薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

「資格を取るための勉強」に関する感想

0 はじめに

 令和の時代に入ってからの約3年間、私は「資格を取るための勉強」を行った。

 そして、6個の資格を取得した(同種だが級やランクが異なるものもそれぞれ1つとカウントする)。

 そこで、一連の行為について振り返ってみる。

 

1 目的

 私の資格の勉強を行う最終目的は「資格の取得」それ自体ではない

 また、「取得した資格を使って金銭的利益を上げること」でもない。

 私の最終目的はもっと内面的・主観的なものであり、それらを列挙すると次のようになる。

 

・勉強する習慣を身に着ける

・勉強の結果を一定の形に残す

・新しい分野について学習する

 

 最重要目的は「勉強すること」・「学習する習慣を身に着けること」であった。

 ただ、単に漠然と「勉強する」といって専門書を読むだけでは実感がわかない。

 また、読んだものが身に着いているかも判断できない。

 そこで、可視化できる形として「資格」という結果を求めることにした。

 

 また、「できるなら今まで触れたことのない分野について勉強してみたい」とも考えていた。

 そこで、特に分野にこだわらず興味を持った分野に挑戦することにした。

 また、経済・会計との縁が薄いうえ、一度、これらの勉強をしたいと考えた。

 そこで、経済・会計の資格に狙いを定めることにした。

 

2 取った資格1_簿記3級

 最初に狙った資格は簿記3級である。

 狙いを定めたときのポイントは「1つ目だから簡単そうであること」・「会計・経済との関連性があること」である。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 実は、簿記3級の試験を受ける際、「できれば簿記2級の勉強もしてしまおう」と考えて簿記2級の試験の申込もした。

 しかし、私はろくに勉強しなかった。

 簿記3級に関する最低限の勉強しかせず、結局、簿記2級は敵前逃亡することになる。

 

3 取った資格2_簿記2級

 簿記3級の次に狙った資格は簿記2級である。

 狙いを定めたときのポイントは「会計・経済との関連性があること」・「簿記は2級まで取らないと意味がなさそう」・「敵前逃亡したけど、やはりちゃんと合格するまで勉強したい」である。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 この点、一度敵前逃亡して「次こそは」と決心したにもかかわらず、簿記2級の勉強をあまりしなかった商業簿記・工業簿記の教科書を読み、教科書に掲載されている演習問題を解くことはしたが)

 そのため、試験に合格する自信は全くなかった。

 しかし、「2回も敵前逃亡するのはさすがに・・・」と考え、試験を受けた。

 自己採点の結果、「約68点で不合格」という感想を持つが、結果はギリギリ合格。

 

4 取った資格3_統計検定2級

 簿記2級の資格を取った翌年、コビット・ナインティーンの影響などにより様々な資格試験が中止された。

 また、簿記2級に合格して慢心したのか、体調が悪化したのか、「勉強しよう」という意欲がなくなった。

 その関係で、簿記2級の資格を得て約1年間、私は資格の勉強を何もしなかった。

 しかし、「このままではさすがにまずい」と考え、取れそうな資格に狙いを定めることにした。

 選んだ資格は「統計検定2級」。

 選んだポイントは「統計について一度勉強し直したい」・「大学教養レベルなら苦労するレベルではない」の2点。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 この試験はCBT形式で受けたところ、初めてのPCを前にして受けた試験だったため、それにあわせるのに少し苦労した。

 ただ、数学は私の得意とするところ、難なく合格した。

 

5 取った資格4_FP技能検定3級

 統計検定2級を一蹴して、気をよくした私はFP技能検定3級に狙いを定めた。

 狙った理由は「経済・会計の分野に属すること」・「3級はとっかかりとして取り組みやすいこと」の2点。

 

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 この点、私は試験直前までほとんど勉強しなかったが、一夜漬けの如く前日・前々日に勉強してなんとか合格する。

 自己採点をして合格を確信した私は、「これで4つ、去年のノルマは達成した」とホッとする。

 

6 取った資格5_基本情報技術者

 FP技能検定の3級の合格を確信して、4つの資格を取得した私は少しホッとした。

 そして、次の狙いを「基本情報技術者」に定める。

 ポイントは「IT技術者にとってとっかかりの資格であること」・「一度、IT関係の知識を一通り学びたい」の2点。

 この点、この資格は秋に取る予定だった。

 しかし、これまでの「直前まで勉強しない自分の態度」を見て、「CBT方式など日程が自由であればさっさと受けた方が良い」と考えた。

 そこで、試験会場・試験時間等を調べて受験の申込をし、必要な勉強して試験を受け、無事に合格する。

 

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7 取った資格6_FP技能検定2級

 基本情報技術者の資格を取った私は「1年で2個なら、次の資格で今年のノルマ達成」と考える。

 そして、今年の最後の資格としてFP技能検定2級に照準を定める。

 狙った理由は「経済・会計の分野に属すること」・「3級はとっかかりとして取ったが、ちゃんと学ぶなら2級まで狙っておきたい」の2点。

 

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 この試験、直前の勉強だけで受かるような試験ではないと考えられる。

 しかし、私は試験の1週間前くらいまで全く勉強しなかった。

 また、直前の勉強だけでなんとか合格してしまった。

 とすると、資格試験の合格ラインは私が考えているよりも相当低いのかもしれない。

 

8 感想

 これらの資格は職業上の要請で受けた試験ではない。

 また、不合格になったところで失うものがほとんどない。

 つまり、これら一連の行為に対するデメリットはない。

 

 他方、得られたものは大きかった。

 会計に関する知識・経済に関する知識・統計に関する知識・ITに関する知識、これらをある程度広範囲に学べたのは大きい

 例えば、基本情報技術者」の場合、ハードウェアからセキュリティ、マネジメントまで一通り勉強できた。

 私は昔から「情報科学について一度勉強したい」と思っていたが、その目的を資格を取る形で果たせたのは非常によかった。

 

 あと、「資格試験のハードルは思ったより高くないな」との感想を持った。

 FP技能検定2級と簿記2級は「この程度の勉強で受かるのか」という程度しか勉強しなかった。

 確かに、無勉強で受かったわけではない。

 教科書は最初から最後まで読んだし、演習問題もそこそこやった。

 しかし、両方とも「過去問を何年分解いて完璧にした」というレベルで、言い換えれば、高校や大学の受験勉強や司法試験と比較すれば真面目にやってない。

 大学受験等のレベルで考えれば、両試験は合格していなかっただろう。

 しかし、結果は合格。

 ならば、「私が想定しているハードルが高すぎた」ということになる。

 つまり、「『資格に受かったから云々』と言えることはない」としても、『試験に受からなかったからどうこう』とは言える」という感想はもった。

 

 それから、勉強する習慣については「身に着いた」とは言い難い。

 どの資格についても1カ月程度のスパンで継続的に学習して合格したわけではないのだから。

 しかし、「一気にガーっとやってしまう」ことは今でも可能であることには気付けた。

 そして、「継続的に何かをやる」のではなくて「一気に何かをする」という傾向をうまく活用することが大事と言うことに気付いた。

 これからはその方向で考えていく。

 

9 これから

 とりあえず、私が学びたいことはまだまだあるので、それにあわせて資格の勉強もやっていく予定である。

 また、今後の私の活動について「『一気にやる』ことの回数を増やす、つまり、回転を速める」ことについても色々と考えていきたい。

 

 とりあえず、来年取ろうと思っている資格は次かな。

 もちろん全部狙っていないが。

 

・数学検定1級

・統計検定1級

応用情報技術者

・英語関係(トーイックか英検1級か)

『「空気」の研究』を読む 20

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

22 第3章_日本的根本主義について_(一)を読む

 本セッションは太平洋戦争直後に見られた著者(山本七平氏)の経験から話が始まる。

 一つ目は「アタマの切り替え」に関する話である。

 要約すると次のとおりである。

 

・戦後、収容所では「アタマの切り替え」という言葉があり、これは「戦争終結により『情況』が変化したから、古い『情況』ではなく新しい『情況』に対応し、思考・行動・所作を一切改めよ(回心せよ)」という趣旨である

・この「アタマの切り替え」と呼ばれる一種の回心、骨の髄から軍人である人まで簡単にでき、例外的にできない人は嘲笑・蔑視の対象となった。

・収容所生活から日本に帰還するタイミングで再び「アタマの切り替え」が行われた

 

 この現象、私の身近なところでも見られる現象である。

 

 二つ目の話は「モンキートライアル」に関する米軍中尉と著者とのやり取りである。

 内容を「私釈三国志」風にすると次のようになる(趣旨は同じだが実際のやり取りはこれとは完全に異なるので、その点は注意してみること)。

 

米軍中尉「おい、知っとるかー。『進化論』ちゅう考えがあってなー、人間はサルから進化したんやで―」

著者「(うっせーなー、まあ、お付き合いとして聴いてやるか)」

米軍中尉「べらべらべらべら(『進化論』に関する講義)」

著者「ふざけんなっ。日本では『進化論』は小学校くらいで教えてくれる。日本はアメリカのように『モンキートライアル』を行うような未開な国ではないっ」

米軍中尉「は?(何言ってんの?天皇陛下が現人神の国で『進化論』なんか主張したら不敬罪になるじゃん)」

著者「(こいつ、信じてねーな)ダーウィンのことや『進化論』がガラパゴス諸島での調査の結果が端緒になっていることなどは『子供の科学』という少年雑誌で小学生の頃に読んだ。『進化論』なんか日本じゃ常識だわ」

米軍中尉「・・・。じゃあ、日本人はサルの子孫が神だと思ってんの?あんたもそう思ってるの?」

 

 アメリカでは(聖書の記載と矛盾する)ダーウィンの進化論を学校で教えたため、モンキートライアルになった。

 そのアメリカの視点で日本を見た場合、天皇教が天皇陛下を現人神として規定した以上、進化論を容認すれば「現人神はサルから進化した」ということになってしまう。

 それでは、天皇陛下に対する不敬とみなされても文句は言えない。

 事実、天皇陛下機械的に取り扱った美濃部達吉天皇機関説は戦前大問題になったし、御真影に対して敬礼を行って(最敬礼をしなかった)内村鑑三も弾圧された。

 このことを考慮すれば、山本七平が読んだ少年雑誌の出版社や進化論を教えた教授・講師に対して戦前右翼が抗議したとしても何ら不思議ではないように思われる。

 一神教の視点で見れば。

 

 しかし、日本ではそのような事実は見られていない。

 少なくても見える形での何かは存在しないと判断してもよかろう。

 あれば滝川事件のように問題になったと考えられるし、さらに言えば、理系の教授たちが文系の教授と比較して学問弾圧・思想弾圧に寛容・鈍感であったとは考え難い。

 

 では、何故、日本では天皇教と進化論が併存できたのか。

 併存できたなら、何故、「進化論」が天皇陛下に対する不敬にならないのか。

 あるいは、何故、日本でモンキートライアルのようなものが起きなかったのか。

 

「空気」が醸成されなかったから(軍部がたきつければ弾圧できただろう)というのもあるが、別の重要な理由としては「我々が多神教の世界の住民だから」ということになる。

 

 他方、日本の視点でからアメリカのモンキートライアルを見ればこう思うだろう。

アメリカとヨーロッパは自然科学を発展させ、その知識を使ってすげー文明を作って発展している。そんなすげー国が聖書の記述と矛盾することを教えただけで訴訟(大問題)になるの?なんで?つか、そんなんわざわざ問題にする?ただの学説なんだからほっとけばいいじゃん?

 

 

 本章では、欧米(一神教)と日本における「『絶対である』と考えているもの」についてみていく。

 ただ、多神教の考え方をみようとしても我々にとって当たり前のことが多くて分かりにくい。

 そこで、我々にとって違和感のある一神教における考え方を確認して、それと比較する形で我々の根本主義ファンダメンタリズム)を見てみる。

 

 まず、一神教では一つの組織的合理的思考体系が存在する。

 簡単に言えば、「あらゆるものは『一つのマップ』に配置でき、配置できないものは存在してはならない」ことが前提になっている。

 例えば、「総ての学問は自然科学・社会科学・人文科学などといった形で分類され、学問マップのどこかに配置される」ということになる。

 また、「宗教や学問は『全体』という1つのマップのどこかに配置されている」ということになる。

 

 そんな状況で既存の宗教と矛盾する新しい学問・学説が発生したらどうなるか。

 既存の宗教と新しい学問・学説が両立しなければ、既存の『1つのマップ』に配置できなくなる。

 そのため、「一つのマップ」を維持するために、(既存の宗教に適合する)既存のマップを維持してに新しい学説を排除するか、新しい学問に適合するような新しいマップに改良して既存の宗教を排除するか、の二者択一を迫られることになる。

 これが「進化論」か「聖書」か、の背景にあるものである。

 

 この一神教の背景を見ることで、逆に我々の背景も見えてくる。

 多神教を前提とする日本人には一神教における一つの組織的合理的思考体系が存在しない。

 つまり、「あらゆるものは『一つのマップ』に配置でき、配置できないものは存在してはならない」という前提がない。

 一方、日本では「『情況』への対応」が要求されるので、「学問研究」という「情況」では「進化論」を認め、「政治」の場では「現人神が存在する」と対応することが日本的一君万民情況倫理から見た善・正義の振る舞いになる。

 とすれば、「進化論」が政治という「情況」に持ち込まれていれば天皇機関説事件のような事件になっていただろう。

 

 

 さらに、この意見を下敷きにすれば、エピソードに出てきた「『陸軍一等生に大学院を出た学者がいること』を米軍中尉が信じられないと反応したこと」の背景も見えてくる。

 お互いの言い分を具体化すれば次のようになるだろう。

米軍中尉「日本は大学院を出た学者をただの兵隊として使うのか。知識の保有者たる学者はその知識を活かせる場所で使えばいいだろうに」

日本側の言い分「『学会』という『情況』では学者の知識は有益であり、役に立つが、その範囲でのこと。『軍隊』という『情況』では無益であり役に立たない。だから、庶民と同様の兵隊として用いる」

 

 

 以上が本セッションのお話。

 モンキートライアルから思想の背景に話が発展するとは分からないものである。

「2級FP技能検定」の試験を受ける

(10月25日追記、

 この日記は試験直後、つまり、合否未確定のうちに書いたものであるが、10月25日の合格発表により合格が確定した)

 

0、はじめに

 9月12日、私はファイナンシャル・プラニング技能検定の2級(FPの2級)の試験を受けた。

 自己採点の結果を見る限り、おそらく合格。

 そこで、記憶が薄れぬうちにのFPの2級の試験に関することを記録しておく。

1、目的

 FPの2級の資格を取る動機はこれまでの資格を取る動機と同じである。

 箇条書きにすると次のような感じになる。

 

・勉強する習慣を取り戻したい

・勉強の成果を資格という形で残したい(資格を取るレベルの勉強をしたい)

・経済・会計に関する勉強がしたい

 

 2年前、私は会計・経済の勉強の一環として簿記2級(と3級)の資格を取った。

 去年、FPの3級に狙いを定めたが、ほとんど勉強しなかったため敵前逃亡した。

 そして今年、勉強の習慣の巻き返しを図った私はFPの3級に狙いを定め、そして、合格した。

 

 ただ、私は「(簿記を見る限り)1級は狙う必要がないとしても、3級だけでは心もとない。もう少し勉強する必要する観点から2級も取得したい」と考えた。

 そこで、FPの3級の試験の直後、FPの2級の教科書と問題集を購入した。

 また、基本情報技術者の試験に受かって間もない7月中旬、FPの2級の受検を申込んだ。

 士気は十分、と言いたいところである。

 

2、具体的に利用した教材と学習経過

 利用した教材は簿記3級・簿記2級・FPの3級の教材を作った著者と同じ教材である。

 つまり、滝澤ななみさんの教材である。

 

 

 

 簿記3級・簿記2級・FPの3級の場合と同様、私はこれ以外の教材に手を出さなかった。

「この2冊の組み合わせがあれば、他には何も要らない」と言っても問題ないだろう。

 もちろん、相性の問題があるので「この教材がベスト」とまでは言わないが(「ベターである」とは言える)。

 

 さて、今年に受けた他の資格試験(統計検定2級・FPの3級・基本情報技術者)において、私は試験直前までほとんど何もせず、一夜漬け、一週間漬けのような感じで試験を受けていた。

 そして、「FPの2級は簿記2級と同じくらい大変だから、直前に一気にやろうとしても絶対に間に合わない。だから、前もってちゃんと勉強するぞ」と考えていた。

 しかし、しかし、私は1週間前までほとんど勉強していなかった。

 試験1日前の9月11日、土曜日の朝の時点において教科書を完全に読み終えておらず、「今年、学習習慣の巻き返しを図って、これまで3つの資格を取った。もう十分だ。来年3つ資格を取ればいい。今回のFPの2級は敵前逃亡しよう」という考えも頭にちらついた。

 しかし、教科書の大半(1章から5章まで、残りは6章)は読み終えている。

 そこで、「一夜漬けでできるだけ勉強して、結果を考えずに受検するだけすればいい。敵前逃亡するのは受験料(約1万円)がもったいない」と考え直して、一夜漬けを敢行した。

 1万円の受検料を惜しんで勉強とはなんかケチ臭い感じがするが。

 

 受検前日、私は教科書の残り部分を読み、問題集に掲載されている問題をひたすら解いた。

 正答率は約60%、試験の合格率と同じくらい。

「こりゃ受かるか受からないかは運次第だなあ。確実に合格できるとは到底言えないレベルだなあ」との感想を持つ。

 しかし、「準備が明らかに足らない。試験を受けても絶対に受からない。」と考えていた簿記2級を「記念受験だ」と思って受けにいったら合格してしまった、という前例もある。

「結果を気にせず受けるだけ受けよう」と気楽に考え、出かける準備をした。

 

3、試験

 試験については特に書くべきことはなし。

 会場に着いて、体温の検査を行って建物に入場し、試験室に入って着席。

 そして、試験を受ける。

 試験が終わった後は急いで帰宅。

 

 午前の学科試験は「記憶の精度があやふやなため二択までしか絞れない。まあ、常識的に考えてこっち」って感じで回答を選んだ問題が少なくなかった。

 試験問題60問のうち半分の30問はそんな感じで回答したであろうか。

 そのため、「ボーダー(60%)を超えることができた」という実感がないまま学科試験が終了した。

 

 他方、午後の実技試験は筆記試験であり、計算などをしていかなければならない問題も複数あった。

 そのため、「てきとー、てきとー、てきとー」という感じではなく、知識から組み立てて正解を出して、回答欄に答えを書き込んだ。

 そのせいかある程度手ごたえを感じることができた。

 

 夕方、模範解答が公開されたため、サイトに行って回答を確認して自己採点を行う。

 学科試験も実技試験も約75%以上の正答率を叩き出していた。

 つまり、ほぼ合格(実技試験は配点が分からないので本当に何とも言えない)。

 分からないものである。

 

4、感想

 現段階でFP2級の感想を述べてしまえば、「FPの3級の勉強が大事(重要)」ということなのかもしれない。

 今回、合格ラインを上回る結果を出せた(合格が確定していないのでこのような表現にしておく)のは3級の知識がある程度しっかりしていたからとしか言えない。

 3級から2級にステージアップすることで試験範囲が広がると言えなくもないが、細かい分野の知識よりも3級で得た知識を確実にすることの方が大事なのかもしれない。

 

 正直、2級の教科書を読み、問題集の問題を解いていて、「これは3級の復習だなあ」と感じることも少なくなかった。

 簿記2級の学習をしたときのように、新たに学ぶ分野の重みを感じることはそれほどなかった。

 合格ラインが6割であることも併せて考慮するなら、新しい分野を追いかけることよりも3級で学んだことの徹底を図った方がよいのかもしれない。

 

 また、「私は長期戦を戦うことができないのかもしれない」という感想も持った。

 今年の資格試験の勉強はどれも短期決戦でなんとかしている。

 結果的にどれもなんとかなったが、条件によっては失敗するものもあろう。

 今後はそのことを考慮して、前に出る方向を考えた方がいいのかもしれない。

 

 さらに、いくつかの資格試験を受けて、「資格試験」を通じて考えたこともある。

 ただ、それについてはFPの2級から離れた話になるので、別の機会に書きたい。

『「空気」の研究』を読む 19

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

21 第2章_「水=通常性」の研究_のまとめ

 第3章に移る前に第2章の内容をまとめておく。

 

・「水を差す」行為と効果、また、その背後にあるもの

 盛り上がった雰囲気・「空気」が醸成された状況で「現実的・具体的な目の前の障害」を口にする(いわゆる「水を差す」)と、その場の「空気」が消失してその場の人々を現実(通常性)に引き戻す

 日本では差す「水」の発生源が存在しており無言のまま「水」を差し続けているため、日本に導入された外来の思想・制度はこの「水」の影響を受け続け、名前は残るが実体は失われ、内容は変質してしまう

「水」の発生源は日本にある「日本的(無意識的)通常性」である

 

・欧米の固定倫理の特徴

 固定倫理に基づく規範が適用される際、人間は規範に関与できない

 尺度(規範)は非人間的であり、非人間的性こそが公平性・平等性を担保している

 固定倫理を具体化するための概念・定義の数は膨大である

 妥当な基準にするためルールは複雑化してしまい、日本的情況倫理の世界に生きる人間から見ればついていけない

 固定倫理の世界では、目盛りを人ごとに操作こと、結果の操作することは、恣意的な扱い、不公平な扱いとされる

 

・日本的情況倫理の特徴

「情況倫理」とは、「一定の環境(『情況』)にあれば、人は同じ行為を採用する」ことを前提とする規範である

「情況倫理」が適用された場合、「その行為が『情況』に対応した行為であれば、行為者は責任を負わず、『情況』を作出した者が責任を負う」と考える

「情況倫理」の前提には「行為に関する個人の具体的意思決定の存在」を否定する点に特徴がある

「情況倫理」の基準には「形式だけ見て判断を見れば、全部免責してしまう」・「実質的に見て判断すれば、基準が不明確である」という特徴がある

「免責」を「他人と異なる取り扱いの否定」と広く考えた場合、「情況倫理」を形式的に適用すると「個人の具体的行為による結果を評価せず、一律に扱う」という結果になる

「情況倫理」で用いられる「情況」の特徴として、現在から過去を投影してしまう要素が除去できず、真実(事実)と「情況」の間には乖離があり、一定の虚構を含む

「情況倫理」において「情況」は個人の差異を除去するために用いられる

「情況」の存在意義(個人の差異の除去)から見た場合、「情況」に虚構が含まれることは問題とならず、むしろ虚構が含むことが要請される

「個人の差異を認めない」という前提で「情況倫理」を適用すると「異常な行為の存在によって、異常な『情況』があったことの証明になる」という事態が生じる

 日本的情況倫理の背後にあるのは日本的平等主義(同一主義)であり、ここにおける「平等」とは、欧米における「機会・評価方法の平等」ではなく「評価・内容の平等」を意味する

 現実には異なる個々人を同一の評価にするためには尺度(目盛り)を修正する必要があるが、そのための手段が「情況の設定」である

 

・日本的通常性による「空気」の分解、「空気」の醸成のメカニズム

①「日本的通常性」が「空気」に「水」を差し続けた結果、「空気」を分解して「一君万民」状態を作り出す

②「一君万民」の「一君」は情況倫理であるところ、「万民」が「一君」の意思・規範を知るためには情況にあわせて「一君」を臨在感的に把握せざるを得なくなるが、その臨在感的把握が絶対化すれば、それは新たな「空気」の醸成となる

 

・日本的通常性の背後にある規範

 日本的通常性を端的に表現するならば孔子の「孝」の発想である

 日本的通常性を基盤にした場合、個人の行為の結果について個人の帰属する集団の構成員全員が連帯して責任を負う

 日本的儒教思想において、集団(構成員)の利益(免責)のために客観的真実を黙秘することは誠実な行為とされ、逆に、客観的真実を述べることは逆に不誠実な行為とされ追放される

 日本的通常性を基盤とした「一君万民状態と情況倫理」は集団倫理であり、個人倫理や固定倫理になることはない

「一君万民状態と情況倫理」にとって脅威となるのは自由主義個人主義であり、個人と自由を否定した形の共産主義社会主義とは矛盾しない

 

・戦後のアメリカが持ち込んだ「自由」とその帰結

 戦後、アメリカは日本の明治時代の権威を否定し、日本に「自由」もたらしたが、その結果、日本は共同体的自己決定に基づき、日本的通常性の影響を強く持つ規範によって運営されることになった

 日本的通常性規範が個々人の具体的な差を否定し、個々人の意思決定の自由を否定するものであることから、アメリカの「自由」の持ち込みによって、日本人の個々人の「自由」否定されることがあってもおかしくないこととなった

 日本的通常性規範を基盤とした場合、社会主義も民主主義社会も達成できなくはなかったが、自由主義の達成は極めて困難であった

 

・「一君万民情況倫理」社会

 一君万民状態と情況倫理は一集団内でしか存立しえないため、集団相互の信頼関係が成立しないため一種のセクト主義をもたらす

(私的関係を除いた)一般人と一般人との間の信頼関係もなく、その信頼関係が前提となる欧米の市民社会が成立しえない

 セクト主義の弊害を除去して疑似市民社会を生み出すためには、全日本的な一君万民状態を作出する必要が生じる

 一君万民状態・情況倫理は自由と個人を排除していく社会となる

 

・「一君万民情況倫理」と「事実」・「科学」

 日本において「真実」・「科学」は設定された「情況」によって変化する

 設定された情況によって「事実」・「科学」の内容が変化するため、全体で事実や理論を共有することができない

 

・日本における社会問題の解決プロセス

 日本ではデータ・事件・現象の起点に『何かの力』が付与し、その力が付与すると『起点』と無関係に暴走を始め、勝手に紛争を発生させる上、起点(懸案)の解決が困難になる

 日本社会において社会問題の発生すると、社会問題によって生じる集団相互の紛争が発生しまい、紛争を解決するためには情況倫理を破壊して集団を一掃する必要が生じ、その結果、新たな一君万民情況倫理体制が作られる

 

・日本的通常性、空気、水、情況倫理の背後にあるもの

 日本的通常性・空気・水・一君万民情況倫理の背後にあるのは「虚構」である

「虚構」が人を動かす原動力となる以上、問題なのは「虚構」が存在することではなく、「虚構」の使う場所、具体的には、政治・経済・外交・軍事・科学に関する判断においてこのような「虚構」を用いてよいのか、ということになる

 日本的通常性による秩序ができた場合、「空気」と「父と子の間の隠しあい」が生まれるところ、その前提となる「虚構」を維持するために劇場のような閉鎖性や情報統制が必要になる。

 情報統制を行う結果、「水」を差す者を弾圧して、自らの無謬性を主張する必要が生じる

 

・日本的通常性から脱却する方法と「自由」

 日本的通常性から脱却する方法は「拘束を断ち切った自由な思考」と「自由な思考に基づく試行錯誤」にある

 戦後の「自由」とは「『水』を差す自由」であったが、この「水」は「現実」であり、日本的通常性であり、新たな「空気」醸成の源泉であった

 

 

 結構、分量が多いなあ。

 それだけ学ぶことが多かったとも言えるが。

 結構な分量になったので、第3章を読むのは次回以降にて。

『「空気」の研究』を読む 18

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

20 第2章_「水=通常性」の研究_(十)を読む

 これまで、「空気」と「水」・これらの背後にある日本的通常性・「一君万民情況倫理」についてみてきた。

 では、これらに共通するキーワードは何か。

 それは「虚構」=フィクションになる。

 つまり、「虚構の世界」・「虚構の中に『真実』を求める社会」・「虚構の支配機構」ということになる。

 

 この点、世界を見渡せば分かる通り、「虚構」抜きで人が動くことはない。

 それは多神教の世界である日本であれ、一神教の世界である欧米(イスラム)であれ変わらない。

 それは、演劇や祭祀を例にしてみれば分かる。

 演劇では一つの「情況」(「設定」・「お約束」・「暗黙の了解」など言い換えはご自由に)が設定され、それを前提にして、また、その前提を当事者全員が承知したうえで成立する。

 よって、その「虚構」の設定に対して「それは『虚構』だ」などと言っても意味がない。

 また、「『虚構』であるから云々」などと言ったら演劇が成立しないことを考慮すれば、「それを『虚構』だ」と言い続けるものは排除せざるを得ない。

 そして、一定の「情況」の上で演じられた演劇などにより、人が感動すること、または、人の行動に一定の影響を与える力になることは否定できない事実である。

 

 よって、問題は「ここで『虚構』を許すのか、『虚構』を許さないのか」になる。

 例えば、演劇や祭祀、ゲームやアニメの世界でこれを許したところで問題はない。

 

 ただ、日本的通常性に基づいて一つの秩序ができる場合、「空気」と「父と子の間の隠しあい」が生まれてしまう。

 よって、この秩序が作成された場合、その「虚構」を維持するために劇場のような閉鎖性が必要になる。

 つまり、この集団は「閉鎖集団」となるし、一種の情報規制をせざるを得ない。

 だから、問題はこのような閉鎖集団が政治・経済・外交・軍事・科学(本書の例だと公害、最近の例ならコロナ禍等の公衆衛生や原発)などといった部門を支配し、また、「父と子の隠しあいの倫理」が成立した状態で意思決定をして大丈夫かということになる。

 その結果は本書で出てきた戦艦大和や公害の例、現代のコロナ禍をめぐる惨状を見れば分かるだろう。

 

 例えば、外交の例で考えてみる。

 日本では、相手と関係を樹立するためには相互に隠しあいをしなければならないことになる。

 しかし、それでは固定倫理世界における外交は成立しないため、虚構を前提として相手との関係を樹立することになる。

 まあ、客観的に見た場合、このようにして関係を樹立したところで(客観的な)相手とは関係が断絶しているから、まあ、遠くない将来に破綻するわけだが。

 

 本書にある日中国交回復のケースを用いて説明するとこうなる。

 まず、「日中と国交を回復すべし」という「空気」が醸成される。

 そして、中華人民共和国を父、日本側を子とする関係が成立する。

 そのため、中華人民共和国側の都合の悪い現実を日本のマスコミが隠すという事態が生じる。

 これぞまさに「子は父のために隠す」の典型例だろう。

 

 もちろん、このように醸成された力によって一気に大きな成果を為し遂げることもあるし、逆に、一気に自分を破滅の淵に追いやることもある。

 ただ、この力は「現実」という事実の指摘により瓦解しかねない。

 そこで、この力を維持するためには「事実の指摘」を徹底的に封じる必要があり、「事実を見ない態度」を強制することになる。

 そのためには、情報封鎖を行い、事実を指摘する者を非倫理的な人間として弾圧し、さらには、自己の無謬性をも確保せざるを得なくなる。

 そして、「現実を見ない」という現象によりとんでもない悲劇をもたらしうるわけである。

 

 以上が日本的通常性によって「空気」が醸成され、かつ、それによって「自由」を失っていく状況の説明となる。

 そして、これは日本的通常性の規範において「自由」をどう評価すれば分からない、ということの現れでもある。

 そのため、戦後の一時期、口にされた「自由」も水を差されて、実質的に無力化されてしまったということになる。

 

 

 では、どうすればいいのか。

 明治時代の近代化、戦後の民主化のような回心(コンバージョン)のような試みはなされたが、その結果を見る限り、今までやったことの繰り返しにしかならず、成功しないのだろう。

 ならば、これまでとは異なる全く新しい何かを生み出す必要があり、そのキーになるのが「何にも縛られない自由な思考」ということになる。

 確かに、歴史的に見て、人間は何かで縛っていた方が能率が上がる。

 それは虚構による何かで縛ったとしても変わらない。

 その能率と比較すれば、自由というのは「ノイズ」と見えてもしょうがないところあがる。

 

 また、日本的通常性に起因する「空気」の支配から生じさせた力は、世界の趨勢に追いつけ追い越せという時代、例えば、明治の近代化や昭和の高度成長の時代には爆発的な力を発揮した(歴史をさかのぼれば、別の例だって見つけられるだろう)。

 しかし、別の時代の趨勢であれば、この力は方向を失い、新しい偶像(臨在的把握の対象)を探して迷走を始めてしまう。

 そして、力のスカラーの大きさを考慮すれば、一気に自壊の方向に働いてもおかしくない。

 もちろん、その際に外に力が働くか、内側に力が働くかは分からないが。

 

 この迷走を始めた力の暴走を止める、止められなくてもその被害を最小化するためには、「拘束を断ち切った自由な思考」と「自由な思考に基づく試行錯誤」しかない。

 喩え、それがあまりに非効率的に見えるとしても。

 そして、その際には「自分の通常性は何を基盤としているのか」・「自分の精神を拘束しているのは何か」を徹底的に探究することが必要になる。

 すべてはここから始まる。

 ヨーロッパで宗教改革の引き金を引いたマルティン・ルターのように。

 

 

 本章の最後は、「空気」と「水」と「自由」の関係についてみていくことになる。

 戦後の「自由」とは「『水』を差す自由」だった。

 伝統的に見て日本の「空気」を崩すためには「水」が有効だったこと、「空気」で人々を拘束しようと考えた者たちが「『水』を差す者」を弾圧したことなどを考慮すれば、それはやむを得ないとも言える。

 ただ、この「水」は「現実」であり、日本的通常性であり、新たな「空気」醸成の源泉でもあった。

 そして、日本的通常性の持つ規範は「一君万民情況倫理」であり、「個人」と「自由」を許さない忠孝一致の世界であった。

 そして、水は新たな「空気」を生んでしまうことになる。

 

 

 以上、本章の2章までを読み進めた。

 何度も繰り返しているが、すっげー勉強になった。

 重要なのは「徹底した『前提』に対する探求」ということだろうか。

 この辺の話は敗因21か条の「第10章_思想的不徹底」に通じる話かもしれない。

 敗因21か条の話は具体論だが、今回は抽象論なので、抽象と具体が行き来できたのはよかった。

  

 しかし、「空気」と「水」、なんとも素晴らしい表現である。

 人間は「空気」と「水」がなければ生きられない。

 そして、日本人の精神も「空気」と「水」の両方が必要なのだから。

『「空気」の研究』を読む 17

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

19 第2章_「水=通常性」の研究_(九)を読む

  前セッションで、「日本の悲劇は専門的知見の問題(学問の問題)ではなく、『日本的通常性・一君万民情況倫理』の問題である」というところで終わった。

 本セッションは、これを起点として「何かの力」という言葉が用いられた二つのエピソードが紹介されるところから始まる。

 一つは、小谷秀三氏の『比島の土』。

 もう一つは、北条誠氏の『環境問題の曲がり角』。

 もちろん、書かれた時代も環境も全然異なる。

 

 前者では「軍人だった人の性格でも軍事でもない、別の『何かの力』が働いている」と書かれている。

 この「何かの力」が戦前日本を破滅の淵に追いやった。

 後者では、「日本では、データ・事件・現象に『何かの力』が作用する。具体的には、マスコミが喧伝して世論となり、データ等が起点となってなんらかの争いに発展する。」という形で紹介されている。

 より抽象化すれば、「データ・事件・現象の起点に『何かの力』が付与すると、『起点』と無関係に暴走を始め制御ができない。さらに、勝手に紛争を発生させる上、起点(懸案)の解決が困難になる」ということになるだろうか。

 身近な例にすれば「政治問題と化した」ものを考えればいいのかもしれない。

 

 

 では、この「何かの力」とは何か。

 また、「何かの力」を制御すること、あるいは、抵抗することは不可能なのか。

「空気」と同様、「何かの力」と言い、その中身が理解できていない状況では対処のしようがない。

 だから、「何かの力」についても「把握すること」からスタートしなければならない。

 

 まず、この2つが日本の内部から発生したことを考慮すれば、「何かの力の」発生源は日本的通常性にあると当たりを付けられる。

 また、力それ自体は中立的である(例えば、重力を考えてみよ)ことを考慮すれば、「何かの力」は悲劇のみを引き起こすわけではないことも明らかである。

 とすれば、この力が制御することで、いい方向に働く場合はその力を極大化させ利益を最大化し、逆に、悪い方向に働く場合はその力を最小化させて悲劇を最小化することもできる、ということにもなる。

 制御できるならば、ではあるが。

 

 この「何かの力」について知るために、これまで得られた全部の知識と「日本人の意思決定から実行」までのプロセスを振り返る。

 日本の決定権は「空気」にある。

 そして、「空気」の背景には「対象(物神)に対する絶対的・無意識的臨在感的把握」にある。

 さらに、臨在感的把握とは「自己の感情移入による対象との同一化、及び、対象への分析(相対化)を拒否する態度」である。

 ならば、「臨在感的把握」は対象の分析(相対化)だけでは脱却できない。

  この点、対象の分析によって特定の物神の支配(「空気」)の支配からは脱却できるし、また、「脱却した」と錯覚を抱くことはある。

 しかし、それは別の神に移転するだけ、いわば、「社会主義から全体主義に転向する」・「天皇陛下から毛沢東に転向する」ようなものである。

 

 例えば、明治時代の近代化において、あるいは、戦後の民主化において、多くの人は過去のシンボルを捨てたかもしれない。

 でも、すぐさま新しいシンボルを見つけてそれを臨在感的に把握している。

 この点、新しいシンボルを見つけた人は過去と断絶したと思う。

 本書で紹介されているが、明治時代、日本の近代化のため、ベルツというドイツ人の医者が来日して、授業を行った。

 その際、ベルツは日本人に「君たち日本人の歴史(過去)を教えてくれ」と述べた。

 それに対して、その日本人は「われわれには歴史がない。われわれの歴史は今日から新しく始まる」と答えたという。

 この日本人はベルツに医学を学んでいたことから、相応の、いや、かなりの教養があったと考えられる。

 また、ベルツは教師であることを考慮すれば、日本人も適当に返事をしたわけでもないと考えられる。

 よって、これが当時の真面目な日本人の心的態度だったと言える。

 

 この態度は宗教的回心(コンバージョン)と似ている。

 そして、「空気」が「プネウマ」と類似性を持つことなどを考慮すれば、この日本人は宗教的に回心したものとみても大きな間違いはないだろう。

 こういう現象は別に日本人のみに起きることではない。

 また、欧米ではこのような宗教的回心を行ったものは、過去の偶像を破壊して回るそうである。

 なんか、明治時代直後の廃仏毀釈運動を彷彿とさせるではないか。

 

 ただ、シンボルの対象が変わってもシンボルそれ自体は絶対者であり、かつ、それ以外のものは平等である必要がある。

 それはキリスト教イスラム教の平等、あるいは、日本の一君万民を見ても明らかである。

 

 ところで、戦後日本に導入された「一君」の対象は憲法と民主主義であった。

 しかし、一君としてそれが導入された結果、欧米とは異なる奇妙なことが起きた。

 つまり、民主主義や憲法典それ自体は統治システムに過ぎず、現実の不都合に応じて適宜修正していくものである。

 言い換えれば、統治システムや憲法の条文は統治の道具に過ぎない。

 少なくても、欧米では立憲主義も民主主義も方向性や原則としては尊重されているが、それによって具体化されたシステムを絶対化することはなかった。

 しかし、日本では憲法典などが絶対化された結果、憲法典それ自体が無謬でなければならない、固守すべきものになってしまったのである。

 科学同様、一つの制度が絶対的に正しいこと等あり得ないのに。

 

 さらに、憲法典などが絶対化された結果、政治的要求に宗教的なものまで含むようになってしまった。

 つまり、臨在感的に把握できるものの要求である。

 そして、それが達成できれば「空気」の支配になる。

 

 もちろん、「空気」は臨在感的把握対象(偶像)の変更によって雲散霧消してしまうため、永続化することができない。

 そのため、「空気」からの脱却を阻止するためには、別の力が必要になる。

 また、日本において強い力を発揮するものと言えば、それは日本の通常性に由来する力になる。

 そこで、「一君万民情況倫理」に裏打ちさせた偶像を作り、それによって「空気」を作ればいいことになる。

 その際の情況倫理が「父と子の隠しあいの真実」の性質を持っていることは言うまでもない。

 

 上の抽象論を明治時代のシステムを用いて具体化してみる。

 明治時代、天皇陛下に臨在感的把握の対象が移った。

 ただし、そのままでは時代の経過と共に臨在感的把握の対象が天皇陛下から別のものに移ってしまう。

 そこで、天皇陛下が未来永劫臨在感的把握の対象となるためには、天皇陛下をあら人神にする必要がある。

 その際、日本的情況倫理は「固定倫理由来の真実を基準にすれば天皇陛下は人である(または、仏教徒であった)」ものの「天皇陛下は人民のためにこれを隠し、人民は天皇陛下のためにこれを隠す(これを誠実・正義とする)」という形になる。

 当然だが、当時の日本人は「固定倫理由来の真実を基準にすれば天皇陛下は人である」ことは知っており、かつ、「日本的情況倫理に基づく正義・誠実さを基準にすれば、それを口にしないことが正しく、口にすることは悪い」ことも知っていた。

 固定倫理世界から見れば奇妙に見えることだが、これも情況倫理の世界から見れば別に不思議ではない。

 

 

 さらに、このシステム構造、固有名詞自体は変わっているが、戦前も戦後も変わりない(戦後についても同様の説明は可能である。例えば、「天皇」を「日本国憲法」に変え、「固定倫理的に見た場合、憲法典は不完全であり道具に過ぎない」等の言葉を挿入すればいい)。

 また、このシステムが作られた背景には、仏教的基盤と儒教的基盤が習合したことにあるのだろう。

 また、このシステムは徹底的に「自由」と「個人」を排除していくことになる。

 というのも、所属する集団の構成員が自由に真実を口にしたらこのドグマもドグマによる拘束も崩壊してしまうからである。

 

 

 以上が本セッションの話である。

 いやー、参考になった。

 本書の最初に書かれた「沈黙の道徳」と日本の通常性がどのようにリンクするのか分からなかったが、こういうことだったようである。

『「空気」の研究』を読む 16

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

18 第2章_「水=通常性」の研究_(八)を読む

 

 本セッションは前セッションの続きである。

 つまり、日本人は集団主義・情況倫理で動いてしまうこと、その結果、集団相互・市民相互(私人相互ではない点に注意)の信頼を醸成する手段がない、という欠点を持つことがわかる。

 それが端的に表れるのが、公害問題において見られた「資本家の論理」と「市民の論理」である。

 つまり、所属集団毎に異なる情況を持っている関係で、お互いに前提等の確認ができないのである。

 

 その結果、何が起こるか。

 著者(山本七平氏)はある投書を例に挙げているが、欧米で言うところの「科学」にさえ「情況」が混入してしまうのである。

 

 前回、「公害問題を対処するならば、『病気の原因を特定し、治療法を確立し、病気を予防する手段を確立する』これ以外にない。」と書いた。

 しかし、これにも固定倫理の視点でものを言えば、という前提がある。

 つまり、情況倫理もそうである保証は必ずしもない。

 そして、色々考えていくと、情況倫理における公害問題の対処はそうではないと考えられる。

 確かに、上の対処法が唯一無二ではない。

 例えば、人間が全滅すれば「公害問題」も消滅する。

 また、被害の存在を無視して関係者の口を全部封じて、「公害問題をやり過ごす」という手段だってある。

 2つの例の是非・当否、成否の見込みはさておき、それを現実化させれば固定倫理から見て「解決」でなくても、ある情況下での「解決」とはなる。

 閑話休題

 

 

 さて。

 固定倫理的世界を背景に持つ科学に情況が入ってくればどうなるか。

「自由な発想・自由な学問研究」は不可能になるだろう。

 また、自由な発想などが奪われれば、人間は予めビルトインされている習慣、つまり、通常性に沿って行動することになるので、保守化することになる。

 この保守化を自由と言うか進歩と言うかはさておいて。

 

 また、「公害に対処する」前に「公害によって生じた集団相互のゴタゴタ」を解決しないと収拾がつかなくなってしまう。

 そして、「公害に対処する」手段も、「人間がいなくなければ問題もなくなる」的解決か、「様々な情況によって作られた集団を一掃する」ことによる解決という結果になる。

 多くの場合、後者の方法が採用されるわけだが。

 

 この「社会問題の発生」→「社会問題によって生じる集団相互の紛争の発生」→「集団の一掃」という経過はこれまで何度もなされている。

 ただ、それによって得られた選択肢は日本の通常性によって基礎づけられていくので、ますます日本的なものとなり、自由もなくなっていくことになる。

 著者はこの例を二・二六事件北一輝の録取を題材に挙げている。

 つまり、社会改革が必要になり、それを改革していく手段を抽象化すると、

 

「社会問題の発生」と「社会問題によって生じる集団相互の紛争の発生」

→「情況倫理を破壊することによる集団の一掃」

→「新たな一君万民情況倫理体制の作成」

 

になる。

 要は、日本の中に小さい集団(それぞれの情況倫理を持つ)があるから、それを天皇を中心とする一つの集団にまとめよう、ということになる。

 このようにしてできたのが、戦前の日本である。

 

 そして、日本的情況倫理が固定倫理で言うところの「真実」を口にしないことを規範とする以上、自由な研究・発想はできなくなる。

 また、ある情況が消えて、別の情況が現れたとしても、人は簡単に新しい情況に適応できるのである。

 ちょうど、戦前、熱烈な軍国主義者が一夜にして民主主義者になったように。

 

 

 ただ、この現象は運のみによって一つの悲劇を生み出す。

 つまり、40年後の今から見れば、自動車公害・イタイイタイ病に対する判断が戦艦大和の特攻のような結果を導くことはなかった。

 当然だが、固定倫理も固定倫理を端に発する近代科学も万能ではない。

 しかし、だからこそ、その世界に生きる人間たちは不断の研究・検証が求められており、それを実践して、日本人から見れば到底ついていけないような理論の山を築いてきたとも言える。

 

 一方、この悲劇の不発生は必然ではない。

 それは、バブル崩壊後の日本、現在のコビットナインティーンに対して日本がのたうちまわっている現実を見れば明らかである。

 そのとき、情況倫理(父と子の隠しあいの倫理)が作用して固定倫理から見た「真実」が言えなくなればどうなるか。

 その結果、悲劇が起きたら(太平洋戦争の悲劇の足元にも及ばないだろうが)どうするか。

 その悲劇は、科学や医学の問題ではなく、我々日本人の通常性に起因する問題、つまり、日本の「一君万民情況倫理」の問題となるだろう。

 宮台先生の言葉に引き付けて書けば、「知性の劣化ではなく感情の劣化」・「原発をやめられない社会の問題」になる。

 

 

 以上が、このセッションのお話である。

 現実に起きている事件が山本七平の説明によって共通項を持っていることを知らされるのは非常に勉強になる。

 今後もどんどん読み進めていきたい。

『「空気」の研究』を読む 15

今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

17 第2章_「水=通常性」の研究_(七)を読む

 

 前セッションで、『「日本的通常性」は「水」を生むが、その「水」により新たな「空気」が醸成してしまう』ことを確認した。

 そして、「日本的通常性」の思想基盤である「忠孝一致」の思想とそれがもたらすものについてみてきた。

 

「空気」が「水」に差されて新しい「空気」になる過程をまとめれば次のようになる。

 

・「日本的通常性」は「空気」に「水」を差し、「空気」を分解して「一君万民」状態を作り出す

・「一君万民」の「一君」は情況倫理における情況の作出者である

・「一君」の意思表示・規範は明示された状態で現れることが稀であるため、「万民」が「一君」の意思・規範を知るためには、情況にあわせて「一君」を臨在感的に把握せざるを得なくなる

・臨在感的な把握が絶対化すれば、それは新たな「空気」となってしまう

 

 次に、「日本的通常性」の規範についてみてみる

 

・日本的通常性を端的に表現するならば孔子の「孝」の発想である

・日本的通常性を基盤にした場合、個人の行為の結果について個人の帰属する集団の構成員全員が連帯して責任を負う

・日本的儒教思想において、集団(構成員)の利益(免責)のために客観的真実を黙秘することは誠実な行為とされ、逆に、客観的真実を述べることは逆に不誠実な行為とされ追放される

・日本的通常性を基盤とした「一君万民状態と情況倫理」は集団倫理であり、個人倫理や固定倫理になることはない

 

 それから戦後のアメリカが持ち込んだ「自由」とその帰結をまとめておく

・戦後、アメリカは日本の明治時代の権威を否定し、日本に「自由」もたらしたが、その結果、日本は共同体的自己決定に基づき、日本的通常性の影響を強く持つ規範によって運営されることになった

・日本的通常性規範が個々人の具体的な差を否定し、個々人の意思決定の自由を否定するものであることから、アメリカの「自由」の持ち込みによって、日本人の個々人の「自由」否定されることがあってもおかしくないこととなった

・日本的通常性規範を基盤とした場合、社会主義も民主主義社会も達成できなくはなかったが、自由主義の達成は極めて困難であった

 

 

 以上を前提にセッション(七)に進む。

 まず、戦前の軍部と右翼は「『社会主義者』は説得して転向させれば大いに利用できる。しかし、『自由主義者』は転向のさせようがないので、絶対に許容してはならない」と考えていた、というところからスタートする。

 そして、軍部と右翼は自由主義者」を「あった事実を『あった』と言い、見た事実を『見た』と言い、かつ、あった事実や見た事実を『真実である』と思っている人間」と規定している旨説明している。

 

 このことは「日本的通常性」から考えれば「さもありなん」ということになる。

 つまり、「日本的通常性」から見れば、「所属集団にとって不利益な事実は客観的に存在するものであっても『真実』とみなさない(隠す)」ことこそ正義であり道徳的であるのだから、「客観的に存在する以上、不利益な事実であろうが真実とみなす」のは不道徳であり不正義になる。

 そして、「そのような人間はどんな組織に対しても忠誠を誓わない(不利益な客観的事実を真実とみなす)」のだから絶対に許容してはならないということになる。

 

 もちろん、「固定倫理」の世界から見た場合、この日本的通常性に対して「『真実』が所属集団によって変わってしまうではないか」と批判を受けることになる。

 しかし、それに対しては「『真実』は情況によっていかようにも変わりうるから、『客観的事実』と『真実』のずれを修正するために必要な『情況』を設定すればいい」で終わってしまう。

「情況」の支配が及ぶ集団の中ではそれで十分である。

 また、その上でなお行為に及ばなければその人の忠誠の証明になる。

 

 となれば、一君万民状態と情況倫理は切り離せないことになる。

 また、日本の組織の態様を見れば、この状態が日本人にとってもっとも適合した状態ということになる。

 この点、孔子の発言を使ってはいるが、孔子の意見に日本人が感化されたのではなく、これが日本教」の公理の一つ、日本的通常性の一つなのだろう

 しかし、情況倫理・一君万民状態は一集団内でしか存立しえないため、集団相互の信頼関係が成立しなくなってしまう。

 これは一種のセクト主義をもたらすことになる。

 また、本書で書かれていないことを追加して書けば、「(私的関係を除いた)一般人と一般人との間の信頼関係もない」ということになるだろう。

 これは所謂欧米における市民社会が日本にないことの裏付けになっているとも言えるかもしれない。

 

 そして、セクト主義の弊害を回避したり、欧米における市民社会を日本で作り出すためには、全日本的な一君万民状態を作出するしかないということになる。

(本書では書かれてないが)その試みが明治政府が行った天皇教なのだろう。

 あと、「挙国一致体制」が出てきたり、日本の映画・物語でそのような状態が好まれることがあるが、その背後には日本の通常性があるのかもしれない。

 

 

 さて、本セッションでは「公害問題」について取り上げられている。

 著者は「公害問題」において「資本家の論理」と「市民の論理」という言葉が出てくる点に興味を持つ。

 

 この点、公害問題を対処するならば、「病気の原因を特定し、治療法を確立し、病気を予防する手段を確立する」これ以外にない。

 また、ある時点の原因の特定・治療法・予防手段に誤りがあることは十分にあり得ることである。

 自然科学的観点から見れば、「一切ミスがないという状況など存在しえない」と言ってもよいし、これは公害問題に限った話ではない。

 固定倫理の世界で考えるならこのようになる(それでも、様々な問題が起きることは言うまでもない)。

 

 もっとも、これに集団倫理と情況倫理が、つまり、日本の通常性が関与することで対処できない状況になる。

 つまり、資本家集団によって作られた情況倫理たる「資本家の論理」、被害者側集団によって作られた情況倫理たる「市民の論理」が、上に書いた対処を困難にしているのである。

 何故なら、「(特定の)集団にとって不利益な客観的事実を真実とみなさない」ということになれば、従前の治療法・予防法が最善ではなく、新たな治療法・予防法が発見されたとしても、(特定の)集団にとって不利益なことになるならば、それを否定する(隠す)ことが真実であり、正義であるということになってしまうからである。

 そして、所属集団の不利益になる事実を述べることは仮にそれが「真実」だとしても、不道徳な行為・不正義な行為として糾弾の対象になってしまう。

 それでは、全体としての真実の共有は不可能としか言いようがない。

 

 

 というところで、本セッションは終わりになる。

「いわゆる測定結果(データ・統計)が日本的通常性によって汚染される」という現象は私の身近で感じていたことであり、本書によってその背景が理解できたのは非常に有益であった。

 あらかじめこの辺の背景を知っていればなあ、と考えることしきりである(このように考えることはこのセッションに限った話ではない)。

 しかし、この本は相当昔に購入しており、知る機会は十分にあったわけである。

 とすれば、過去の時点でその重要性に気付かなかったわけである。

 これは、「(身近な)経験がない以上、知識の重要性に気付けない」ということでもあり、その意味では仕方がないことなのかもしれない。

『「空気」の研究』を読む 14

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

16 第2章_「水=通常性」の研究_(六)を読む

 これまで、日本の「空気」を中和する「通常性作用」についてみてきた。

 そして、その背後にある「日本的平等主義」と「日本的情況倫理」の性質についてみてきた。

 以上を前提に本セッションはスタートする。

 

 この情況倫理は一定の情況が成立する範囲でしか成立しないが、ある情況の成立する範囲内では「日本的平等主義」の空間(「一君万民」空間)を作ることができる。

 その結果、情況倫理は集団倫理であって個人倫理になることはない。

 また、個人主義自由主義とは食い合わせが悪いことになる。

 本書には記載されていないが、自由主義と食い合わせが悪いのであれば、立憲主義とも食い合わせが悪いことになる。

 

 そして、この構造は戦前と戦後では変っていない。

 変わったのは絶対者、つまり、「一君万民」における「一君」の対象のみ、ということになる。

 

 そして、ここからある皮肉な帰結を見出すことができる。

 まず、現実という名の「水」(通常性)が「空気」に水を差す。

 そうすると、雨によって物質が腐食・崩壊し分解・混合して均一化する(平均化・同一化)するように、通常性という「水」によって「空気」などは有名無実化し、「一君万民」状態を生み出す。

 そして、日本的平等主義では個人は総て同じ評価となるため、個人差という概念がなく、また、個別の意思を想定できないから、「一君」のみの意思が絶対視されてしまう。

 また、「一君」と述べたが、この「一君」は情況の創出者であり、情況倫理の根本である。

 となれば、固定倫理の世界のように、この「一君」の意思が明確化される保証はない。

 その結果、平等者たるその他大勢は「一君」の意思を情況に応じて臨在感的に把握(最近の言葉で言い換えれば「忖度」)するしかなくなる。

 臨在感的に把握してそれが絶対化すれば、それは新たな「空気」の醸成に他ならない。

 つまり、「空気」の発生源は「水」の背後にある「日本の通常性」ということになり、「空気」も「水」も「日本の通常性」が背後にあることになる。

 その結果、日本人は「空気」と「水」の相互循環から抜け出せないし、異なる「情況倫理」の世界を渡り歩くことになる。

 ちょうど、絶対化の対象を時間の経過と共に変えるように。

 これでは、「固定倫理」を詳細化・緻密化するという手段は採用できない。

 

 

 以上、「日本の通常性」が空気と水の両方の源泉になっていることを確認したうえで、「日本的通常性」の考え方の基本・外面的変容の過程・現在(当時)の規制態様についてみてみる。

 

 日本社会を支配している象徴的な言葉として「論語」の次の言葉がある。

 

(以下、『論語』の巻第七・子路第十三の書き下し文を引用、引用元の書籍は岩波文庫金谷治訳注の『論語』の第11版、ただし、カタカナは平仮名にしてある)

 葉公、孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬なる者あり。其の父、羊を攘みて、子これを証す。孔子曰わく、吾が党の直き者は、是れに異なり、父は子のために隠し、子は父のために隠す。直きことその中に在り。 

(引用終了)

 

 私釈三国志風に訳せばこうなるだろうか。

 

葉公「私の領内の村に正直者がおりましてな、その父親が自分のところに迷い込んだ羊を自分のものにしてちょろまかしたところ、息子が父親の行為を報告してくれました。」

孔子「うちではそんな息子は正直者とは言わん。父は子のためにちょろまかしたことを隠し、子はその事実を知ったとしても父のために役人などに報告しない。それこそが正直者のすることだ」

 

 国語の教科書でよく出てくる「論語」の一節である。

 これを旧約聖書エミリア書と対比させてみる。

 

(以下、本書130ページより引用、『エミリア書』三一の28-30より)

 主は言われる。「その時、彼らはもはや、『父がすっぱいぶどうを食べたので、子どもの歯がうく』とは言わない。すっぱいぶどうを食べる人(だけが)みな(等しく)、その歯がうき、人はめいめい自分の罪で死ぬ」

(引用終了)

 

 イエス・キリストに最も強い影響を与えた先人の一人がこのエミリアである。

 そして、このエミリアの発言は「個人主義」・「個人責任」の発想を基盤にしている。

 よって、キリスト教社会においてこの個人主義・個人責任の考えが強く影響されていることは想像に難くない。

 

 他方、江戸時代・徳川時代において孔子は「聖人」扱いされ、その教えは「聖人の教え」とされていた。

 ならば、日本社会において「孔子」が強く影響を受けていることも同様に想像に難くない。

 そして、その影響が簡単に覆らないことも想像に難くないであろう。

 

 

 具体例として、本書ではロッキード事件(丸紅ルート)が起きたときのある現象が取り上げられている。

 もちろん、ここではロッキード事件それ自体には触れず、日本の通常性と関係するところを見てみる。

 

 前述のように西欧社会は個人主義社会である。

 よって、「親の罪が子に及ぶ」とは考えないし、そのような発想に基づく行為を反射的に行うこともない。

 だから、丸紅の社員の子供を排斥することをしないし、「(丸紅の社員の子供を排斥することは、被害者たる丸紅の社員の子供をして)社会を学ばせる効果があり、意味がある」といった排斥を正当化する意見が飛び出すこともない。

 まして、他の労働者が丸紅の労働者に拡声器をあてて云々ということもない。

 これでは、労働者が所謂「資本家VS労働者」という図式を全く信じていないことになる。

 そして、資本家と労働者は親子でもなく、中国の「九族」の範囲にすら入らないことを考慮すれば、この現象は日本においては西欧の個人倫理が否定している「罪九族に及ぶ」を肯定したことの裏付けになる。

 さらに言えば、中国の「九族」の範囲を超えていることを考慮すれば、刑の適用範囲のみに着目すれば(刑それ自体には考慮しない)、この現象はを永楽帝の「滅十族」に匹敵しかねないということにもなる。

 それを「進歩」というか「野蛮」というかは別として。

 

 また、本書にない例を出すが、約20年前、ある中学生が殺人事件を犯した際、当時の閣僚が「加害者の親を打ち首にせよ」という趣旨の発言を行い、かつ、その後のアンケート調査でこの閣僚の意見に同意する人が約7割に及ぶという現象があった。

 つか、このような世論があるなら、さっさと刑法と関連法を改正してそのような適用に変え、それを運用してそれに伴う悲劇でも経験すればいいと思うのだが、実際はそうはならないらしい。

 あるいは、「あさま山荘事件」の折、山荘に立てこもった活動家の父親が事件直後に謝罪の意を表して首を吊って死亡するということがあった(この事件を指揮した佐々淳行氏はこの自殺の件を自著で書いており、かつ、「この父親も事件の被害者である」旨書き添えている)。

 類似の例を日本で探すことは極めて簡単だろう。

 つまり、日本の情況倫理の基盤となる発想においては「連帯責任を極めて広く想定している」ことになる。

 

 

 さて、この事件(ロッキード事件・丸紅ルート)を日本的儒教倫理から見てみる。

 日本的儒教倫理を孔子の言葉を用いて書けばこうなる。

「日本社会の考え方はエミリヤの考え方とは異なる。社長が黒いピーナッツを食べたとしても、(それを知った)重役は社長のために隠し、重役が黒いピーナッツを食べたとしても、(それを知った)社長は重役のために隠す。直きことその中にあり」 

 これは定義である。

 つまり、証人として呼ばれて尋問されても「記憶にございません」と述べることは、証人に記憶があって欧米的評価によれば偽証になるとしても、日本的評価に従えば、正直者の行いであり、正義の行いなのである。

 これが徳川時代以降の通常性であり、これを規範とすることによって社会は成り立っていたのである。

 もっとも、これを前提とすれば、責任を個人に限定できるはずはなく、構成員全体の連帯責任にならざるを得なくなる。

 

 

 とすれば、丸紅に対して社員の子供を排斥する側も、逆に、丸紅側の態度も共に日本的通常性(儒教的規範)から生じていることになる。

 まあ、これは通常性が容易に変わらないものであることを考慮すれば当然であり、むしろ、ここから逸脱したものが例外だということになる。

 また、このことは丸紅の社員の子供を排斥する人間が逆に丸紅の重役と同様の態度をとったとしても不思議ではないことを意味する。

 逆に、この規範を逸脱して、自由意思に基づき「(客観的)真実はかくかくしかじか」などと黒いピーナッツを食べたことを暴露してしまえば、その暴露をしたものは仮に欧米的に「真実を話したもの」、あるいは、内部告発者として評価される事はあっても、日本的には「不正義」に該当して共同体から追放されることになる。

 

 この倫理基準に関して言うならば、左や右、資本家や労働者などの立場によらない。

 少し前のセッションで共産党のリンチ事件について取り上げたが、あれに対する共産党員の態度が仮に身内をかばう態様になったとしても日本的儒教倫理から見れば全く正当な行為ということになる。

 逆に、エリミヤや葉公に出てくる息子のような行為に出れば、逆に、嘘つき・悪人と評価されて、追放処分になってもおかしくない。

 日本では、それによって共同体秩序が成り立っているのだからそれはしょうがないとさえ言える。

 

 なお、真偽不明の密室の中における行為が問題になる場面なら上のように「隠し合い」によって対処することが正義となる。

 では、録音テープ・ビデオテープなど推認力の極めて強い証拠が出てきたらどうするのか。

 その場合は、いわゆる「切断操作」を行って決着とするのだろう。

 つまり、行為者に総ての責任を押し付け、共同体から行為者を追放することで蹴りをつけるのである。

 行為者が親ならば「隠居」である。

 

 これらの対処、つまり、「手打ち」で対処しきれる事件であれば、これで問題がなかった。

 ところが、それではうまくいかない事件がある。

 それが「公害問題」であり、「外交問題」である。

 両者とも「日本的儒教倫理(情況倫理)」が通用しない世界と言ってもよい。

 ただ、この点に深入りする前に、本書では、儒教の原点を見直すことになる。

 

 

 本書によると、中国の発想は上で述べた日本的儒教思想とは根本的に違うという。

 例えば、孔子の挙動を見ればわかる。

 孔子は自分を重用する諸侯には誠実に仕えたが、自分を重用しない諸侯に対してはあっさり立ち去り、自分の考えを採用してくれる諸侯を探している。

 この発想はむしろアメリカの発想に近い。

 

 この点、孔子は「忠」と「孝」を重視した。

 しかし、諸侯に対しては「孝」によらず、「忠」で対処した。

 そして、「忠」というのは「君君たらざれば、臣臣たらず」という関係であり、一種の「契約を守る」という誠実さでしかなかった。

 また、孔子は「忠」と血縁関係において重視される「孝」を別のものと考えた。

 このことは、別の言葉を用いていることからも明らかである。

 ならば、日本のような「忠孝一致」の発想を、孔子が見れば「それは私の思想ではない、そんなものに私の名前を使うんじゃない」と激怒したかもしれない。

 つまり、忠と孝を一致させた日本的儒教は中国のものとは異なるとみてよさそうである。

 

 

 そして、この「忠孝一致」の思想、これが日本を支配していた。

 言い換えれば、「孝」のみの社会であり、「君、君たらずとも、臣、臣たれ」の社会であった。

 これは徳川時代に確立し、明治時代以降も継続した。

 明治時代は天皇がトップに立った。

 戦後、これは崩れたかに見えたが、新たなトップがこれにとって代わっただけである。

 

 

 この点、戦後、アメリカは「自由」と「民主」を持ち込んだと言われている。

 しかし、一民族を自由にして共同体を作らせたら、その社会は民族の通常性の影響を強く持つ規範が出てくる社会になるだろう。

 日本の場合、それは日本的儒教規範の社会、つまり、一君万民の情況倫理の世界であった。

 そして、「一君万民の情況倫理の世界」が個人の自由を想定しない世界であれば、アメリカが自由を与えたことによって、「日本人の個人の自由がなくなる」という結果が招来しても不思議ではない。

 また、「一君万民の情況倫理の世界」が個人の自由を想定しない世界なのであれば、「自由」という概念はどう扱えばいいか分からないはずである。

 他方、「民主」だの「社会主義」はそうではなかった。

 日本的情況倫理・儒教倫理を基盤に据えれば、社会主義や民主主義の社会を作ることは十分可能だった。

 ただし、そこに「個人の自由」はないが。

 

 

 以上が本セッションの話であった。

「空気」と「水」が共に日本の通常性を源泉としていること、その日本の通常性が持つ規範が分かり、非常に参考になった。

 つくづくこの本を深く読んでおけばよかった、と思う次第である。

 まあ、興味がなければ深く読もうとしないだろうから、そう思っても仕方がないところではあるが。

『「空気」の研究』を読む 13

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

15 第2章_「水=通常性」の研究_(五)を読む

 

 前セッションまでで通常性の基盤となっている「(日本的)情況倫理」についてみてきた。

 また、情況倫理の背景には「日本的平等主義」があることも確認した。

 その内容をまとめると次のようになる。

 

・「情況倫理」が適用された場合、「その行為が『情況』に対応した行為であれば、行為者は責任を負わず、『情況』を作出した者が責任を負う」と考える

・「情況倫理」の前提には「行為に関する個人の具体的意思決定の存在」を否定する点に特徴がある

・「情況倫理」の基準には、「形式だけ見て判断を見れば、全部免責してしまう」・「実質的に見て判断すれば、基準が不明確である」という特徴がある

・「情況倫理」で用いられる「情況」の特徴として、現在から過去を投影してしまう要素が除去できず、真実(事実)と「情況」の間には乖離があり、一定の虚構を含む

・「免責」を「他人と異なる取り扱いの否定」と広く考えた場合、「情況倫理」を形式的に適用すると、「個人の具体的行為による結果を評価せず、一律に扱う」という結果になる

・「情況倫理」において、「情況」は個人の差異を除去するために用いられる

・「情況」の存在意義(個人の差異の除去)から見た場合、「情況」に虚構が含まれることは問題とならず、むしろ虚構が含むことが要請される

・「個人の差異を認めない」という前提で「情況倫理」を適用すると、「異常な行為の存在によって、異常な『情況』があったことの証明になる」という事態が生じる

 

 

 また、今回も前回取り上げた反論を用いるが、反論の骨子を取り上げると次の3つになる

 

(一)固定倫理による主張(「建前」が書かれているだけで特段意味はない)

(二)情況倫理による主張(リンチの存在を前提とする反論)

(三)その他(「情況」は存在するが、リンチは存在しないことを前提とする反論)

 

 この点、我々が奇妙に思うのは、(二)と(三)を同時に主張することである。

 何故なら、それぞれの前提とする事実が両立しえない(一方では「あった」と言い、一方では「なかった」と言っている)こととなり、「この人は『事実』についてどう考えているか」が不明確になり、結果として自分の主張の信用性を落としかねないからである。

 この点、「自分の利益を最大化(損失の最小化)するためにあらゆる手段を尽くし、保険をかける」という観点から見て複数の主張を立てることはあっても、その場合でも、複数の主張を立てた結果のリスクは認識しておくべきだろう。

 

 

 本セッションは、「両立しない事実から成り立つ複数の主張(本書の言い方だと『辻褄の合わない主張』)をどうしてするのか」という点を掘り下げるところから始まる。

「このような自説の信用性を下げる主張行為をする背景には何があるのか」と言ってもよい。

 本書によると、その背後にあるのは「『オール3』的情況倫理」であるという。

 換言すれば、「日本的平等主義」を前提とした「情況倫理」と言ってもいいかもしれない(ここで、「日本的平等」という言葉を用いて、単に「平等」という意味を用いなかったのは、欧米の「平等」と「日本的平等」の間に相当の乖離があること意味する)。

 それを理解するために、西欧との比較が行われる。

 

 固定倫理を主とする欧米では規範の「機械的な適用」を前提としている。

 つまり、適用時に規範を変更することは許されない。

 法律関係に置き換えて表現すれば、原則として法律を作るのは議会のみであり、政府と裁判所は法律の範囲内で機械的に執行・裁判できるだけ、ということになる。

 そのため、固定倫理社会における不正とは「規範の機械的な適用」を歪めること、つまり、「規範の恣意的な適用」になる。

 また、固定倫理の世界では規範の硬直性ゆえにとんでもない悲劇が生じることもある。

 それゆえ、「固定倫理だから優秀、情況倫理だからダメ」と言えるわけではない。

 

 それに対して、日本には固定倫理の伝統がなく、むしろ情況倫理の伝統を持っている。

 そこに、欧米の情況倫理の思想が「固定倫理を相対化するもの」という要素抜きで日本に入ってきたらどうなるか。

 形式的には欧米の情況倫理によって西欧化したように見える。

 しかし、実質的には日本的な情況倫理がさらに徹底化されることになるだろう。

 そして、「欧米の情況倫理」は権威付けのために利用されることになるだろう。

 

 この情況倫理の扱われ方に「水による作用」と類似の性質を見出すことができる。

「一見、外来の思想・制度が導入されているように見えるが、その実質を見た場合、日本への導入の過程で内容が変容してしまい、外国で通用する思想・制度と日本における思想・制度は大きく異なっている」という部分が。  

 

 

 では、こうなる理由はなぜか。

 固定倫理とは対となる状況倫理の世界では、人間が尺度の基準になる。

 また、人間が尺度の基準になる以上、総ての人間の測定結果が同様になる必要がある。

 そこで、輸入の尺度は人間にあわせて対応・修正していくことになる。

 

 ここで具体例を挙げる。

「人間が尺度の基準になる」ということを具体化すると、「人間の身長の長さを1.5メートルとする」と定義することになる(1.5メートルという数値は適当)。 

 そして、尺度として定められた結果、「総ての人の身長の長さは1.5メートル」になる。

 しかし、現実問題、身長は人によってばらばらである。

 そこで、「総ての人の身長の長さは1.5メートル」を維持するために、目盛りの方を伸縮させて調整・変更させることになる。

 そうすれば、現実における全員の身長が同じでなくても、「人の身長は1.5メートル」という状況を維持することができるのである。

 

 これに対しては、次のように考えるかもしれない。

「身長や体重、つまり、長さや重さならば人にあわせて目盛りを調整することができるかもしれないが、社会生活は複雑なものだから他の要素・基準を人間基準で作ることはできない」と。

 ところがどっこい、それは誤りである。

 そして、「人間を基準とした伸縮可能なものさし」に対応する倫理的尺度が「情況」なのである。

 つまり、人間を尺度の基準とした世界では、「そもそも人間はオール3(同等)である。しかし、現実を見ると差が生じている。この差を生じさせている原因は何か。それは『情況』である」と考えるのである。

 そして、「異常な事件(本の例はリンチだが、別になんでもよい)が起きた場合、その事件が起きたのは行為者が特殊だからではなく、その行為者の直面した情況が特殊だからに過ぎない」と考えるのである。

 

 この「情況」の説明、一見合理的に見える。

 しかし、現実に生じた異常性が増大すれば、その説明のために必要な「情況」の説明も通常から乖離していくことになる。

 つまり、現実から「情況」が乖離し、虚構度が増大することになる。

 その結果、「情況」説明が現実離れしたものになってしまう。

 この状態が「情況」が誇大表現を引き起こす背景になり、さらには、間延びした空疎な誇大表現の羅列を引き起こす原因にもなる。

 

 ところで、情況倫理が適用された場合、評価が皆同じになるか、基準が不明確で恣意的に利用されてしまう旨述べた。

 つまり、基準として成立するためには不変の要素(固定倫理的な要素)が必要であって、情況倫理をそのまま利用すると基準の支点が存在せず規範として機能しない。

 そこで、情況倫理を極限まで適用したケースが一種の支点となって規範を支えることになる。

 そして、その支点はどんなものになるか。

 それは、「情況を超越した人・集団・象徴」が支点にならざるを得なくなる。

 つまり、欧米では固定倫理による現実的妥当性を修正する手段として情況倫理が用いられた。

 これに対し、日本では規範の支点として情況倫理が用いられている。

 その結果、情況倫理が権威となり、かつ、これに服従することが規範になっているのである。

 

 

 さて、ここで改めて前述の反論を眺めてみる。

 この点、「情況倫理による部分」と「その他の部分」は前提する事実が両立しない。

 しかし、絶対基準たる対象は超越者であり、聖なるものであるから、矛盾していることは問題ないことになる。

 むしろ、矛盾した点があることこそ支点である証拠であると言える。

 

 その観点から反論の構成を再構成してみる。

 つまり、これまで、共産党の反論の構成を次のように見ていた。

 

(一)固定倫理による主張(一般論)

(二)情況倫理による主張

 (『当事者を弁護するための主張』、つまり、リンチの事実を前提として、その部分を擁護するための主張)

(三)その他(???)

 

 つまり、(一)の部分が一般論であり、(二)の部分で具体的な弁護の主張であると考えていた。

 この場合、(三)の文章が宙に浮くし、(三)の背景事実と(二)の背景事実は両立しない。

 

 しかし、次のように考えたらどうだろうか?

 

(一)一般論で見ればリンチは一般的に悪である、それは共産党員でも例外ではない

(固定倫理に基づく一般論)。

(二)しかし、共産党に対する苛烈な弾圧という「情況」下では「一般人であれば」リンチをせざるを得ないような苛烈なものであった。よって、当該情況下で起きたリンチの結果に対する責任は行為者ではなく、情況の作出者が負う

(情況倫理における一般論)

(三)現実において、苛烈な情況は存在したが、リンチは存在しなかった。(だから、共産党員は無謬なる超越者である。)そして、この苛烈な情況の存在を否定し、また、リンチの存在を肯定する者は、この共産党員が無謬な超越者であることを否定する者であり、以下略。

(具体論)

 

 このように、(一)と(二)で一般論を述べ、(三)で具体論を述べていると考えると、別に矛盾した表記でないし、(三)が存在する理由も分かる。

 そうすると、この反論は「共産党員を弁護のための主張」ではなく、「共産党の奇跡を証明するための主張」であることが分かる。

 まあ、私自身、言われるまで分からなかったが。

 

 とすれば、この主張はただの弁護にとどまらず、宗教的主張になる。

 ならば、矛盾だの虚構だのといった反論は意味がないうえ、相手から不敬罪として非難されることになる。

 というのは、絶対者がなければ支点が存在せず、支点が存在しなければ基準がなくなり、情況倫理が崩壊することになるからである。

 

 そして、この「絶対者をどこかにおくことで、評価の尺度を設定する」という考えこそ、日本の伝統的な考え方である。

 これは「一君万民」と言われていたものであり、「日本的平等主義」の原点である。

 そして、この考えが日本的情況倫理を安定化させていることになる。

 また、この情況倫理が「当時の『情況』では(以下略)」と言えるだけの一貫性を維持するためには、この極限の無謬性と永続性を保証しなければならなくなる。

 

 

 というのが本セッションのお話である。

 内容自体非常に参考になった。

 また、自分が持っていた発想が情況倫理に準拠することも理解できたのは非常に良い収穫であった。

 なお、これまでの日本的平等主義・日本的情況倫理の説明を見て、ふと思い出したことがあるが、既に分量が多い(前回は8000字を超え、今回は4000字を超えている)ので、それについては機会を改めることとし、どんどんこの本を読んでいこう。