死』について自明の如く主張しておりますが、その存在を証明してください。というのも、バイブルでは『人の死』は仮のものと述べております。あんたが自明視している『人の死』はあんたが勝手にそう見ているだけであって、本当は死んじゃいません」と。

 

 本書では「さて、読者の皆さん、この反問にどう答えますか?」と結んでいる。

 まあ、私は実りがないので議論を切り上げ、距離を開けようとする。

 日本人なら私の反応を普通の反応と考えるだろう。

 もっとも、常に距離を開けられるかどうかはさておいて。

 

 

 なお、このファンダメンタリズムの存在を一躍有名にした事件がかの「モンキー・トライアル」である

 つまり、ある高校の教師が進化論を子供たちに教えたところ、その教師の父母の怒りを買って解雇されたので、この解雇が不当解雇だとして裁判に訴えたのがそもそもの始まりである。

 もちろん、「人間は神が作った」と述べている聖書の記述に反する進化論の内容(人間はサルから進化した)を教えたことが子供の父母の怒りを買ったわけである。

 ちなみに、このモンキー・トライアルが最初に起きたのが1920年代。

 なお、この手の裁判はしばしば起こり、1980年代には学校教育で進化論を教えるべきかということで大論争となった。

 80年代というとベトナム戦争で敗れ、いわゆるリベラルの権威が失墜した後のお話である(この辺は上のメモ参照)。

 

 以上がファンダメンタリズムに関する話である。

 ところで、アメリカの、特に、いわゆるリベラルサイドの連中がイラン革命を見たとき、「ああ、これも一種のファンダメンタリズムなのだな」と即断した。

 ちなみに、イラン革命が起きたときのアメリカの大統領は民主党(リベラル)のジミー・カーターである。

 そして、カーター大統領はファンダメンタリズムに対する偏見を前提とするような言動をイラン革命に対してとっている。

 そして、欧米のメディアもそれに追随した。

 

 ところで、イスラム教や仏教と異なり、キリスト教には規範や戒律がない。

 キリスト教で問題になるのは信仰だけである。

 他方、イスラム教では規範があり、信仰だけではなく外面的な行為が要求されている。

 だから、イスラム教ではキリスト教のようなファンダメンタリストのようなものは出てこない、ということになる。

 個人的には、この評価については少々違和感がある(「ファンダメンタリズム」の範囲が狭い)が。

 

 ただ、キリスト教ファンダメンタリストが過去の聖書に固執するように、イスラム復興運動がイスラム教とクルアーン固執したようには見えたかもしれない

 そのため、「近代から過去に逆行しようとする集団」という扱いをしてしまうこと、それ自体は無理からぬこと、とは言えるかもしれない。

 もっとも、そのような扱いをすることがイスラム教を激怒させることは間違いない

 

 

 ところで、著者(小室直樹先生)によると、イスラム教社会は「近代化とイスラム教の矛盾」と「十字軍コンプレックス」に苦しんでいる、という。

 また、ヨーロッパとアメリカは苦悩しているイスラム教社会に対して手を差し伸べるどころか傷口に塩を塗り込んでいる、という。

 その具体例となるのが、平成2年に起きた湾岸戦争である。

 この際、アメリカはサウジアラビアに進駐したわけだが、イスラム教徒に対してこの進駐は十字軍によるエルサレム陥落以上のショックをもたらした。

 というのも、エルサレムイスラム教の聖都ではあるが、サウジアラビアにあるメッカやメディナはより重要な聖都になるからである。

 ちなみに、このサウジアラビアへの進駐を決めたのがジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ大統領(アフガン侵攻を決めたブッシュ大統領のお父さん)である。

 

 他の例として、アフガニスタンへの侵攻を決めたジョージ・ウォーカー・ブッシュの「十字軍」失言もある。

 これでは、アメリカのアフガニスタン侵攻の意図はイスラム教のせん滅にあると言われても抗弁できなかろう。

 まあ、キリスト教徒の前科を見れば、そのような意図が本当にあったのではないか、とも考えられるか。

 

 なお、本書の最後に著者(小室先生)はキリスト教社会とイスラム教社会の対立は根深く、到底収束しえない」と述べる。

 本書を見れば、非常に納得である。

 

 

 以上、最後まで本書を読んだ。

 次回、本書を通じて考えたことと感想を述べて、本書のメモを終了する。

『日本人のためのイスラム原論』を読む 25

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

25 「第3章_欧米とイスラム_なぜ、かくも対立するのか_第2節を読む」(後編)

 前回はイスラム教と近代資本主義の相性の悪さについてみてきた。

 今回は近代資本主義と双子の関係にある近代民主主義とイスラム教の相性についてみていく。

 

 

 本書では、ここから話が近代資本主義から近代民主主義に移る

 この点、ジャン・カルヴァンの予定説が資本主義と民主主義の起源となった、という話は本書でも以前のメモでも述べた。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 また、民主主義が興る前夜、国王の権力が絶対化し、絶対王政が出現していた

 この点、中世ヨーロッパにおいて国王はプリムス・インテル・パーレス(同輩中の首席)に過ぎず、カトリック教会と伝統主義に縛られていた。

 その雁字搦めに縛られていた国王が絶対権力者になっていく過程は次のメモで述べたとおりである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 つまり、ペストの大流行や十字軍による貨幣経済の浸透によって貴族や教会が権力を失う一方、貨幣経済の浸透によって勢力を増した都市の商工業者が国王に加担した結果、「国王(+都市の商工業者)VS教会+諸侯(貴族)の戦い」のバランスが国王に傾き、その果てに絶対王政が出現した。

 

 この絶対王政における国王の権力と権威は神のようなものであった。

 このことを示している言葉が太陽王ルイ14世の「朕は国家なり」という言葉である。

 さらに、絶対王政を正当化する理論として「王権神授説」という理論まで作られるようになる。

 かくしてリヴァイアサンが出現し、また、このリヴァイアサンは聖書によって退治され(大きな鎖をはめられる)、近代デモクラシーが産まれることになる。

 

 ところで、この王権神授説は聖書に根拠があるわけではない。

 このことは、イエスパウロが内面の信仰だけを重視し、俗界の権力に口出ししなかった点、または、「カエサルのものはカエサルに」という言葉を見ればわかる。

 つまり、俗権力と聖書は無関係であって、俗権力の何かを許容したり何かを否定したりすることはない、ということになる。

 もちろん、イエスパウロローマ皇帝のことを批判していたら、絶対王政の出現は抑えられた可能性があると言いうるとしても。

 

 ただ、この聖書の俗権力への無関心が絶対王権を呼び、また、この王権の巨大化・絶対化がデモクラシーをもたらすことになる

 というのも、プロテスタントは「我こそは神から救済リストに入れられた人間である」という意識(妄念)があって絶対王権に立ち向かったわけだが、逆に、絶対王権が存在しなければこのような過激な行動に踏み切らなかったかもしれないからである。

 また、デモクラシーにおいても国家権力の絶対性は許容しており(このことは近代国家の主権の三要素たる「統治権・対内最高性・最高決定権」から理解できる)、その暴走を憲法で歯止めをかけているに過ぎないからである。

 

 

 では、このような「中世→絶対王政→近代デモクラシー」というプロセスはイスラム教社会で起こりうるだろうか。

 イスラム教社会の場合、近代デモクラシーの前段階たる絶対王政の出現すら難しい、ということになる。

 

 この点、イエスパウロと異なり、アッラー遣わされた最後の預言者たるマホメットは特権階級を積極的に批判した。

 近代革命の基礎となった「神から見れば、国王も国民も紙の同じ神も奴隷」という発想はキリスト教でもイスラム教でも成立しうる。

 つまり、近代革命の基礎となった平等思想はイスラム教の発足時からイスラム教社会にあったということになる

 このことはイスラム教の喜捨(ザカード)の義務にも表れている。

 

 また、現代の視点ではなく中世の時点から見た場合、イスラム教は男女平等を志向していた。

 つまり、当時のアラビア社会は圧倒的な男性優位の社会であった。

 マホメットはこの点を批判して女性を大事にすることを強調した。

 

 もちろん、平等をかなり実現した現代の視点から見れば、イスラム教の規定には男女不平等な点が見られる。

 一夫多妻制などはその例であろう。

 もっとも、イスラム教の発足当時、イスラム帝国はジハードを行う過程でたくさんの男性信者が死に、その結果、孤児や未亡人が発生した。

 一夫多妻制はその孤児や未亡人を保護するための社会保障システムとして機能した。

 また、イスラム法では離婚において男性側は女性に対する生活保障を義務付け、また、女性の側からの離婚の申し立ても可能であった。

 当時の視点から見れば、例を見ないレベルでの女性尊重と言える。

 

 このマホメットの「アッラーの前には富貴の差も男女の差もない」という教え。

 これが当時の被差別者にとってどれだけ衝撃的であったか、また、魅力的であったか、想像に難くないだろう。

 

 

 もっとも、このイスラム教の平等思想こそが近代デモクラシーの出現を妨げる原因となっている

 本書にない言葉を足せば、「イスラム教の『合法的な差別を規範として認める』平等システム」が、といってもいいのかもしれない。

 何故なら、イスラム教の教えは近代革命以前の絶対王政の出現にとって大きなハードルになるからである。

  

 この点、世俗のことにタッチしなかったキリスト教とは異なり、本来の(理想形としての)イスラム教では世俗における身分の差を認めていない。

 また、「王」や「国」という概念も認めていない。

 その意味で、イスラム教では世界を一つの共同体として考えることになる。

 とはいえ、現実の政治を考えれば、統治システムがないと不都合である。

 しかも、これまでの歴史を見ればわかるとおり、イスラム教社会の範囲は極めて広い。

 そこで、イスラム帝国オスマン帝国ムガル帝国ティムール帝国といった帝国が出現した。

 これらの帝国は絶対王政を実現したヨーロッパの各王国よりもはるかに大きい大帝国であった。

 

 ただ、問題となるのはこの帝国の主張たる皇帝(スルタン)の地位である

 この点、イスラム教の教えからみれば、巨大な権力を持つスルタンのような存在は許されない。

 他方で、現実にはスルタンは存在する。

 そこで、この矛盾を解消すべく、オスマン帝国ではスルタンがカリフの地位を兼ねるということで対応した。

 

 この対応、ヨーロッパの感覚で見た場合、国王がカトリック教会の教皇を兼ねるようなものである。

 江戸時代の感覚で考えれば、天皇陛下征夷大将軍になるようなものである。

 よって、とんでもない権力と権威を持っているように見える。

 ところが、さにあらず。

 

 カトリック教会の場合、初代の教皇はキリストの後継者たるペテロと考える。

 そして、カトリック教会の神学者たちは歴代のカトリック教会の教皇を神の代官と定義した。

 このことから、ローマ教皇の権威は絶対的であり、不可侵のものとなった。

 

 これに対して、イスラム教のカリフはそれほど大きい権威をもちえない。

 というのも、預言者マホメットでさえ一信者と同様の「人間」に過ぎないからである

 そして、カリフは「預言者マホメットの代理」と考えるところ、「カリフは人間の代理に過ぎない」ということになる関係で、カリフに大きな権威は生じなかった。

 たとえるなら、カリフの地位は「信者総代」のようなものである

 日本の神社や寺には「信者総代」と呼ばれる人たちがいるが、それと同様の権威しかないことになる。

 とすれば、スルタンがカリフを名乗るといっても気休めにしかならないと言ってもよい。

 しかも、スルタンといえどもイスラム法による制限がある

 これでは「朕は国家なり」というような絶対王権など出現するはずがない。

 また、絶対王権が出現しなければ、近代革命も近代デモクラシーも生じえないことになる。

 

 

 以上、イスラム教社会において近代デモクラシーが発生しない理由をみてきた。

 この点、イスラム教は非常によくできた宗教であると言える。

 イスラム教には三位一体説・予定説のような難解なものがない。

 また、マホメットを最終預言者にすることで異端の出現をかなり減らしている

 さらに、平等思想も存在している。

 ヨーロッパのキリスト教社会が平等思想を持つようになるのが、マホメットの出現から約1000年後であったことを考えれば、マホメットの大宗教家としての才能に驚嘆する以外の感想を持ちえない。

 

 しかし、イスラム教社会の近代からの侵食、また、イスラム教社会が近代から長所を取り入れようというときに、このイスラム教が大きな障壁となっている

 キリスト教の「予定説」から生まれた「行動的禁欲」・「天職への邁進」・「労働は救済である」という思想、「信仰のみ!」から生まれた「利潤徹底否定の思想」、「隣人愛」がもたらした「利潤の正当化・徹底化(合理化)」・「ヨコの契約絶対の思想」、これらの近代化に至る要素がないのだから。

 

 なお、近代資本主義・近代民主主義を支えた近代科学についてはどうだろうか。

 マックス・ウェーバーは「目的合理性」の極限である「形式合理性」の例として物理学を代表とする近代科学・複式簿記近代法・古典経済学が前提としている完全競争市場を取り上げていた

 そして、これらの近代科学は目的合理性達成の手段として存在する

 ならば、目的合理性が必要ないイスラム教においては近代科学も不要、ということになってしまう。

 とすれば、ギリシャの学問を引き継いだイスラム教社会が近代科学に達成できる可能性もかなり低かった、ということにならざるを得ないことになる。

 

 これでは、明治時代の日本のように「欧米列強に対抗するために近代化を取り入れる」と考えた場合、その先にあるものは「イスラム教と近代の二者択一」ということになる。

 また、「十字軍コンプレックス」と裏返しになる「イスラム教社会の誇り」の背後にあるものは、イスラム教社会にとってイスラム教に感化されなかったのはキリスト教だけ、という点にある。

 ササン朝ペルシャ帝国の国教だったゾロアスター教は滅ぼすことで完全に抑えた。

 インドのヒンディー教についてもムガル帝国が一度は抑えている。

 仏教については押しまくる一方。

 さらには、アラビアを蹂躙したモンゴル帝国でさえアッラーの前にひれ伏した。

 

 とすれば、近代化を徹底してイスラム教を放棄すればどうなるか。

 これはキリスト教に対する完敗」を意味してしまい、十字軍コンプレックスの解消どころではなくなってしまう。

 これが超強大な急性アノミーをもたらすことは想像に難くない。

 イスラム教社会の現状はこのような状況にある、ということになる。

 

 

 ここから話はこの苦悩に対するイスラム教社会の具体的な悪戦苦闘と現代におけるキリスト教社会とイスラム教社会の抗争についてみていくわけだが、きりがいいので今回はこの辺で。

『日本人のためのイスラム原論』を読む 24

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

24 「第3章_欧米とイスラム_なぜ、かくも対立するのか_第2節を読む」(中編)

 前回、マックス・ウェーバーの研究を見ながら資本主義が興ったメカニズムをみてきた。

 今回はこれを前提にイスラム教社会の近代資本主義への移行の可能性についてみてみる。

 

 

 結論から言えば、イスラム教社会の近代資本主義への移行の可能性は絶望的と言ってもよい。

 以下、近代資本主義と近代民主主義に必要な前提を取り上げつつ、それらの前提とイスラム教との適合性のなさ(相性の悪さ)についてみていく。

 

 まず、ヨーロッパの宗教改革から近代資本主義に至ることのできた要素がイスラム教社会にあるかどうかを見る。

 この点、イスラム教には「利潤全否定の思想」と「予定説」のいずれもない。

 つまり、イスラム教は「規範」ががっちりしているので、利潤の追求について合法的な例外がある。

 合法的な例外があるということはその範囲での利潤の追求を許していることを意味しているのだから、イスラム教に「利潤全否定の思想」がないことは明白である。

 また、キリスト教は予定説である一方、イスラム教はいわゆる「宿命論的予定説」となっている。

 その結果、「宗教が信者に対してもたらす不安感」が劇的に異なることになる。

 確かに、プロテスタントに比べれば、イスラム教の方がはるかに精神衛生上よいと言えることになる。

 しかし、近代化という観点から見れば、これは大きな障害になる。

「改革のための爆発的エネルギー」が発生しないことを意味するのだから

 

 さらに言えば、「障壁となる『伝統主義』の内容」という観点から見ても、イスラム教の近代資本主義化は難しいと言える。

 この点、ヨーロッパにおける伝統主義はある意味において堕落したカトリック教会や中世であって、キリスト教それ自体でなかった。

 これに対して、イスラム教社会にとって「伝統主義=イスラム教とイスラム法」ということになってしまう。

 これでは、伝統主義の壁はヨーロッパよりも大きいということになってしまう。

 

 つまり、ヨーロッパと比較すると、イスラム教社会においては伝統主義の壁が極めて大きいうえ、打破するためのエネルギーも大きくならない

 以上より、イスラム教社会においては「『エトスの変換』による資本主義への飛躍は絶望的」ということになる。

 

 

 次に、資本主義を支えている「契約絶対の思想」の観点からイスラム教社会と近代資本主義の相性の悪さについてみていく。

 この点、近代資本主義の裏側に「契約絶対の思想」があることは次のメモなどで確認した。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 契約絶対の思想がなければ、「契約が守られること」に期待ができない(この「守られる」には『本契約が履行されなかった場合になされるべきことがなされる』ことも含む)。

 契約が守られることが期待できなければ、そもそも合理的経営などおぼつかない。

 それゆえ、資本主義において「契約絶対の思想」は大きな要素となる。

 この「契約絶対の思想」がヨーロッパやアメリカで確定したのはキリスト教のおかげであった。

 

 この点、ユダヤ教キリスト教イスラム教などの啓典宗教の基本は「神と人間との契約」であり、「人間は神との契約を守るべし」ということになるからである。

 ただ、この「契約」は神に一方的な決定権があり、人間は一方的に押し付けられるものである

 

 そのことはモーセの「十戒」見ればよくわかる。

 ヤハウェモーセに律法を与えたが、その規定は極めて詳細である。

 また、古代イスラエルの民はこの律法(契約)に対して異議を述べることができない。

 もちろん、古代イスラエルの民から見た場合、契約の履行により神は古代イスラエルの民を救済する義務が発生する。

 それゆえ、押し付けられたとはいえ、内容を見れば魅力的な契約、と言えないこともない。

 もっとも、古代のイスラエルの民はこの魅力的な契約を守らなかった。

 神は預言者を派遣したが、預言者の話を古代のイスラエルの民は聴かなかった。

 それゆえ、古代のイスラエル王国は滅び、民はバビロン捕囚の憂き目にあう、といった話はこれまでで述べたとおりである。

 つまり、聖書のテーマを強引にワンワードでまとめれば、「契約を守れ」に尽きることになる

 

 

 この「契約を守れ」というテーマはユダヤ教からキリスト教に受け継がれた。

 しかし、キリスト教に受け継がれた際に、重要なことが起きた。

 それが「『タテの契約』の『ヨコの契約』への転換」である。

 そして、近代資本主義において重要になるものが「ヨコの契約の絶対性」である

 

 つまり、聖書の契約は上位者・神と下位者・人間との間のいわゆる「タテの契約」である。

 そして、この「タテの契約」はユダヤ教にもイスラム教にもある。

 他方、「ヨコの契約」とは人間同士が対等な立場で結ぶ契約を指す

 

 この点、ヨーロッパでは「ヨコの契約の絶対性」という考え方が中世ヨーロッパの時代から成立していた。

 それを示すのが、国王と諸侯(臣下)との契約である。

 国王と諸侯との契約が成立したのはタテの契約がヨコの契約に転化したおかげである。

 そして、ヨコの契約への転化やヨコの契約の絶対性が近代資本主義を支える重要な要素となる。

 

 

 では、この「ヨコの契約の絶対性」という観点からイスラム教を見るとどうなるか。

 まず、イスラム教に「ヨコの契約」が存在するか。

 その答えは基本的に「ノー」である。

 つまり、イスラム教には「タテの契約の絶対性」があっても、「ヨコの契約の絶対性」は弱い。

 そうなった理由もキリスト教イスラム教の違いに由来する。

 

 この点、キリスト教は予定説であり、また、信仰のみを問う宗教である。

 その結果、キリスト教徒にとって人間同士の契約を重視しようが軽視しようが関係ない、ということになった。

 しかし、「人間同士の契約などどうでもよい」と開き直ると様々な弊害が生じる。

 そこで、キリスト教社会では「神との契約を守るように、人間同士の契約も守る」という発想が生まれた。

 つまり、「規範がないので信仰を規範に転用した」ことになる。

 

 

 この転用の際に重要になったのがキリスト教のドグマである「神を愛し、隣人を愛せ」である

 この「神を愛し」において要求される「愛」はアガペーであり、そのレベルは無条件かつ無限である。

 キリスト教では「人間は神の無条件かつ無限の愛によって救われる」と考えるので、「人間も神や隣人に対して無条件かつ無限の愛を注がなければならない」と考えるわけである。

 ここから隣人愛の思想が生まれ、タテの愛(人間と神と間の愛)がヨコの愛(人間同士の愛)に転化された。

 この発想が「『タテの契約』から『ヨコの契約』への転換」に大きな影響を及ぼしていることは言うまでもない。

 そして、隣人愛を媒介として「タテの契約の絶対性」が「ヨコの契約の絶対性」にスライドすることになる。

 

 では、イスラム教の場合はどうか。

 まず、イスラム教では宿命論的予定説を採用している。

 つまり、イスラム教徒の現世での振る舞いは神が「天命(カダル)」として決めていて、そこから逃れることはできない

 その一方で、イスラム教徒の来世は現世での振る舞いによって決められると考える。

 また、アッラーイスラム教徒と共にあり、その行動を全部見ていると考える

 このことは「アッラーは頸動脈よりも近くにいる」というクルアーンの表現にも表れている。

 その結果、タテの契約がヨコの契約に転化する余地がないことになる。

 つまり、我々が「ヨコの契約」として見ている契約も、イスラム教徒は「タテの契約」としてみていることになる。

 

 

 例えば、ビジネス上の契約、あるいは、日常的に我々が買い物をする際の売買契約。

 これらは我々の感覚から見れば「ヨコの契約」である。

 しかし、イスラム教徒から見ればこれも「タテの契約」としてみていることになる。

 

 これに対して、日本教徒たる日本人は「ばんなそかな」と叫ぶかもしれない。

 しかし、これは「タテの契約」の概念が存在しない日本教徒だから感じること

「タテの契約」と「ヨコの契約」が錯綜する場面は色々な場所である。

 その代表的なものが結婚である。

 この点は次のメモで触れている。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 つまり、結婚では、夫は「妻を愛する」と誓約(契約)し、妻は「夫を愛する」と誓約(契約)する。

 対等な文言であることから、この誓約(契約)は「ヨコの契約(誓約)」に見える。

 しかし、ここで二人が誓っている相手はそれぞれの結婚相手ではなく「神」である

 もし、結婚相手に誓うだけであれば、神の面前でやる必要がないからである。

 つまり、教会、つまり、神の面前でやる誓約(契約)は「神と夫の誓約(契約)」・「神と妻の誓約(契約)」という「2つのタテの誓約(契約)」ということになる。

 

 ちなみに、このように考えるため、カトリック教会では離婚が禁止されていることになる。

 もし、この契約が1つの「ヨコの誓約(契約)」である場合、夫婦が契約の改定をすればなんら問題がない。

 つまり、離婚合意によって離婚ができる、ということになる。

 しかし、「タテの誓約」と考えれば、離婚は神に対する誓約の違背になってしまう

 だから、カトリック教会は離婚を禁止しているのである。

 

 このように、「タテの契約」と「ヨコの契約」の境界線は信仰によって異なるといってもよい。

 日本教の場合、「タテの契約」がない一方、「ヨコの契約」がある。

 このことは次のメモで確認した。

 キリスト教の場合、隣人愛を媒介にして「タテの契約」から「ヨコの契約」への転化が行われた。

 これに対して、イスラム教の場合、神の絶対性のみが強調されるので「タテの契約」しか存在しない、ということになる。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 

  この「ヨコの契約」の不在について、単純な売買契約という具体例を出して考えてみる。

 つまり、「AがBが持っているりんご1個を100円で購入する」という売買契約(民法555条)を考える。

 Aは「りんご1個の代金として100円をBに渡す」ということを誓約し、Bは「持っているりんご1個をAに引き渡す」ということを誓約する。

 その結果、売買契約が成立する。

 契約が成立した結果、「AはBに100円を渡す」、「Bはりんご1個を引き渡す」という債務(義務)が発生する。

 それぞれの債務(義務)を履行すれば、契約は履行されたことになる。

 

 さて、日本人、ないし、資本主義の発想で見れば、この売買契約は「ヨコの契約」ということになる。

 というのも、日本人や資本主義の発想で見た場合、Aが誓約した相手はBで、Bが誓約した相手がAと考えるのだから。

 この点は、上述の結婚の例とは異なることになる。

 しかし、イスラム教徒の場合、仮に、このような売買契約が結ばれた場合であってもアッラーに対して誓うのである。

 つまり、我々から見て「ヨコの契約」と見える契約も、イスラム教徒から見た場合は2つの「タテの契約」としてみることになる。

 結婚の場合と同じような形で。

 これが「タテの契約」であって「ヨコの契約」ではない、という意味である。

 

 このことを示しているのが、「売買契約を履行した場合、日本人(資本主義の人)は相手(契約相手)に『ありがとう』という。しかし、中東の人(イスラム教徒)はアッラーに対して『ありがとう』と言い、相手(契約相手)には言わない」という表現である。

 

 

 ところで、ここまで進むと「それならば・・・」ということで次の疑問が浮かぶだろう。

「我々から見て『ヨコの契約』と考えているものをイスラム教徒が『タテの契約』と思っているならば、イスラム教徒は契約を遵守するので『契約の絶対性』が実現するのではないか」と。

 確かに、カトリック教会の離婚禁止の例をイメージすれば思い浮かぶであろう当然の質問である。

 

 しかし、イスラム教の「宿命論的予定説」が契約の遵守の絶対性を薄めてしまっている。

 つまり、イスラム教では人の人生は「天命」(カダル)によって神が決めていると考える。

 その結果、「タテの契約」が遵守されるか否かも神が「天命」によって決めていると考えることになる。

 よって、「『契約を履行できない何らかの事情』が発生した場合、それは神の思し召し、つまり、『天命』である。だから、人間の力でどうにかなるものでもないし、(人間の力でどうにもならない以上)私の責任でもない」と考えてしまう。

 そのことが現れているのが「インシャラー」と言う言葉らしい。

 

 この点、イスラム教でも「タテの契約」を履行するか否かという結果は「救済」の有無に影響するから、イスラム教徒も契約を履行するよう努力はするだろう。

 その意味で、「最初から履行の努力をしない」わけではない。

 しかし、「何がなんでも契約を履行しなければならない。履行できなければ違約罰を覚悟する必要がある」という切迫感がない。

 キリスト教徒の場合、神は恐ろしい神であったから「契約に違背すればとんでもない罰が待っている」と考える。

 また、予定説の場合、「契約を履行しない、つまり、隣人愛を実践しない輩を神が救済リストに入れているはずがない」と考える。

 さらに、日本教徒の発想なら、一定の場合には「我が身に誓約した以上、契約を履行しなかった場合、自分で自分を処断しなければならない」という発想が生まれる。

 このことは次のメモに紹介したとおりである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 

 以上、イスラム教と資本主義の相性の悪さをみてきた。

 なお、このメモでは、本書に記載のない点についても別のメモから補っている。

 以前述べた通り、このメモは学習メモであって、本書のコピペではないからである。

 

 また、イスラム教社会が近代資本主義になるのは絶望的に難しいので、別の方策を考えたほうが良いのではないか、という感想を持たざるを得ない。

 その方策が具体的にいかなるものになるのか、また、その方策はキリスト教社会(近代資本主義社会)に対抗できるものなのか、という問題があるとしても。

 

 あるいは、近代資本主義社会の自滅を待つ、という戦略で考えるべきか。

 資本主義社会による環境破壊その他を考えるとこの手段もありうるかもしれない。

 もっとも、グローバル経済の大きさを考えれば、資本主義社会の自滅によりイスラム社会も共に滅んでしまう可能性もあるが。

『日本人のためのイスラム原論』を読む 23

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

23 「第3章_欧米とイスラム_なぜ、かくも対立するのか_第2節を読む」(前編)

 今回から第3章の第2節に移る。

 この節が本書の最終節である。

 

 第2節のタイトルは「苦悩する現代イスラム_なぜイスラムは近代化できないのか」

 これまでイスラム教の教義、イスラム教社会の栄光の歴史についてみてきた。

 ここからは現代においてイスラム教やイスラム教社会が抱えている問題点、近代化に挑むイスラム教社会の苦悩についてみていく。

 

 

 本節は学問的な話から始まる。

 つまり、「日本人のイスラム教やイスラム教社会に対する理解と誤解」を題材とした帰納法の有用性とその限界に関する話から始まる。

 

 本書で小室先生は次のように言う。

 戦前の日本にとってイスラム教社会は遠い世界であったが、現在はそんなことはない。

 サウジアラビアなどに行く日本人もいれば、そのような人たちが書いた旅行記や滞在記も書店でみるようになった。

 しかし、だからと言って、日本人のイスラム教社会に対する理解が深まったわけではない。

 何故なら、イスラム教社会に滞在し、また、イスラム教徒と付き合ったところで、帰納法の限界を超えることができないからである、と。

 

 この点、論理学において、帰納法」とは個々の事例から一般的な法則を推測する手段を指す。

 もう少し難しく言えば、帰納法」とは特殊命題から全称命題を導く手段を指す

 

 例えば、あるイスラム教徒Aの生活を見ていたら、1日に5回の礼拝を行うことがわかった。

 さらに、イスラム教徒B・C・D・Eの生活を見ていても、1日に5回の礼拝を行っていた。

 この「A~Eのイスラム教徒が1日に5回の礼拝をおこなう」というそれぞれの事実は個別の事例であり、「特殊命題」にあたる。

 そして、これらの事実から「すべてのイスラム教徒は1日に5回の礼拝を行う」という法則を推測すること、この方法が帰納法となる。

 この「すべてのイスラム教徒は1日に5回の礼拝を行う」は全称命題である。

 

 この帰納法と呼ばれる手段は日常生活においてみんな行っている。

 ただ、帰納法による証明はいわゆる「数学的帰納法」を除いて反論不可能な真実を導くことができない。

 

 このことを示す例として、ブラック・スワンの例が挙げられる。

 つまり、ヨーロッパでは白鳥(スワン)について観察した結果、全部の白鳥が白かった。

 その結果、ヨーロッパでは「総てのスワンは白い」と考えられていた。

 しかし、1967年、オーストラリアに黒い白鳥(ブラックスワン)が発見され、「総てのスワンは白い」は間違いであることが示された。

 このように、帰納法によって推測された全称命題はたった一つの反証でつぶすことができる。

 そして、その反証が未来において登場する可能性は否定できない。

 このことから、帰納法は常に間違いである可能性を孕んでいることになる

 

 つまり、イスラム教徒やイスラム教社会における滞在記・旅行記を観察し、そこから推論を立てる場合、それは帰納法による推論になる。

 そのため、これらの推論は常に間違いである可能性を孕んでいる、ということになる。

 

 

 本書で、帰納法によって作られたものが誤謬の塊だった例として人類学の例が挙げられている。

 つまり、人類学がヨーロッパで作られたとき、その基礎資料になったのが世界中から集められた見聞記・旅行記であった。

 当然だが、探検家・宣教師・商人が作ったこれらの見聞記・旅行記は貴重な記録であるし、内容の信用性に耐えられるもの極めて多い。

 でも、信用できるこれらの記録は特殊命題をに過ぎない。

 よって、帰納法の限界を超えられないことになる。

 このことに気付いたマリノフスキーとラドクリフ・ブラウンという2人の人類学者が帰納法による研究方法から科学的調査・研究方法に切り替えた。

 その結果、人類学が飛躍的に発展することになる。

 

 なお、この結果を見ると、帰納法が役に立たないものに見える

 しかし、自然科学において帰納法は重要な役割を演じている

 例えば、ケプラーの法則も火星の観測記録から帰納的に導き出されたものである。

 このように、帰納法なくして科学の発展はあり得ない

 また、医学や生物学では帰納法がなければ何もできない

 例えば、「すべての哺乳動物は心臓を持つ」という全称命題を証明するため、過去から未来までの人類を含む地球上の全哺乳動物をひとつ残らず解剖することは不可能である。

 よって、科学的にみても帰納法は極めて重要な証明手段なのである

 

 もっとも、帰納法には限界があること、無条件に信用できないということは忘れてはならない。

 でないと、ときに大きな判断ミスをすることになる。

 その具体例になっているのが、いわゆる「ブラックスワン理論」である。

 まあ、こんなことを言っても、「『無条件に信じる』か『全く信じない』かのどっちなのか、はっきりしてくれ」などと言いだす人間には難しいかもしれないが。

 

 

 本書では、イスラム教における誤解として次の例を挙げている。

 

「トルコ・サウジアラビア・エジプトなどのイスラム教社会の市場に行っても、商人は我々が異邦人と見れば値段を吹っかけてくる。

 彼らには商道徳もなければ、定価販売という概念もない。

 これだから、イスラム教社会はいつまでも近代化できない」

 

 この人の記述はどこまで信用できるだろうか。

 この点、イスラム教社会の市場には定価販売と言う概念がない」という部分は事実であるから正しい。

 しかし、「これだから、イスラム教社会は近代化できない」の部分は二重の意味で間違っている

 というのも、「定価販売の概念がないのはイスラム教社会に限った話ではない」し、「資本主義が勃興したヨーロッパ社会でも近代以前に定価販売の概念がなかったから」である。

 つまり、イスラム教社会が資本主義になれない理由は定価販売ではなく、別のところにある。

 

 

 では、イスラム教社会が近代資本主義社会になれないのはなぜか

 この点について、イスラム教社会の旅行記・滞在記から帰納法を用いて推論してもわからない。

 そこで、社会科学の方法論、具体的には、マックス・ウェーバーらが築き上げた資本主義研究が重要になる。

 もっとも、マックス・ウェーバーの資本主義研究については既に以下のメモでも述べているので、重複する部分については簡単に説明するにとどめる。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 マックス・ウェーバーの疑問は「なぜ、これまで大資本を作り上げた場所の多くでは資本主義にならず、ヨーロッパだけで資本主義が生まれたのか」である。

 

 この点、大資本を作り上げた場所においてイスラム帝国が含まれている

 アラビア商人は紅海・インド洋を使って交易を行い、膨大な富を築き上げていた。

 例えば、アッバース朝の首都、バグダッドでは世界交通の中心にして経済は繁栄を極めていた。

 また、為替・約束手形・切手などもあった。

 さらに、東に向かえばシルクロードを経て中国へ、ティグリス川を下ればペルシャ湾に出て、インドや東シナ海へ行くことができた。

 また、ティグリス川を遡ることでシリアに行き、地中海・紅海・エジプトに通じることもできた。

 さらに言えば、アッバース朝以外にもイスラム諸国では色々な帝国が興り、経済が発展していた。

 

 しかし、イスラム帝国から資本主義が興ることはなかった

 もちろん、中国も中世ヨーロッパからも。

 つまり、古代のメソポタミア・エジプト・ギリシャ・ローマ、中国、中世ヨーロッパの大富豪、イスラム帝国が築き上げたのは「前期的資本」に過ぎず、「前期的資本」から資本主義に移行するには別の触媒が必要だったことになる。

 

 

 では、資本主義に移行するための触媒は何か。

 この触媒がキリスト教の『資本主義に徹底的に反対する思想』である」と喝破したのが、かのマックス・ウェーバーである。

 つまり、「金儲けを全否定する思想」がない地方には資本主義が発生しないことになる。

 

 これは驚天動地の発想である。

 しかし、この発想が「キリスト教社会に資本主義が興り、逆に、オリエント・古代エジプト古代ギリシャ古代ローマ・中世ヨーロッパ・イスラム帝国・中国に資本主義が興らなかった」という事実を説明することになる。

 

 

 まず、前提として、キリスト教に金儲けを全否定する思想があり、逆にイスラム教にその思想がないことを確認する。

 この点、キリスト教では元来、公然と資本主義に反対する経済思想を掲げていた

 「貪欲こそが人間の大罪である」と教えていた。

 

(以下、「エペソ人への手紙」の第5章第5節から引用、引用元のサイトは次の通り)

 あなたがたは、よく知っておかねばならない。

 すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。

(引用終了)

 

ja.wikisource.org

 

 事実、中世のヨーロッパでは、キリスト教会は金を貸して利子を取ることを禁止していた。

 まあ、堕落から利子を取る例外があまたあったことも否定できないが。

 

 この点、イスラム教社会でも「利子を取るのを禁止しているではないか」と言うかもしれない。

 事実、クルアーンにも次のような記載がある。

 

(以下、クルアーンの第2章第275節から引用、各文ごとに改行、強調は私の手による、引用元は次のリンクから)

 利息を貪る者は、悪魔にとりつかれて倒れたものがするような起き方しか出来ないであろう。

 それはかれらが「商売は利息をとるようなものだ。」と言うからである。

 しかしアッラーは、商売を許し、利息(高利)を禁じておられる

 それで主から訓戒が下った後、止める者は、過去のことは許されよう。

 かれのことは、アッラー(の御手の中)にある。

 だが(その非を)繰り返す者は、業火の住人で、かれらは永遠にその中に住むのである。

(引用終了)

 

www2.dokidoki.ne.jp

 

 このように見ると、イスラム教もキリスト教と同様、利子を禁止しているように見える。

 しかし、「規範の有無」について大きく違うイスラム教とキリスト教では、その「禁止」の意味が違うことになる。

 

 この点、イスラム教社会にはヨーロッパにおける銀行はない。

 クルアーンが利子を取ることを禁止しているからである。

 しかし、投資信託銀行のようなものがある。

 その投資信託銀行のようなところでは、世界中の様々な企業にオイル・マネーが貸し出されている。

 

 この点、「規範」があるイスラム教社会において「規範」=「法」は厳格である

 しかし、その反面、合法的な例外がいくらでも存在する

 例えば、銀行が預金者から預かったお金を企業に貸して、利息を取ればそれは違法になる。

 しかし、銀行が仲介役になって、出資者の金を企業にまわして、そこから投資利益を得るのは合法である。

 つまり、資金提供者がリスクを負い、その報酬としてリターンを得る、いわゆる株式投資のような形は合法とされている

 結果を見れば同様であるが、そこには合法・違法の境界が明確に存在する。

 このように、イスラム法は利子を禁止していても法に抵触しなければ自由である、と言える。

 

 また、歴史を見れば、イスラム教社会を経済活動を禁止していないことは明らかである

 経済活動を禁止していたら、何故、バグダッドイスタンブールの繁栄があるのだろうか。

 さらに、イスラム教は砂漠にあるメディナ・メッカなどの都市から興った宗教である。

 その都市から興った宗教が経済活動を禁止するはずがない

 この点、イスラム教は「砂漠の宗教」と言われるが、砂漠それ自体から興った宗教ではない。

 もっと言えば、クルアーンではアッラーは商売上手を誇っているのである

 ならば、これ以上の言葉は必要ないだろう。

 

(以下、クルアーンの第2章第245節から引用、各文ごとに改行、引用元は次のリンクから)

 アッラーによい貸付をする者は、誰であるのか。

 かれはそれを倍加され、また数倍にもなされるではないか。

 アッラーは、乏しくもまた豊かにも自由自在に与えられる。

 あなたがたはかれの御許に帰されるのである。

(引用終了)

 

www2.dokidoki.ne.jp

 

 

 これに対して、本来のキリスト教には規範がない。

 その結果、神から「貪欲はいけない」と言われたら、合法的な例外が存在しないことになる。

 

 もちろん、中世ヨーロッパでは教会自体が堕落していたので、教会自ら利子を取ることをしていた。

 それゆえ、中世ヨーロッパにおいても、メディチ家などの大富豪が出現してもそこから資本主義が興ることがなかった。

 しかし、ヨーロッパで原点回帰運動たる宗教改革の嵐が吹き荒れる。

 宗教改革の結果として新たに出現したプロテスタントにとって聖書は絶対である。

 特に、カルヴァン派では利子を取ることは絶対に禁止していた。

 カルヴァンは「どんな形であれ利子を取って救済されることはあり得ない」と徹底的に信者を締め上げた。

 ところが、資本主義はこのプロテスタントから興ることになる

「なんという矛盾」と感じることになるとしても。

 

 

 では、何故、利子などの経済活動を徹底的に否定したプロテスタンティズムが資本主義の触媒になったのか。

 この点については、これまでのメモと重複する部分が多くなるのでかいつまんで説明する。

 

 つまり、予定説を信じたプロテスタントたちは「自分が本当に救済されるのかわからない」という不安に襲われる。

 この不安を少しでも解消するために、熱心なプロテスタントほど徹底的に聖書にすがりついた。

 というのも、予定説に従えば、「神に選ばれた人ならば、神の御心のままに動く可能性が高い」ということは言えるのだから。

 もちろん、「神の御心のままに動くからといって100%救済されるわけではない」としても。

 その結果、カルヴァン派の人々は聖書によって自分自身を徹底的に規律することになる。

 そして、その徹底的な規律が「エトスの変換」をもたらし、中世の伝統主義を押しのけた。

 

 この中世の伝統主義を押しのけるためのエネルギーとして機能したのが、修道院にあった「行動的禁欲」である。

 行動的禁欲は「一切の欲望を排して、救済のために行動し続けること」であり、いわゆる「祈り、かつ、働け」である。

 さらに、「世俗の仕事こそ神からプロテスタントに与えられた使命である」という天職(コーリング・ベルーフェ)の思想が強調された。

 その結果、行動的禁欲は天職の邁進に向けられる

 かくして、聖書から「労働は救済である」という思想が導き出された

 

 

 この聖書がもたらした「労働は救済である」という思想

 そして、聖書がもたらしたもう一つの思想が「隣人愛」を基礎とする「利潤の徹底」である。

 

 この点、キリスト教では「隣人愛」がドグマになっている。

 ちなみに、商売による利潤の禁止を説く理由はこの「隣人愛」が理由になっている

 つまり、利潤を得ることは隣人の富を貪ることを意味するから。

 もっとも、プロテスタンティズムでは「貪欲を動機とする利潤」のみを否定した

 というのも、キリスト教では内心の信仰が重要であり、行動や結果は重要ではないから

 そのことは、パウロ「信仰のみ!」という言葉にも表れている。

 

 そして、プロテスタンティズムによるエトスの変換が起きた結果、プロテスタントは次のように考えて、利潤を追求することになる。

 

「隣人が必要としているものを提供することは『隣人愛』の実践である。

 また、隣人が必要なものを提供する際に、値段を吹っかけたり、あるいは、値切ったりすることなく、『等価交換』という形で提供し、その際に適正な利潤を得ることは貪欲の罪にあたらないどころか、倫理的に見て善行になる

 その結果、「等価交換」という形で得られた利潤は隣人愛の実践の具体的な成果となる。

 もちろん、この利潤は投機的な行為による利潤・高利貸が行った暴利と異なることは言うまでもない、と」

 

 かくして利潤は正当化された。

 また、得られた利潤が隣人愛の成果とみなされることから、利潤追求の徹底化・合理化がなされることになる。

 

 このようにしてプロテスタントの中から資本主義が興ることになる。

 

 

 以上がこれまで何度かみてきたマックス・ウェーバー研究の成果である。

 次回は、これを踏まえつつ、イスラム教社会の近代化・資本主義の可能性についてみていく。

2022年の7月から9月までを振り返る

0、はじめに

 10月に入り、令和4年も残り3か月となった。

 そこで、7月から9月までの3か月間を振り返っておく。

 

1、忙しかった3か月

 今回とこれまでの大きな違いに「生活が忙しかった」というのがある。

 

 この点、7月と8月に対外的な意味でやるべきことがあった(詳細は割愛)。

 そのため、7月と8月はその件に相当の時間を費やしたし、また、精神的にも相当疲弊した。

 もちろん、やった甲斐は十分にあった。

 

 また、9月以降についても、対外的な意味で別のやるべきことができた(詳細は割愛)。

 それは今後も継続する予定である。

 もちろん、こちらも十分にやりがいのあることである。

 

 しかし、これらの結果、「従前『やろう』と考えていたこと」ができなくなったし、今後もできなくなると考えられる。

 

 

 ところで、生活に関する記録は録り続けている

 この記録の結果から見ると、この3か月間の「趣味に充てる時間」や「ぼーっとしている時間」などは減少した

 とはいえ、「従前、『自分がやる』と決めたことに対する時間」も減少している。

 

 この点についてはしょうがない面もある。

 また、睡眠時間を削って健康を害するわけにもいかない

 そこで、今後は「『従前にやると決めたこと』のやるべき量」を調整したいと考えている。

 

2 読書とブログについて

 この3か月間でやらなくなったものに読書がある。

 本を借りても、あるいは、本を買ってきてもなかなか読めない状況になっていた。

 ただ、「これまでが読書のしすぎであった」とも言いうる。

 これはこれでいいのかもしれない。

 

 次に、このメモブログについては更新できた記事の数が減少している

 これは「時間がなくなった」という事情の他に、「飽きてきた」という事情もある。

 そのため、今年(令和4年)は「年間120記事」という目標が達成できても、来年にこの目標が達成できるかどうかは微妙である。

 そこで、来年からは「一つの記事の分量に上限を設ける(例えば、4000文字以内など)」・「記事の数を120から60に減らす」といったことを考える必要がある。

「飽きだしたこと」や「時間的な限界があること」は間違いない、しょうがないとしても、ブログの更新自体をやめるのはもったいないし、「メモにする」という過程で勉強したい小室直樹先生や山本七平先生の本はまだまだ残っているので。

 

3 資格について

 この点、令和4年に1つの資格を取得した。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 ただ、去年までの資格に関する目標は「1年に2個」であるところ、もう1個の資格については取得できる見込みがたっていない。

 というのも、今年の9月に実用数学検定1級の申込を行い、10月30日にその試験があるのだが、試験の準備が全くできていないからである。

 

 この点、「勉強したい」と考えていることとして、数学や統計学といった学問的基礎・機械学習やデータ分析といった理論、手段としてのプログラミングがある。

 また、将来を見越して英語を学び直したい、といったものもある。

 しかし、前述の通り、最近、忙しくなったことを考慮すると、これらの目標を達成するまでの距離はかなり遠くなってしまった。

 また、「1年に資格を2個取得する」というこれまでの目標を考えた場合、あと3年もすれば目標がなくなってしまう。

 よって、「1年に2個」といった目標は放棄してもいいのかもしれない。

 そもそもの目的は「学びたいことを学ぶ」とか「学習の習慣を身に着ける」といったことであって、「資格それ自体」にあるわけではないので。

 

4 健康と体重について

 2年前に体調が急激に悪化し、それに対応する薬を飲んでから、健康については小康状態を維持している。

 また、2年前に体調が悪化したときと比較した場合、体重は減少している。

 

 もっとも、肥満状態から脱却するためには、また、適正体重のラインまで体重を落とすという観点から見れば、体重はまだまだ減らさなければならない

 たとえ、7月と8月にかかった精神的負担を考慮すれば、リバウンドしていないだけで十分と言いうるとしても。

 

 この点、現在は「続けられない無理なことはしない」・「リバウンドはしない」ということを条件に「できる範囲のこと」をしている。

 しかし、現状では不十分である。

 よって、ダイエットのための積極的な行為を追加すべきかもしれない。

 

 また、新たなストレス解消の具体的な手段も考えないといけない

 これまでは「ストレスを受けると『食べる』方向で解消してしまう」という傾向が強かったので。

 

5 プログラミングについて

 この点、プログラミングとの距離の遠さを解消するため、5月に「python3エンジニア認定基礎試験」という試験を受けた。

 しかし、忙しくなったという事情と相俟ってプログラミングとの縁はどんどん遠くなっている。

 そこで、前回の資格の1個上の資格である「Python3エンジニア認定データ分析試験」でも受けようかと考えている。

 

www.pythonic-exam.com

 

 この点、10月30日の数学検定1級に合格する見込みはほとんどない。

 ならば、この資格を狙うのも悪くないだろう。

 まあ、この資格を得るために勉強をし、かつ、この資格を取得したとしても、プログラミングとの距離が近くなるかどうかはわからないが。

 

 

 以上、この3か月を振り返ってみた。

 今年も残り3か月、充実した時間をすごしたいものである。