薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

司法試験の過去問を見直す2 その4

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回から少し風呂敷を広げた妄想話をする。

 だから、今回以降は過去問に言及しない。

 

 今回は、所謂「目的効果基準」について考えたことをつらつら書いていく。 

 

14 政教分離の目的と目的効果基準

 憲法学の基本書を開くと、政教分離の趣旨として次の3つが掲げられる。

 

① 個人の信教の自由を補強(宗教弾圧の防止)

② 政府を破壊から救う

③ 宗教団体の堕落の防止

 

 政教分離カトリックプロテスタント宗教戦争から生まれたことを考慮すれば、①は当然だろう。

 ③は立憲民主主義を背景とする政府がやることとしては「おせっかい」な気がするが、宗教(宗教団体)の社会的必要性と影響力を考慮すれば、宗教団体が堕落されたら社会(共同体)が困るのでやむを得ないというのはあるのかもしれない。

 

 ここで大事なのは②である。

「破壊」とは大げさな表現だが、何を意味するのか書くと次のとおりになる。

 

 立憲民主主義(多数決民主主義ではない)を前提としている国家は、政治的決定を多数決という手段によって行う。

 しかし、この背景には「熟議」がある。

 つまり、「利害が対立する当事者たちが議論を交わし、社会的事実を調査し、当事者らの考え・利害を明らかにし、妥協できるところは妥協しながら結論を出し、政策決定等にもっていく」ことを前提としている。

 

 歴史的経緯を踏まえれば、これは的外れなものではない。

 というのも、昔は多数決ではなく、全会一致だった。

 ただ、全会一致を要求していたら、リソース(時間も含む)が足らない。

「緊急事態にリソースがなくて政策決定できず、結果として大ダメージを負いました」それではシステムとして役に立たない。

 そこで、「全会一致」は「〇〇%以上の賛成」という形に変容した。

 また、「全員参加」は「代表者による議論」へと変容した。

 この点は、以前紹介した『痛快!憲法学』に分かりやすく書かれている。

  

 

 

 さて、立憲民主主義において、「決定は多数決だが、その背景には熟議がある」旨話した。

 しかし、この熟議は宗教団体が絡むことで作動が停止しかねない。

 

 例えば、A教の教祖が「A教の教義に従えば、議会が作ろうとしているB法はとても容認できない。信者は断固反対し抗議せよ。反対・抗議しなかったものは背教者として破門する」などと指示したとしよう。

 また、他の事情から見て「廃案が理にかなっている」ものと仮定する。

 

 しかし、もしその指示に従って「絶対反対・妥協しない」とされたら、どうなるだろうか(もちろん、反対運動等は言論等合法の範囲で行うものとする)。

 立憲民主主義が前提としている熟議が成立しなくなってしまう。

 

「(立憲民主主義の)政府を破壊から救う」とはこれを意味している、と考えている。

 

 

 さて。

 次に、目的効果基準についてみる。

 目的効果基準を簡略化すると、「目的」と「効果」のいずれかが正当化されれば合憲という基準だった。

 

 もっとも、上の目的に照らすと、重要なのは「効果」である。

 というのも、「結果として、特定の宗教を優遇・冷遇した」となれば、これこそ政教分離の趣旨が全うできなくなるからである。

 

 そして、「効果」に比べれば、「目的」やレモンテストの「関係」の要件は影響度が相対的に薄い。

 目的が宗教に対する援助であっても、結果が不発なら害悪は発生しない(もちろん、結果は運によるところもあるため、目的を考慮しないことがあり得ないとしても)。

 さらに、レモン・テストにある「関係」の要件も、ただ関係を持つだけなら害悪は発生しない(もちろん、関係がずぶずぶになればまずいので予防の必要性はあっても)。

 逆に、関係を完全に断ち、その宗教団体の持つ知恵を政策に反映できなければ、政府にとってまずい結果になるということすらありうる。

 

 最高裁政教分離違反になる行為(憲法20条3項の「宗教的活動」)を「当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」と定義していた。

 一見すると、「目的がアウトで、かつ、効果がアウト」というように並列しているように見える。

 しかし、「(目的と効果は)諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。」としていること、そもそも「我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さない」旨述べていることを考慮すると、メインは「効果」であって「目的」はサブではある。

「目的」でさえ「効果」の一要素と言ってもいいのかもしれない。

 

 それから、「目的効果基準」については批判があった。

 曰く「緩い(例外が広い)」とか。

 あるいは、「境界が分からん」とか。

 

 確かに、政教分離の原則論を貫くのであれば前者の批判は妥当だろう。

 しかし、改めて今考えると、「そんなもんじゃねーの?」という気がする。

 

 この点、津地鎮祭訴訟において最高裁が高々とあんな理想論を判決理由に書いており、それを見ると「どうなん?」とならないことはない。

 しかし、政教分離規定を制度的保障と解し、かつ、宗教的儀式への参加の強制を20条2項で縛っていること、そもそも論として司法の介入は例外と考える(所謂「司法消極主義」)ことを考慮すれば、20条3項が緩くなるのはしょうがない面があるのかもしれない。

 

 それから、「境界が分からん」という批判もあった。

 でも、そもそも境界をくっきり分けることは可能なのだろうか?

 さらに、裁判所がその境界線を明快に引くことが妥当なのだろうか?

 本来、境界線の議論は憲法制定時にやるべきことではないのか?

 そう考えると、「境界が分からん」という批判、分からないではないけど、「そもそも無理じゃね?」という気がする。

 

 私も穏やかになったのだろうか?

 それは分からない。

 

 さて。

 愛媛玉ぐし訴訟の後、北海道の砂川にて政教分離違反の判決が出た。

 また、最近、那覇孔子廟についても同様の判決が出た。

 よって、次回はその2つの判決についてみてみたい。

 そして、次々回は政教分離を日本に適用することについて思うことについて書いていく。

令和3年の4分の1が終わる

1 令和3年も4分の1が終了

 3月が終わり、4月になった。

 つまり、令和3年も4分の1が終了したことになる。

 

 この3カ月間、体重・行動・運動(ウォーキング)の記録を録った。

 また、2月下旬からだが、睡眠の記録も録り始めた。

 そこで、これらの記録を見ながら3カ月を振り返ってみる。

 

2 充実していた3カ月間

 見直してみると、色々なことをした3カ月間だった。

「ミッションリストを作成して完了したものにチェックを入れた」関係で「しようとしたこと、結果的にしたこと」が分かる。

 そして、ミッションリストを見たところ、約7割のミッションが完了していた

 

 具体的に書くことで、やったことが分かる。

 例えば、

 

 5冊のプログラミングの書籍を写経しながら読んだ。

 習慣としての読書を始め、20冊(週1.5冊)読んだ。

 ブログを開設し、3カ月間で約30個の記事をアップした。

 資格(統計検定2級)をゲットした。

 その他についてもごにょごにょ。

 

 こうやって記録を作成したことで、「無意味に過ごした3カ月ではなかった」ことが分かる。

 記録を残してよかった。

 

 このように、主観的な感想は「充実した3カ月だった」になる。

 

3 もう少し合理的に振舞えたか

 この点、「この3か月間は完全」ではない。

 ミッションの3割は残っているし。

 よって、もう少し真面目に行動すればミッションの消化ができたのではないか、とは考えている。

 

 例えば、「プログラミングの本を写経した」と言ったものの、未消化の本が5冊残っている。

 また、統計検定2級の勉強についても、「精読して演習問題を解こう」と考えていた1冊をほとんど見ないで合格してしまった。

 さらに、「プログラミングのアウトプット」として行う予定の研究・結果の公開はほとんど進んでいない。

 AI研究は完全未消化。

 最後に、別の研究も遅々として進まず。

 

 さらに、実際のミッションに対する活動時間もそれほど高くない。

 想定していた時間の約50%である。

 

 100%にすることは不可能かもしれないが、もう少し増やしたいところである。

 でも、時間(量)それ自体は昔録ったときの活動時間と同程度。

 ならば、私の活動時間を増やすことは難しいのかもしれない。

 量よりも質を改善した方がいいのかもしれない。

 

4 1日8時間睡眠

 睡眠時間の記録を開始して、まだ数週間しか経過していないものの、記録によると私は1日8~8.5時間寝ているらしい

「自分は過眠ではないか」と疑っていたことがあったが、現段階ではそうではないらしい。

 ホッとした。

 

 でも、1日8時間は少し長いようにも感じている

 自分の活動時間を増やす観点から見れば、もう少し睡眠時間を減らしたいところ。

 短眠に関する情報を集めて実践するかなあ。

 

5 体重は増えも減りもせず

 去年の秋、血液検査の結果がまずかった。

 その影響か体調それ自体が非常に悪かった。

 そこで、体重を減らすことにした。

 そして、去年の11月・12月で体重を6キロ減らした。

 

 しかし、この3カ月間は体重は一定のまま。

 増えもしないが減りもしていない。

 

 個人的にはもっと体重を減らしたいところ。

 実感として去年の夏よりも体調はいいし、医者からも特に何も言われていないのだが、もっと快適になりたい。

 

6 ブログについて

 1月にこのブログのアカウントを作成したが、「ブログの方針も決めずに書き出しても意味がない」と放置していた。

 3月になって、「そろそろ始めないとなあ。思ったことをメモ代わりにすればいいか」と腰を上げてスタート。

 

 最初に決めたのは、「1記事2000文字以上、3カ月で26記事、年間約100記事」というノルマ(ノルマでもあるが、「ブログにこれ以上時間をかけない」という縛りでもある)。

 どうやら、そのノルマは消化しつつある。

 

 当初のブログのネタは

 

山本七平の書籍を読み、勉強したことをまとめる

・プログラミングの勉強状況についてメモする

・その他ごにょごにょ

 

であったが、憲法について考える」というネタを追加してしまって、一気に重たくしてしまった。

 もっとも、リソースはこれ以上増やすわけにはいかないので、気長にやる予定である。

 

7 次の3カ月間について 

 4月から6月も無理のない範囲でやれることをやる予定。

 

 最低でも、プログラミングの写経は全部終わらせたい。

 できれば、プログラミングのアウトプットを具体化させたい。

 AIに関する研究についてのインプットを始めたい。

 AI研究の場に関するインプット・アウトプットも始めたい。

 山本七平に関するインプット・ブログへのアウトプットは気長にやりたい。

 その他についてもごにょごにょ。

 

 そして、体重を減らしたい。

 そのために運動する習慣も身に着けたい。

 

 、、、などと書きまくったが、こりゃ消化不良を起こすな。

 私がセーブしないといけないのは「やりたい」という欲求それ自体なのかもしれない。

「統計検定2級」、資格取得奮戦記

1 はじめに

 先日、CBT方式で「統計検定2級」を受験し、合格した。

 そこで、後で振り返ることができるよう、このブログに記録を遺しておく。

 

2 動機

 遠い遠い昔、私は「プログラミングを使ってデータを録り、その結果を発表する」ということをしていた。

 もちろん、「データを録る」といっても「集計して確率・平均・期待値を出す」というレベルであり、極めて初歩的なものであったが。

 

 この点、私は大学1年のときに「統計学入門」という講義の履修登録をしたが、授業はほとんど受けず、試験を受けて単位を取っただけであった。

 その後も、気になることがあるときに大学時代に買った教科書(東京大学出版会の『統計学入門』)をパラパラ見てはいたが、それ以上のことはしていない。

 つまり、真面目に勉強することはなかった。

 

 ただ、せっかく「データを録って、それを発表する」ということをしていたのだ。

統計学」について無知なのはもったいない。

 そこで、一度真面目に勉強しよう、インプットだけだと真面目にやらないからアウトプットを形に残そう、そのために資格を取ろう。

 そのような流れで、統計検定2級を受けることにした。

 なお、2級を選択したのは、レベルが「大学教養課程程度(1・2年)」と書かれていたため。

 とりあえず目指せるラインを目標に置くことにした。

 

3 申込

「統計検定2級を受ける」と決めたはいいものの、現在、「コビット・ナインティーン」の影響で試験が中止になる可能性があった(現に、私は去年申し込んだとある資格の試験自体が中止になり、受験料が返還された)。

 また、さっさと受験してしまいたい、という思いもあった。

 そこで、CBT形式の受験を選択した。

 

 CBT方式とは、こちらが選択した会場(住所の近くの会場)に行き、PCを使って試験を受ける形式のものである。

 会場の空き具合如何によっては原則としていつでも受けることができる。

 

www.toukei-kentei.jp

 

 3月中旬、統計学の入門書を読んだ私は「さっさと統計検定2級を受けて、合格するぞ」と決めて受験の申し込みをし、会場の指定をする。

 その会場は新幹線が止まる駅から歩いて10分以内の場所にあり、交通の便は極めて優秀であった。

 また、予約状況は「直近2週間は満席だが、その後はちらほら空きがある」という状況であった。

 なんとか3月中に受験したいと思っていた私は3月下旬に日程を指定する。

 

 そして、受験料を指定振込先に振込む。

 この点、CBT方式は一般の受験方式よりも高い。

 しかし、日程は自由・合否は直ちに分かるなどの便宜を考慮すれば全然気にならなかった。

 

4 直近過去問を解く

 試験の申し込みから数日間。

 私は何も勉強せず、対策もしなかった。

 しかし、「このままではまずい」ということで直近の過去問を解いてみた。

 過去問がどんな感じか分からなければ、何をすべきかも分からないからである。

 

 このとき、私は「大学教養レベル」と書かれたハードルを高く見ていた。

 そのため、「自分のレベルを把握する」という観点から統計検定4級や3級の直近過去問(19年11月に実施されたもの、次のサイトで公開)を入手し、それらも解いてみることにした。

 

www.toukei-kentei.jp

 

 時間を測って試験に挑戦する。

 結果は・・・(ドラムロール)。

 

4級 30問中27問正解(正答率90%)

3級 30問中25問正解(正答率83%)

2級 35問中25問正解(正答率71%)

 

 サイトに記載されている2級の合格ラインは「正答率70%」。

 よって、現状は合格ラインのボーダー上にいると推測できる。

 つまり、「急ピッチで猛特訓しないといけない」わけではない。

 そんな結果が出て、とりあえず安堵する。

 

 また、「以前買った過去問集(統計検定2級の過去問集、私が持っているのは16年から18年までの過去問が掲載されているもの)をこなせば十分であり、追加の問題演習は不要である」とも判断する。

 現時点で既にボーダー上にいるのだから。

 

 その後、CBT形式の受験が初めて、ということで、試験の方法について調べた。

 その結果、あることに気付く。

 

 問題はPCのディスプレイに表示され、問題用紙は配布されない。

 計算用紙は渡されるが、どの程度か不明。

 

 というわけで、不安になる。

 問題用紙に書き込みながら問題を解くことができない、と。

 計算用紙があるといってもそんなに枚数があるわけではないだろう、と。

 これは内容の学習とは別の対策が必要ではないか、と。

 

5 試験前夜、徹夜で過去問を解きまくる

 不安にはなったが、直近の過去問を解いて、現段階で既に合格ボーダー上にあると分かってホッとしてしまったのだろう。

 直近過去問を解いてから試験前日まで、過去問集にある過去問は一切解かなかった。

 

 試験前夜、「さすがに何も解かないで試験を受けるのはまずい、不合格になったら後悔しきれん」ということで過去問集掲載(過去問集は下のリンクのとおり)の6回分の過去問を解くことにした。

 また、本番がCBT形式であることを考慮し、「試験時間は75分しかない」と仮定して過去問を解くことにした。

 これなら問題用紙に直接書き込めず、問題文の確認などに時間がかかっても対処できるからである。

 

 

 そして、徹夜で過去問集を解く。

 6回のうち1回でも7割切るのはイヤだと考えていたが、総て70%以上の正答率を叩き出した。

 過去問演習の結果とCBT方式ならボーダーが正答率60%になることを考慮し、安心する。

 これなら、「会場に行くことができ、試験本番に眠くならなければ受かる」と。

 

6 本番

 次の日。

 私は新幹線に乗って試験会場に向かう。

 そして、会場付近の喫茶店にて最後の確認をする。

 

 そして、受験開始。

 そして、合格。

 

 試験本番、眠くはならなかったものの、集中力は途切れ気味であり、苦労した。

 これは一夜漬けの副作用である。

 ちゃんと計画的に勉強しなきゃいけなかったと反省する。

 

 合格証は1カ月半くらい後に送られてくるらしい。

 今から楽しみである。

 

 さて、統計検定2級をゲットし、「資格を取る」というノルマの一部を達成した。

 次は、お金の勉強をする関係から、FP3級の資格を取ろうと考えている

(既に、申し込みはした、受験は5月23日)。

司法試験の採点実感を読む

1 「採点実感」というマジックアイテム

 司法試験が現在のシステムに変更されてから、「採点実感」という採点者のコメントが発表されるようになった。

 例えば、去年(令和2年)の試験に関してはこんな感じで公開されている。

 

www.moj.go.jp

 

 当然だが、司法試験に合格したい者は必ず読まなければならない。

 この点、予備校・法科大学院等の講義・教材はこれらの採点実感を踏まえているはずなので、それらに接していれば間接的に採点実感に触れていることにはなる。

 しかし、訴訟法における「直接主義」の点を考慮すれば、というか、そんな大げさなものを持ち出すまでもなく、直接見るべきものである。

 

 さて、私が司法試験の勉強をしていた当時は、新旧両方の試験が行われていた(試験勉強期間中に現在のシステムの司法試験がスタートした)。

 そして、私が受験し、合格したのは昔のシステムの方。

 

 昔のシステムでは、こんなコメントは公開されなかった。

 出題趣旨が数行発表されるだけである。

 だから、採点実感の公開については「うらまやしー」という気持ちを抱いていた。

 

 この点、私は新司法試験を受験する全くなかった。

 しかし、当時の試験の採点実感はちゃんと読んだ。

 試験の形式は異なるとはいえ、同じ司法試験。

 採点者の思考・感想は極めて重要だからである。

 

2 「判読困難な~」というコメント

 さて、久々に採点実感を読んでみた。

 約10年ぶりであろうか。

 

 採点実感を見ると、「判読困難な答案がある」旨コメントしている科目が複数あった。

 必修科目(7科目)のうち憲法行政法民法、商法、民事訴訟法、刑法に同趣旨のコメントが見られた(刑事訴訟法にはなかったらしい)。

 

 この「読めん文字で答案を書くんじゃない」という趣旨のコメントは昔もあった。

 その点は昔も今も変わらないということか。

 

 さて、冷静に考えてみると、これは異様である。

 解答の内容以前の問題なのだから。

 そして、受験者は大学を卒業して法科大学院に合格し、卒業した者たちなのだから。

 司法試験は高校入試・大学入試ではない。

 

 この点、現在の人はスマホ・PC等の電子機器を活用しており、手を使って文章を書く機会は昔より明らかに少ない。

 そして、社会においても手で文章を書かなければならない機会は少ない。

 そう考えると、試験のシステムの方を変えた方がいい気がする。

 まあ、受験者全員分のPCを司法試験委員会が用意するとなるとそれはそれで大変であり、変更はかなり難しいのかもしれないが。

 

 また、当時も、そして、今は「さらに」というべきであろうが、司法試験の論文試験は時間が足りない。

 採点実感に「時間が足らないのは理解できるが~」と書いてある科目があったが、それはどの科目にも言えることであり、本当に時間が足りない。

 過去も昔もそうなのであれば、いっそ試験時間を増やした方がいいのではないか。

 別に、司法試験は10将棋や100メートル走ではないのだから。

 

3 憲法の採点実感を読む

 採点実感には採点者が答案に求めていることが書かれている。

 よって、それを読むことで「どんな答案を書けばいいか」が分かる。

 その結果、勉強法も分かる。

 さらに言えば、司法試験は「法律実務」に携わる者が合格しなければならない試験であるから、実務で求められているものなどについても分かる。

 というわけで、ここに込められている情報量は膨大である。

 

 このブログでは、「旧司法試験の憲法の人権の過去問を振り返ってみよう」という趣旨でいくつかの過去問を見直そうとしているので、憲法について読んでみた。

 求められる能力は過去も今も大差ない以上、これを踏まえることは過去問を振り返る上でも有益だからである。

 

 感想は次の2点。

 昔、色々と口酸っぱく言われていたことのいくつかは正しかったのだな、と。

 例えば、「どんな自由が侵害されているのか認定し、その自由が憲法上の権利として保障されていることを明示せよ(厚く展開しなくてもよいが)」というもの。

 あるいは、「規制目的を掲げ、直ちに、「正当(重要、または、合理的)」などと結論を出さず、規制目的を評価して、その評価を明示せよ」とか。

 この辺は、この採点実感を見る限り正しかったのだな、ということが分かる。

 

 他方、異なる部分もある。

 

 まず、違憲審査基準を立てるまでの過程。

 また、判例に対する評価。

 この2点はなんか違う感じがある。

 

 ブログで過去問を取り上げる際には、この2点を踏まえているが、この2点は昔とスタンスが異なる。

 ただ、昔と今でどうして違うのか、その原因は分からないが。

 

4 さいごに

 最後に、風呂敷をかなり広げた感想を。

 

 採点実感というのは極めて有益な情報である。

 採点に関して緻密な情報を提供し、試験の目標・勉強の方針を具体的に明示している。

 

 しかし、ここまで明示していいのか、という疑問がある。

 もちろん、司法試験委員会(採点者)が具体例を示しつつ「こういう勉強をしろ」と言い、他方、受験者が「はい、わかりました」とそれに対応した勉強するのは非常に効率がいい。

 そして、司法試験の対象の広さを考慮すれば、効率を求めることが悪いことではないことも間違いない。

 しかし、過去問の情報以上に採点実感等としてこんなに情報を与えてしまえば、受験者側は「出題者の意図を断片情報から推測する」努力が不要になってしまう。

 それは、重大な副作用を生むのではないか。

 

 もちろん、採点実感を公開する背景・司法試験のシステムを変更した背景を振り返れば、「この措置がやむを得ないものである」という認識はある。

 だから、「やめるべき」とは言わない。

 ただ、「正解を与えすぎではないか」という気がするのである。

 

 それからもう一つ。

 昭和の時代、司法試験の合格者はかなり絞られていたと言われている。

 そして、それは制度改革の出発点となった。

 しかし、人数を増やしても質が悪化したら意味がない。

 そして、この採点実感を見る限り、「質は大丈夫なのか」という疑問を持たざるを得ない(私が合格した当時だって「質が云々」というコメントは多々あった)。

 

 この点、太平洋戦争の敗因の一つとして故・山本七平氏らは「員数主義」を示した。

 簡単に説明すると、「形式的に数があれば、あとはどうとでも」という考え方である。

 

 この「員数主義」は太平洋戦争後の様々な場所で見られているらしい。

 そして、私は法科大学院に携わる制度改革においても現れているのではないかと感じている。

 この点は、もう少し資料を集めて検討したい。

久々に市の図書館に行く

1 湯水のごとくあふれ出た好奇心

 最近、湯水のように好奇心が沸き、様々なものに対して関心を持っている。

 

 まず、故・山本七平氏関係。

 彼の本を読む目的は、「彼の太平洋戦争の体験などを通じて得られた彼の評価関数・分析を学び、よって、私個人や日本を理解すること」にあった。

 しかし、故・山本七平関係の書物をあたれば、色々と周辺事項を知りたくなる。

 その結果、日本の歴史と日本の思想(尊王思想)について興味を持った。

 また、日本の思想の背景にある日本神話にも興味を持った。

 

 その一方で、メモ書きの裏側にプリントされていた旧司法試験・論文試験・憲法の過去問を見ることで、近代憲法についても関心を持った。

 とはいえ、興味を持つのは各論ではなく総論である。

 だから、憲法それ自体ではなく、キリスト教(聖書)・西洋史にも興味を持つことになる。

 

 そして、私が漫画を通じて親しんでいた神話であるギリシャ神話。

 これにも興味を持った。

 

 以上のように、現在、日本史・日本思想(尊王論)・日本神話・キリスト教(聖書)・ヨーロッパ史憲法ギリシャ神話に興味を持ってしまった。

 来週の水曜日に受験予定の「統計検定2級」や現在学習中のプログラミングなどはどこへ行ったのやら、という状態である。

 

2 そうだ、図書館へ行こう

 さて、日本史・日本思想・日本神話・キリスト教ヨーロッパ史憲法ギリシャ神話等と色々な興味を持ったので、とっかかりとして入門書を読みたいところである。

 しかし、分野の数が多い。

 そのため、本を一気に買い求めれば、お金が結構飛んでしまう。

 そこで、私が住んでいる市の図書館に行って様子を見ることにした。

 

3 新鮮な気分を味わう

 市の図書館に到着する。

 正面玄関前に、ポスターが貼ってある。

 なんだろうと思ったら、マクドナルドのバイト募集のポスターであった。

 

 よくみると、図書館のサポート企業ということらしい。

 そんなシステムができたのか、と新たな知識が得られる。

 

 あと、興味深かったのが、入口正面に入ってとあるアイドルのブースがあったことである。

 私はアイドルのことに全然疎く、詳細は知らないが、新鮮であった。

 

 さて、図書館のことはさておき、本を探す。

 ギリシャ神話でいい本はないかな、日本神話でいい本はないかな、聖書についていい本はないかななどと思ったら、思いもがけない本が見つかった。

 例えば、これ。

 

 

 著者の福田博という方(大学の先輩にあたる)は私が司法試験の勉強をしていたころの最高裁の裁判官である。

 そして、議員定数不均衡訴訟(所謂「一票の格差」訴訟)では反対意見を書き続けた裁判官でもある。

 さらに、この方は外交官出身である。

 そのため、外国の事情に精通しており、(日本独自のしがらみにとらわれず)原則に忠実なことを述べられている。

 一部紹介したい。

 

 判決の事件番号・判決全文は次のとおりである。

 

 事件番号等・平成15(行ツ24)、最高裁大法廷判決、平成16年1月14日、民集第58巻1号56頁

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/391/052391_hanrei.pdf

 

(以下、平成16年に出された参議院議員定数不均衡訴訟の判決にある福田裁判官の追加反対意見より引用、なお、一部は省略する、さらに、強調は私の手によるもの)

 現実に国会が制定し改正を重ねてきた公職選挙法は,(中略)双方の選挙区選挙において地域的要素を加味ないし維持することにより,投票価値の平等の要請から離れた形の選挙制度を維持し続けており,投票権の平等を実現しようとはしない。最高裁判所も,累次の大法廷判決において,衆議院議員の選挙区選挙については最大3倍,参議院議員の選挙区選挙においては最大6倍までの較差の存在を合憲とする判断を重ねてきており,今回もその基本的な傾向は変わらない。

 このような較差の存在を合憲とする多数意見が理由とするところは,立法裁量の範囲内とするもの,地方自治の重要性を強調するもの,選挙訴訟の性質を理由とするものなど様々であるが,いずれも憲法が定める投票権の平等の本質的重要性を理解しないものであり,(中略)全く認めることはできない。
 現在の衆参両院の議員選挙について等しくいえることは,国会は,民主主義の統治システムの要であり,国の将来を定めていく上で最も重要な役割を担っているにもかかわらず,選挙区選挙に関する限り,長年にわたる投票価値の不平等の問題を解決することなく放置し,せいぜい不十分な修正を行うのみで,歪んだ形での選挙制度を温存することにより,基本的に現職に有利な体制を維持し続けているということである。
 これは憲法14条1項に定める法の下の平等に反するのみならず(14条1項を前後段に分け,後段に「住所」が特記されていないので,住所により投票価値に差が出ても,違憲の問題とはならないというような議論は,法の下の平等の本質を理解しないものである。もしそのような解釈で良ければ,例えば所属する「政党」(14条1項には特記されていない。)によって投票価値に差を設けても,憲法上の問題とはならないはずであるが,そのような説が受け入れられないことは現代の民主政治体制の下ではもとより当然のことである。なお,全く念のために一言すると,「政党」が14条1項に特記する「信条」によって形成されるものに限らないことは,我が国の現状を見ても疑う余地がない。),(中略)憲法15条1項,3項の定める国民の選挙権そのものを否定しているといえる。(中略)

 なお,一言付言すると,反対意見の中には現在の公職選挙法で認められている1票の較差を違憲とするものの,最大較差2倍までを合憲として許容する立場のものも多い。この考えは,長年にわたり大きな較差が存続している情況の中で,較差の是正に向けて,やや現実との妥協を図って提案されているものであり,それなりに好意的な受け取めをされることがある。(中略)しかし,この提案は,やはり正しくないというのがその後の私の考えである。すなわち,現代民主主義政治における投票価値の平等とはあくまでも1対1を基本とするもので,1対2は1対1ではない(別の言い方をすると,1対2が認められるのであれば,どうして1対3や1対4が認められないのかは,理論的に説明できない。)。

 就中,最も問題であるのは,仮にある程度の較差は認めることができるという司法判断があると,国会は,それを奇貨として,更にその例外を温存することに邁進するのが現実であることである。(中略)

 国会が投票価値の平等の実現に熱心ではない現実の前では,司法はその義務を厳格に果たさなければならない。これまでの司法の対応は,時の権力に奉仕,追従し続けるものにほかならないとの批判には理由がある。現状を見る限り,選挙制度について,最高裁判所違憲審査権を適切に行使する責任を果たしておらず,憲法に定める我が国の民主主義体制を維持するための所定の役割を果たしていない。(後略)

(引用終了)

 

 この判決文を直接目にしたのはこの判決が出た平成17年の春ころであるが、内容の是非はさておきカッコいいことが書いてある。畏まった法的な文章を日常語に意訳する(あるいは、「私釈三国志」風に意訳する)なら次のとおりになる。

 

(以下、意訳)

憲法14条に「住所」と書いてないから、住所によって投票の価値に差が生じても違憲ではないというのは「下手の考え休むに似たり」で話にならん。それなら、所属政党によって票の価値に差を付けても(「所属政党」は憲法14条に記載されてないから)憲法上問題ないということになるが、それが民主主義では認められないことは明らかだ。さらに、バカのために言い添えておくが、所属政党は「信条」によるものとは限らないから、政党差別は信条差別と直結しないぞ。

・反対意見の中には「2倍以内ならまあ合憲」という基準があり、妥協案として好意的に受け止めている人もいる(私も同意したことがある)。しかし、原理的に見れば正しくないこと、現在、国会は最高裁判所が例外を認める合憲判決を書くと、その判決を奇貨としてその例外を温存しようと邁進することを考えれば、妥協案としても疑問がある。

・外野では「最高裁は国会・内閣に阿っている」という批判があるが、選挙制度に関する最高裁の態度についてはこの批判はもっともである。

(意訳終了)

 

 言いたい放題である。

 内容の是非はさておき、(当時の)私のハートを揺るがしたことは間違いない。

 

 というわけで、即座に借りることにした。

 さっさと読み切ってしまう予定である。

 

 次に、キリスト教関係で本を探していたら、次の本が見つかった。

 

 

 

 この人は安土桃山から江戸初期の人であり、キリスト教を受容し、かつ、棄教した人であり、この人についても非常に興味があったので、借りてきた。

 

 あと、日本神話やギリシャ神話や水戸学や歴史の本を借り、さらに次の本が見つかった。

 

 

 明治憲法制定経緯を知るならこれを読む必要があるだろう。

 よって、これも借りる。

 

 しかし、色々本を物色していると、持ち運ぶ本が重い。

 だから、カートを借りて運んだ。

 図書館でカートを引きながら動き回るのは初めてである。

 新鮮な経験であった。

 

 というわけで、借りてきた本。

 他にやることがたくさんある関係でどこまでやれるかは分からない。

 ただ、時間が許せば、メモくらいは残そうと考えている。

山本七平氏の書籍に興味を持つ

1 山本七平氏の書籍に興味を持つ

 山本七平(故人)という方がいる。

 

ja.wikipedia.org

 

 最近、私はこの人の書籍に関心を持っている。

 具体的に次の書籍を読み、あるいは、買って読もうとしている。

 以下、リンクを片っ端から貼る。

 

 

 

 

 

  

 あと、山本七平氏の書籍を一覧するために、次の本も読んだ。

  

 

2 興味を持ったきっかけ

 上に書いた本のいくつかはかなり昔に買って、その時に読んだ。

 だから、山本七平氏それ自体のことを知ったのは最近ではない。

 

 確かに、当時の私は本を読んだ。

 また、書いてある内容の一部は私の知識の棚に放り込みもした。

 でも、それだけ。

 それを活かそうとは考えなかった。

「歴史を学んだが、歴史に学ばなかった」と言ってもよい。

 

 最近、これらの本を見直して、強い既視感を感じた。

 敗因分析は今もそのまま使える。

 事実関係を太平洋戦争から今回のコロナ禍に変えるだけで類似の文章が出来上がるのではないか、と。

 

 この点、日本の状況の類似性だけを感じただけなら、「所詮他人事」であり、「知識の棚」が厚くなっただけで終わっただろう。

 しかし、読んでいてもう1個思ったことがある。

 太平洋戦争にかかわる事実をコロナ禍に置き換えれば似た文章が出来上がる。

 しかし、「私の過去の行為に置き換えても似たような文章ができる」と。

 

 つまり、書かれた内容が「他人事」ではなかった。

 確かに、私と太平洋戦争下の日本軍では事実関係は異なる。

 しかし、背景・行動原理が似通っているのである。

 私が日本人であること、日本において真面目に教育された人間であることを考慮すれば、これはただの偶然ではあるまい。

 

 その時思った。

 これらの書籍を理解すれば、自分が理解できる、と。

 それが、山本七平氏の書籍に興味を持ち、内容を理解しようとした最初の理由である。

 

3 「他人事」から「自分のこと」へ

 皆さん、こんな経験はないだろうか。

 

 ある目標に向かって必死に、我武者羅に努力した。

 しかし、武運拙く目標は達成できなかった。

 振り返って思う、「無念である。しかし、やるだけのことをやった。」と。

 

 例えば、東京大学に受かるために、がむしゃらに勉強し、浪人までした。

 でも、合格できなかった。

 結果は残念だ。でも、やるだけのことをやった。

(これはただの例である、念のために述べると、私は現役で東大に合格した)

 

 小さいことでも大きいことでもいい。

 社会的に意味があるか等も気にする必要はない。

 

 確かに、大変だっただろう。

 努力もしただろう。

 その時点で最善の選択をしただろう。

 そのことを否定するつもりは全くない。

 

 しかし、一つだけ質問させてほしい。

「『やるだけのことをやった』と言った。しかし、あなたはその際あらゆる方法を探求し、可能な方法論を試してみましたか?」と。

 

 強調するが、この答えが「ノー」であっても、「それでも『やるだけのことをやった』と言えるのですか?」などという意地の悪い質問をする気はない。

 頑張ったこと、最善を尽くしたことを否定するつもりは全くない。

 非難するつもりもない。

 

 ただ、日本は太平洋戦争やそれ以後、何度も同じようなことを繰り返しているようでである。

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』(リンクは上にある)の第2章にそのことが書かれている。

 その具体例として挙げられたのが、「バシー海峡」である。

 

 バシー海峡については次のリンク先を見てほしい。

 

bashi-channel.com

 

 ここではその詳細な説明は省く。

 それは今後書くから。

 というよりも、これを書きたいがためにこのブログを立ち上げたようなものだから。

 

 敗因は他にも書かれている。

 例えば、「員数を尊び、実数を考慮しない」という点もある。

 太平洋戦争時の具体例が紹介されているは当然として、太平洋戦争後の具体例も紹介されている。

 例えば、春闘の参加者数をめぐる関係者(当事者・新聞報道など)の言動である。

 

4 私が遺しておきたいこと

 以上は一例である。

 私の学習自体はまだ終わってない。

 しかし、途中段階でありながら、私は次のようなことを妄想している。

 

① 太平洋戦争の以後、私たちは同じようなことを繰り返している

② 太平洋戦争の以前も、私たちは同じようなことを繰り返した

 

 さらに言うと、次のことも妄想している。

 

③ 太平洋戦争などでは失敗の方向の結果が出たが、前提・条件が異なれば成功の原因にもなり、それにより成功した結果が過去にたくさん存在する

 

 よって、これらの妄想と日本の歴史を照らし合わせ、この妄想がどの程度適合するのかを調べたい。

 ただ、調べただけで終わるのもあれなので、その調べた結果をこのブログに遺していきたいと思っている。

 

 でも、それ以上の何かは望まないようにする。

 確かに、歴史上の悲劇を学べば、自分が失敗すれば、その失敗を回避したい・損害を減らしたいと思う。

 類似の失敗を回避できるなら、失敗に対する損害を軽減できるならそれに越したことはない。

 

 しかし、その前には巨大な壁が立ちふさがる。

 

 まず、歴史に学ぶにはその前提として事実を知る(調査する)必要があるが、これはしんどいし、リソースが必要である。

 まず、本を読み、理解するための時間と知的訓練が必要である。

 さらに、事実を調査するとなると時間と金と技術が要る。

 リソースに余裕がなければ到底出来まい。

 

 また、この文章を書いている際、山本七平氏のいわゆる日本軍三部作を読んでいたのだが、私は気分が滅入ってしまい、果てには気持ち悪くなってしまった。

 今、そんな状況でキーボードをたたいている。

 

 さらに、失敗の原因が分かったところで、改善できるのかという問題がある。

 この点、個人が自分の失敗を次に活かすということなら十分可能だろう。

 でも、それでさえ完璧に活かしきることは極めてまれだ。

 ならば、一部は活かせず、類似の失敗を繰り返すだろう。

 

 個人でさえこれなのだ、まして集団をや。

「歴史は繰り返す、一回目は悲劇として、二番目は喜劇として」と言われる。

 これは歴史に学ばない人間をあざ笑っているように見える。

 しかし、実際、二度目を回避するのは容易ではない。

 

 さらに、原因が判明し、実現可能な改善策が存在したとして最後に立ちはだかる壁が「それを望むのか」という問題である。

 先に述べた通り、失敗の原因をもたらしたものは条件が変われば成功の原因にもなる。

 たまたま私が手に取ってきた山本七平氏の書籍は失敗にスポットをあてているが、山本七平氏は成功した事象にもスポットをあてている。

 だから、改善策を実行することで別の副作用(成功の阻害)を生むことは十分ありうる。

 

 例えば、私はある失敗をした。

 過去にも同じ原因で類似の失敗をしていることが分かった。

 原因は分かり、対策もある程度わかった。

 しかし、視点を広げれば、「その原因は別の機会に成功の要因」にもなっていた。

 ならば、その原因を改善すれば、成功の要因をも潰すことになる。

 それでいいのか。

 それについては、現在も答えを留保している(だから、今後も似たようなことは起きると思っているし、それ自体は諦めている)。

 

 最後の問題は難題である。

 最近強く考えるのが、「短期的に生じた成功・失敗がそのまま長期的な成功・失敗になるとは限らない」というものである。

 ことわざで言えば、「人生万事塞翁が馬」。

 ならば、「歴史に学ぶ必要はない。めんどくさいし、しんどい。過去のことなんか水に流して、『後は野となれ山となれ』でいいではないか」という選択肢だって十分ありうる。

 集団としてそのような決定を下すことは全然ありうるし、それを非難できるかは正直微妙である。

 

 これは「何をしたいのか」という自己決定の問題であり、能力の問題ではない。

 宮台真司先生はよく「知の劣化ではない、感情の劣化だ」と述べているが、その通りである。

 最後の問題は知性は関係がない。

 知性が関係するのは1番目と2番目である。

 

 最初の壁なら私のリソースで何かできるかもしれない。

 しかし、残り2つの壁に対してできることは何もない。

 だから、私の目的は、山本七平氏の評価関数と太平洋戦争当時の事実を把握すること、それをもとに他の歴史的事実や現代の事情を見直すこと、そして、それを後世に書き送ることに限定している。

 でないと、発狂して挫折し、最初の目的すら達成できなくなるから。

 

 学んだ内容、現代への適用結果などの各論はこれから書いていく。

 ただ、何故、私がこのような行為を始めたのか、私の背景を明記しておく。

 途中で発狂したときにこの原点を忘れないために。

 

 最後に。

 これはパブリック・マインドなどではない。

 ただの個人の私情である。

 すべきだからするのではなく、したいからするのである。

(だから、途中で興味がなくなったり、忙しくなったりすれば中断するかもしれない、それでもいいと思っている)

 

 福沢諭吉が『痩せ我慢の説』で述べた。

「立国は私なり、公にあらざるなり」と。

 なるほどな、と思う。

 

www.aozora.gr.jp

 

 あと、山本七平氏の一節を最後に残しておく。

 

 (以下、『私の中の日本軍(下)』・山本七平著・文春文庫・1983より引用)

 誤っていることがあるなら、自分の誤りも含めて、それを申し送って行くことは、一面そういう運命に陥った者に課せられた任務でもあろう。消えてしまうなら、消えてしまうでよい。しかし、いつの日かわからず、また何十年あるいは何百年先かそれも分からないが、自分が全く知らず、生涯一度も会ったことのない、全然「縁もゆかりもない」「見ず知らず」の人間が、それを取り上げて、すべてを明らかにしてくれることがないとは、絶対に言えないからである_現に、ここにある。 

(引用終了)

司法試験の過去問を見直す2 その3

 今回のブログはシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 前回と前々回で「過去問を解くための必要な前提知識」を示した。

 よって、それらの前提事実を踏まえ、著しく不合理・不自然な事実認定・事実評価をすることなく論理的な文章を展開すれば、十分な評価が得られる。

 結論それ自体に右往左往する必要はない。

 

10 過去問を確認する

 では、過去問に挑戦する。

 改めて過去問を見直そう。

 

(以下、過去問を転記)

A市は、市営汚水処理場建設について地元住民の理解を得るために、建設予定区にあって、四季の祭りを通じて鎮守様として親しまれ、地元住民多数が氏子になっている神社(宗教法人)境内の社殿に通じる未舗装の参道を2倍に拡張して舗装し、工事費用として100万円を支出した。なお、この神社の社殿に隣接する社務所は、平素から地元住民の集会場としても使用されていた。A市の右の措置について、憲法上の問題点を挙げて論ぜよ。 

 (転記終了)

 

 事実(判決事実)関係をまとめると次のようになる。

 

・A市は宗教法人が利用する神社の舗装工事の工事費用100万円を支出した。

・支出の目的は所謂迷惑施設(市営汚水処理場建設)について地元住民の理解を得ること

・地元住民の多数がその神社の氏子になっている

・費用を負担した工事によって、神社の社殿に通じる参道は舗装されたうえ、かつ、2倍に拡張された

・神社に隣接する社務所は平素から住民の集会場として利用されていた

 

  まず、目を引く事実を見ると、「100万円」という額が見える。

 この額は前提知識に出てきた判例の額よりもずっと多い。

 特に、違憲と判断した愛媛玉ぐし訴訟の額よりも多い。

 とすると、注釈なく「100万円は少額だから些末」という方向に持っていくのはよろしくないだろう。

(もちろん、私学助成等の額に比べれば100万円は小さいと評価することは可能である、ただし、そう評価するならその点をはっきりと明示する必要があるだろう)

 

11 答案の構成・規範定立まで

 以上の事実を見ながら、どう答案に書いていくか考えよう。

 問いは、「A市の措置(公金支出)について憲法上の問題点を挙げて論ぜよ」である。

 だから、スタートラインは「A市の公金支出は憲法に反しないか」という形になる。
 もちろん、「憲法」だけでは特定できていないので、「A市の公金支出は89条前段に反しないか」という形で具体的に条文を「挙げ」る必要があるだろう。

 

 法律実務の文章は、「①問題点を指摘し、②(定義・趣旨・条文から)規範を定立し、③事実を認定し、認定事実を規範に照らして評価し、④結論を出す」という体裁をとる。

 この形式を「法的三段論法」とか「アイラック」とか言う。

「論理的な文章である」と認められるためにはこの書式に従わなければならない。

 

 さて、問題点は「A市の支出が憲法89条前段で禁止している公金支出にあたるか」である。

 そして、憲法89条前段の趣旨が政教分離を金銭面で担保するものだと指摘して、政教分離についてその意義を論じていく必要がある。

  このように「政教分離」について論じるのは理由がある。

 条文と政教分離の関係を明示することなく、「政教分離」に飛びつくのはやめた方がいい。

 

 政教分離に関する法的な説明・規範定立については、①制度趣旨(原則論)を述べ、②不都合な点を指摘し、③制度的保障で例外を正当化し、④ルールを立てればいいだろう。

 この部分は所謂「原則修正パターン」であり、「法的文章の基本構造」の一つである。

 ここは素直にこの順番で書けばいい。

 

 日本の事例が問題になっていることから、規範は最高裁目的効果基準を用いる。

 もちろん、最高裁が述べたとおり「主観をそのまま鵜呑みにするのではなく、社会通念に従い客観的に判断する」目的効果基準である。

 というのも、この限定を付さない目的効果基準だと、「目的は迷惑施設誘致に対する住民の理解を得ることであり、神社を有する宗教法人の勢力拡大を目的にしていないため、世俗的である。」となって答案が単純化してしまうし、(ルール的にも)政教分離の趣旨が貫徹できないからである。

 ただ、事実認定においては、レモン・テストを使って答案を書く場合にも考慮し、「効果」と「目的」だけではなく、「関係」についても検討する。

 目的効果基準の場合は、「関係」は「効果」か「目的」のところで触れればいいだろう。

 

12 事実認定と事実の評価

 次に、事実認定の部分に移る。

 主要な事実関係は上に述べた通りで、これを動かすことは積極ミス(著しく不合理な事実認定)になるので、それを動かすことなく、目的・効果・関係の3つの点から評価しかなければならない。

 

 

 まず、一番クリアしづらい要件と考えられる「効果」から書く。

 支出額である100万円が(世情の感覚から見て)多額だということは上で述べた。

 また、工事の結果、未舗装だった参道が舗装される上、その参道は2倍に拡張される。

 既に舗装されている道の修理である、参道の幅は変わらない、等の事情があれば、「分かりにくい」かもしれないが、これだけ変化すれば外見の変化は明らかである。

 そうなれば、住民はこう思うだろう。

「結果だけ見れば、『A市は神社を優遇・援助した』ように見える」と。

 となれば、支出の効果は神社に対する援助・助長・促進にあたることになり、「効果」の点をクリアするのは難しい。

 

 反論はある。

「地元住民が日常的に利用している社務所への通路になっている(隣にある)神社の参道がミゼラブルなままでいいのか」と。

 、、、さすがに砕けた言い方なので、真面目に書き直そう。

「参道の舗装は社務所(多数の住民が集会などで日常的に使用)の便益にも資するから『神社に対する優遇である』という印象を住民は持たない」と。

 効果の点を否定するなら、この点を強調する必要があるだろう。

 

 しかし、これを押し切るのは微妙な気がする。

 何故なら、それを前面に押し出すなら、別の方法があるからである。

 例えば、参道の修理費ではなく、「社務所、特に、住民が日常的に利用している箇所の管理維持費や修理費などの費用」を支出するという手段があるからである。

 所詮お金に色は付けられない。

 ならば、神社に対して「いつも住民のために社務所を開放してくださりありがとうございます。市が社務所の修理・管理費用を援助します(ので、浮いたお金で参道を補修してください)」ともっていくことは可能である。

 露骨にやれば問題になるが、この場合なら、現実に発生した効果が同じだったとしても、効果に対する評価は幾分変わるだろう。

 もちろん、管理維持費などで100万円も計上できるかは微妙ではあるが。

 

 よって、「効果」の点をクリアすることは難しい。

 また、目的効果基準を採用したうえで結論を合憲にする場合、目的の部分で正当化すればいいことを考慮すれば、この違憲を裏付ける事情のあっさりを認めてしまうのもありである。

 そうすれば、「反対側の事情にも配慮している」ことが答案上に表現されるのだから(こざかしいと思うかもしれないが、判決などで反対利益への配慮が要請される以上、これは必要である)。

 

 

 次に、レモン・テストを用いた場合を想定して、「関係」の点を見てみよう

目的効果基準で検討するならば、効果の部分に含めて考えることになる)。

 今回の費用の名目は修理費である。

 1回きりのものを想定しており、継続的なものではない。

 この「1回きり」という点を強調すれば、「過度のかかわりあいにならない」と評価することはできる。

 

 しかし、支出の目的を加えて考えると景色が変わる。

 支出の目的は「迷惑施設誘致のための住民理解(説得)」である。

 そのため、「工事費を払ったら神社との付き合いはお終い」となる保証はない。

 

 例えば、氏子のうちの幾人かは「このような便宜をしてくれたんだから、迷惑施設を受け入れます」となるかもしれない(これは自然な感情であり、不思議ではない)。

 しかし、氏子でない住民からすれば「なんでやねん!」となるかもしれない。

 または、一部の氏子は「それでもやだ」と反対の意思を翻さないかもしれない。

 その場合、反対に回った人たちに対してA市は何をするのだろう。

 氏子以外の人にも便益を提供する?

 そうするくらいなら、最初から工事費を支出しないだろう。

 工事費を支出した意味がないから。

 そうなれば、舗装工事を支出した神社に協力を頼むことにならざるを得ない。

 この場合、神社とA市は今後も一定の関係を持ち続けることになる。

 

「関係」の点をクリアするかはこの点をどう評価するかによる。

 これを高く評価すればクリア不可、些末と見ればクリアと見ることになる。

 私は「クリアせず」と評価するが、以上の考えを「考えすぎだ」というのはあり得ない話ではない。

 

 

 さて、最後に目的の点が残っている。

 目的効果基準で考えるなら、この部分もアウトにしなければ違憲にならない。

 逆に、ここがクリアできれば合憲にもっていける。

 

 問題文ではこう明示されている。

「目的は迷惑施設誘致に対する住民の理解(説得)である」と。

 

 これが直接の目的であることは「絶対に」否定できない(「これは虚偽である」と認定すればそれは積極ミスになる)。

 そして、この点を強調すれば、目的の点がクリアされ、他の部分がどれだけアウトであっても合憲になる。

 

 では、違憲の結論は目的効果基準から出せないのか。

 実は可能である。

「見えない目的」を追加して考えれば。

 

 ここで、目的と手段をつなげてみよう。

「①迷惑施設誘致に対する住民理解のため、②多数の住民が氏子になっている神社の工事費100万円を支出した」

 ①と②の間をじっと見つめている。

 何故、②によって①が何故達成できる?

 

 ここまで言えばわかるだろう。

 ②によって、「宗教法人(多数が氏子)の勢力を強め、これを利用することで」、住民を説得する、これが①と②をつなぐ「見えない目的」である。

 確かに、直接の目的は「迷惑施設受け入れの説得のため(世俗的目的のため)」なのだろう。

 その部分に嘘はない。

 

 しかし、隠れた部分も加えた目的、「(神社に便益を提供することで神社を味方につけ)、住民を説得する」、この意図も否定できない。

 この意図がないなら神社に支出しないで別の手段を考えるだろうから。

 

「目的をクリアしない」と認定するなら、この「見えない目的」を明示する必要がある。

 一目見て出てくる事情じゃないから。

 

「目的」をクリアさせるかは、この部分を詳細に検討し、それが答案上に表現できるか、による。

 今回は、「本番は時間がないから(これは重要なことである)、ここまで詳細な分析はできない」と考える必要がないので、ちょっと踏み込んでみた。

 

13 さいごに

 拾うべき事実は拾い、評価は終わった。

 あとは、評価にもとづいてあてはめを行い、結論を出すだけである。

 

 なお、現段階でも、私なら結論を違憲にした答案を作ろうとする。

 その方が事情を細かく評価できて、点数が稼げそうなので。

 そもそも、昔準備した答案は最高裁の基準を批判してレモンテストを採用した上、「目的」をクリアさせ、「効果」と「関係」の点をアウトにしたくらいなので。

 

 一方、「合憲の答案が書けないか」と言われれば、目的効果基準を用いれば無理ではないようである。

 ただ、この事案は「宗教団体に便益を提供し、宗教的権威を利用して、政治問題を解決しようとした(世俗的目的を達成しようとした)事案」になる。

 つまり、「政治による宗教の利用」である。

 よって、「これについてどう考えるのか」という視点は合憲に結論を持っていく場合はより重要になりそうな気がする。

 

 以上、過去問について検討した。

 なお、この問題について考えるきっかけを与えたのは、最近、那覇市の件で政教分離に関する最高裁判決が出たことによる。

 また、私が合格した後、2010年頃に政教分離に関する重要な判例が出ているらしい。

 よって、それを踏まえながら、今改めて政教分離などについて考えたことをメモに残す。

 

 では、次回。

司法試験の過去問を見直す2 その2

 今回のブログはこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 前回は政教分離の原則論まで書いた。

 ここからは「どこまで例外を許すか、その例外どうやって正当化するか」について話す。

 これも過去問を解く上で必要な知識である。

 

 それから、最近の政教分離に関する最高裁判例を見ると、いわゆる「目的効果基準」とは異なる基準を使っているようである。

 しかし、私が習った頃はまだこれらの新しい判決が出ていなかったこと、平成4年の時点でも新しい判例が出ていなかったこと、事実を拾って評価する際には「目的効果基準」は使いやすいことから、目的効果基準について確認し、そして、この基準に従って過去問を検討する。

(試験対策としてこの文章を見る際にはその点注意されたい、なお、この点については最後で感想を述べる)

 

6 政教分離原則の例外の必要性

 現実問題として、政府(政治権力)と宗教団体(宗教権力)を完全に分離するのは無理である。

 分離すると不都合になる点は山ほどある。

 

 この点について、津地鎮祭訴訟の最高裁判決が詳しく述べているのでそこから引用しよう。

 

(以下、判決文引用)

 ところが、宗教は、信仰という個人の内心的な事象としての側面を有するにとどまらず、同時に極めて多方面にわたる外部的な社会事象としての側面を伴うのが常であつて、この側面においては、教育、福祉、文化、民俗風習など広汎な場面で社会生活と接触することになり、そのことからくる当然の帰結として、国家が、社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するにあたつて、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れえないこととなる。したがつて、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れないのであつて、例えば、特定宗教と関係のある私立学校に対し一般の私立学校と同様な助成をしたり、文化財である神社、寺院の建築物や仏像等の維持保存のため国が宗教団体に補助金を支出したりすることも疑問とされるに至り、それが許されないということになれば、そこには、宗教との関係があることによる不利益な取扱い、すなわち宗教による差別が生ずることになりかねず、また例えば、刑務所等における教誨活動も、それがなんらかの宗教的色彩を帯びる限り一切許されないということになれば、かえつて受刑者の信教の自由は著しく制約される結果を招くことにもなりかねないのである。こそして、国家が社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するに当たって、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れることはできないから、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。さらにまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない。

(引用終了)

 

 最高裁は具体例として、私学助成・宗教団体の管理する文化財に対する補助金支出・刑務所における教誨活動を挙げている。

 これを見ただけでも、現実において考えた範囲でも厄介な問題は存在する。

  よって、正当化する法的根拠はさておき、例外が必要なのは明白である。

 

7 例外を正当化する根拠・制度的保障

 例外が必要であることそれ自体は既に述べたとおりである。

 しかし、「例外が必要だから(直ちに)修正します」と述べるだけでは、法的解釈を伴った文章ではない。

 それはただの評論文である。

 よって、それを正当化する法的な根拠(ロジック)が必要になる。

 表現の自由による制限が「公共の福祉」によって正当化されるように、政教分離原則を修正するにも法的根拠・法的解釈作業が必要なのである。

 

 この点、最高裁判所は「制度的保障」というロジックを持ち出した。

 これを簡単に言うと、「政教分離は制度に過ぎない(から、憲法は人権のように厳格に考えなくてもよい)」である。

 

 どういうことか。

 政治権力が特定の宗教団体が結託することで、権力による宗教弾圧が発生しやすくなり、その結果、国民の信仰の自由という憲法上の権利が害される(そして、それに触発された国民の反発により共同体はガタガタになる)。

 だから、政治権力と宗教団体を分離させる「制度」を設けることで国民の信仰の自由を守る。

 これが政教分離である。

 

 このように見た場合、政教分離は手段で目的は信教の自由の確保ということになる。 

 よって、政治権力と宗教団体がかかわったとしても、その結果、国民の信仰の自由が害されないのであれば、政教分離原則の趣旨・目的は害されない。

 ならば、国民の信仰の自由が害されないレベルの(政府・自治体と宗教団体の)関わり合いはオッケーではないか。

 これが例外を許容するロジックである。

 

 このように考えてもよい(許容される)理由はもう1点ある。

 政府が特定の宗教団体と関与すれば、その関与の過程・結果において、国民が自ら信仰しない宗教の儀式への参加が強制されるということがありうる(現実にそんな事態が生じれば大問題になる、その点を考慮すれば、具体化することはほとんどない)。

 その場面は個人の信仰の自由が害される状況にあたるので、まさに政教分離が要請される場面になる。

 しかし、憲法20条2項は「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 」と定めている。

 だから、そのようなケースは政教分離に反しなくても20条2項で個人の信教の自由を保護できる。

 だから、政教分離原則それ自体は厳格に考えなくても問題ない、と。

 

 なお、制度的保障を用いることについては異論がある。

 ただ、それについては割愛する。

 

8 修正の程度

 ただ、上の話は「例外が許される」と言っただけである。

 どのレベルまで許されるか、その程度は決まらない。

「『公共の福祉』によって表現の自由は制約できますよ。」と言っただけで、どのレベルまで制約が正当化されるかは一義的に明らかではないのと同様である。

 そこは、憲法の条文・憲法制定の経緯・その背景事情(立法事実)から推測するしかない。

 ただ、それらを真面目に語りだすとややこしくなるので、原則論重視の考えと最高裁の考えの2つを紹介する。

 

 まず、原則論を重視した場合、厳格に考えて例外を狭く考えることになる。

 その場合に用いられる基準として、「レモン・テスト」と呼ばれている基準がある。

 これはアメリカの判例で用いられた基準であり、判例でも反対意見の中で言及されていた。

 これは、次の3条件を全部クリアして合憲という厳しい基準である。

 

① 政府の行為の目的が適法かつ世俗的目的を有すること

② 政府の行為の主たる効果が宗教を助長または抑制するものではないこと

③ 政府の行為が宗教との過度の関わり合いをもたらすものではないこと

 

 つまり、目的・効果・関係の総ての点をクリアして初めて合憲になるという基準である。

 

 しかし、最高裁はこの基準は採用していない。

 私見だが、最高裁はこれほど厳しい基準を採用できないのではないかと思う。

 

 最高裁は次のように述べている。

 

(以下、判例から引用、ただ、余計な部分は私の判断で「中略」を入れる)

 その解釈の指導原理となる政教分離原則は、(中略)宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。
(中略)憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、(中略)当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。そして、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。

 憲法八九条が禁止している公金その他の公の財産を宗教上の組織又は団体の使用、便益又は維持のために支出すること又はその利用に供することというのも、前記の政教分離原則の意義に照らして、公金支出行為等における国家と宗教とのかかわり合いが前記の相当とされる限度を超えるものをいうものと解すべきであり、これに該当するかどうかを検討するに当たっては、前記と同様の基準によって判断しなければならない。

 (引用終了)

 

 この最高裁判所の基準は「目的効果基準」と呼ばれている。

 重要な部分をピックアップすれば次のとおり。

 

①当該行為の目的が宗教的意義を持ち、②その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為は違憲政教分離原則違反)

 

 目的効果基準に書いた①と②は両方満たした場合に違憲になると考えられる。

 だから、レモンテストと比較するなら次のようになる。

 

 レモンテストは「目的クリア、かつ、効果クリア、かつ、関与クリア」で合憲。

 最高裁は「目的クリア、または、効果クリア」で合憲。

 

 見ればわかる通り、最高裁の基準の方が緩い。

 そして、文言だけを見ると、最高裁の見解は「政府の主観的意図が世俗的ならば、結果としてどんな効果が発生しても合憲になりうるので、例外が広すぎないか」という批判が成立する。

 

 ただ、それに対しては最高裁自身が歯止めをかけている。

 目的の認定の際は「社会通念に照らして、客観的に判断しなければならない」と。

 つまり、政府・自治体がいくら「今回の目的は世俗的な目的なんです」と述べたところで、社会通念という経験則と他の客観的事実から「自治体側の発言は見せかけである」、「自治体側の発言自体は嘘はないが、言っていない別の意図も付加されている」と判断すれば、「世俗的目的とは認定されない」ということである。

 言い換えれば、「効果が大きければ、目的が世俗的だとは認定されにくい」ということにもなる。

 これは、譬えれば、刃渡り15センチのナイフを被害者の胸に向かって思いっきり突き刺し、それによって被害者を失血死させた男が「私は被害者を殺す意図はなかったんです。」と発言したところで、他の客観的事実からその男に「殺す意図あり」と判断されるようなものである。

 

 そう考えると、最高裁が採用した目的効果基準はレモン・テストほどではないにせよ「それほど広すぎる基準でもないのでは?」とも思える。

(もっとも、この点についての私の意見は最後で述べる、今は前提知識の確認なので、この程度の説明でとどめる)。

 

9 判例の下した事実の評価

 レモン・テストを使うにせよ、目的効果基準を使うにせよ、最高裁がどんな事実に対してどんな評価・判断を下したかを知っておくことは重要である。

「合格レベルの答案を書く」という目的ならば、必須と言ってもよい。

 特に、目的効果基準の基準を用いる場合、「このような事情を考慮せよ」とは書いてあるが、「どう評価せよ」とまでは明記されていない。

 ならば、最高裁が具体的にした評価を直接見る必要がある。

 

 政教分離に関する判例はたくさんあるが、過去問が平成4年であることを考慮し、今まであげた二つの判例(津地鎮祭訴訟と愛媛玉ぐし料訴訟)をあげる。

 他にも著名な判例はあるが、とりあえずこの2つがあれば過去問を解くための基礎事情は得られるからである。

 

 それぞれの事件で最高裁がピックアップした事情とそれに対する評価は次のとおりである。

 本当は判決文を直接引用したいのだが、整理する必要があること、分量が多いことを考慮し、まとめを掲載する(ただ、判決文の一部を直接引っ張っている)。

 

地鎮祭訴訟のケース

・判決事実関係

① 本件起工式の意図は「建物の建築の着工にあたり、土地の平安堅固、工事の無事安全を祈願する儀式として行われたこと」にあった。

② 主宰した神職自身も宗教的信仰心に基づいてこれを執行した

③ 方式は、「専門の宗教家である神職が、所定の服装で、神社神道固有の祭式に則り、一定の祭場を設け一定の祭具を使用して行つた」

④ 今回の儀式の方式は、国民一般の間にすでに長年月にわたり広く行われてきた方式の範囲の中にあった

⑤ 建築主の意図は、工事の円滑な進行をはかるため工事関係者の要請に応じ建築着工に際しての慣習化した社会的儀礼を行うところにあった。

⑥ 主催者の津市の市町の関係者も⑤と同様の認識であった。

・社会事実関係

⑦ 現代において、一般人の感覚で考えた場合、地鎮祭等として行われる起工式は建築着工に際しての慣習化した社会的儀礼として、世俗的な行事と評価しているものと考えられる(ただし、それが長年月にわたつて広く行われてきた方式の範囲を出た場合はこの限りではない)

⑧ わが国では宗教的雑居性が認められ、かつ、国民の宗教的関心もそれほど高くない。

⑨ 神社神道自体については、祭祀儀礼に専念し、他の宗教にみられる積極的な布教・伝道のような対外活動がほとんど行われることがないという特色がある。

・事実の評価

 ①・②・③より関与の程度はゼロではない(関係についてクリアできるか微妙)。

 ⑦の背景事情と④の事情に照らせば、一般人は今回の起工式を世俗的行事と評価している。

 ⑤より建築主・市長などの関係者の目的は世俗的であった(目的の点クリア)。

 ⑧の状況と⑨の性格を考慮すれば、本件起工式によって、参列者と一般人の宗教的関心を特に高めることとなるものとは考えられないので、これにより神道を援助、助長、促進するような効果をもたらすことになるものとも認められない(効果の点クリア)。

 

 ということで、津地鎮祭のケースでは謝礼の支払等の公金支出が政教分離に反しない旨判断した。

 ちなみに、津地鎮祭訴訟で争われた公金支出の額は約8000円である。

 過去問の支出額が「100万円」であることとの比較になるだろう。

 

 他方、愛媛玉ぐし料訴訟の方はどうか。

 同じように分析してみる。

 

・愛媛玉ぐし料訴訟のケース

・判決事実関係

① 被上告人らは、宗教法人(宗教団体)に当たる神社らの境内で行った恒例の宗教上の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際して、玉串料、献灯料又は供物料(香典や賽銭としてではない)を奉納するため、何度か県の公金から支出した(支出の総額は約17万円)

② 今回の支出は戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としていた

③ 奉納者(県の関係者)らの意図も社会的儀式に参加するレベルではない

④ 県は今回支出した神社以外の同種の(戦死者)慰霊の儀式に対して公金を支出していない

 ・社会的事実関係

⑤ 神社神道においては、祭祀を行うことがその中心的な宗教上の活動であるとされていること、例大祭及び慰霊大祭は、神道の祭式にのっとって行われる儀式を中心とする祭祀であり、各神社の挙行する恒例の祭祀中でも重要な意義を有するものと位置付けられていること、みたま祭は、同様の儀式を行う祭祀であり、D神社の祭祀中最も盛大な規模で行われるものである

⑥ 玉串料及び供物料は、例大祭又は慰霊大祭において右のような宗教上の儀式が執り
行われるに際して神前に供えられるものであり、献灯料は、これによりみたま祭において境内に奉納者の名前を記した灯明が掲げられるものである。

⑦ ⑤を考慮すれば、⑤の儀式は各神社が宗教的意義を有すると考えている

⑧ 現代において、一般人は玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは言えない(地鎮祭の起工式とは事情が違う)。

 

・事実の評価

⑤から⑦の背景事情に①の事実を加えれば、県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持ったと言える。(関係の点はクリアできず)

⑧の背景事情に①と④の事情(特定の神社に対してのみ支出した)を加えて考慮すれば、一般人は「県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こす(効果の点はクリアできず)

②と③と④の事情があれば、目的が世俗的なものとは言えない。(目的の点はクリアできず)

 

ということで、愛媛玉ぐし料訴訟では玉ぐし料等の支出(公金支出)を正当化せず、違憲と判断した。

 

 もちろん、津地鎮祭訴訟・愛媛玉ぐし料訴訟のいずれにも反対意見(多数意見の結論とは反対の結論のもの)が付されている。

 最高裁多数意見はこのように判断したものの、別の評価もありうる、ということである。

 

 前提知識の説明が長くなってしまった。

 しかし、以上が今回の過去問を解くために踏まえるべき知識である。

 以上を前提に、次回から過去問を見てみよう。

司法試験の過去問を見直す2 その1

1 今、司法試験の過去問を改めて見直す

 少し前、旧司法試験・論文試験の過去問を見て思ったことを備忘録としてブログに書いた。

 ブログで文章を書いているうちに、「憲法の過去問を今改めて見直すこと」で何かが見えてくるような気がした。

 そこで、「司法試験の過去問を見直す」というテーマでいくつか過去問を見直してみる。

 

 対象は旧司法試験・論文試験・憲法第1問の過去問だけにする。

 つまり、科目を憲法・分野を人権に限定する。

 また、期間は平成元年度から平成20年度までとする。

 20年分もあれば十分だと思うからである。

 

 それから、別に全部見ることは目標にしない。

 気になったテーマだけを見る。

2 20年間の憲法・第1問のテーマ

 先に、平成元年度から平成20年度までのテーマを確認する。

 なお、これは私が思ったテーマであり、司法試験委員会が考えたテーマと完全に一致するわけではない(ある程度は似通うであろうが)ことは確認しておく。

 

平成元年度 法人と外国人の人権共有主体性

平成2年度 公権力及び私企業に対する平等権の適用範囲

平成3年度 表現の自由に対する内容中立規制

平成4年度 市の神社に対する便宜提供と政教分離

平成5年度 知事の多選禁止と憲法上の権利の関係

平成6年度 土地収用による財産権の補償

平成7年度 放送法による公平要求・中立性要求と表現の自由と知る権利

平成8年度 敵意ある聴衆を原因とする集会の自由の制限の当否

平成9年度 外国人の公務就任権

平成10年度 学校の宗教的中立性(政教分離)と宗教に関する発表の自由

平成11年度 在監者(既決)の発表の自由とその限界

平成12年度 幼稚園設置の自由とその限界

平成13年度 団体の性質と団体の政治献金の限界

平成14年度 図書館で本を閲覧する自由とその自由の限界

平成15年度 男女間の取り扱いの差異と平等原則

平成16年度 日本版ミーガン法プライバシー権・知る権利

平成17年度 営業の自由・飲酒の自由とそれらの自由の限界

平成18年度 放送におけるコマーシャルの自由と時間による制限の可否

平成19年度 外国人の公務就任権

平成20年度 町内会における寄付金の決定と町民の思想良心の自由

 

 今改めて20問を並べてみたが、こう見ると頻出テーマとかあるのだなあ。

 試験勉強当時は、「予備校から得ていた情報」から重要部分・頻出部分等を把握し、その情報をうのみにしていたが、過去問や判例を見ればそういうのは見えるようだ(予備校だって過去問を見ながら重要度を決めているのだから、そうなるのは当然である)。

 

 一番目は表現の自由の内容中立規制(平成3年度)について書いた。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 二番目は政教分離が争点となった(平成4年度)についてみてみたい。

 なお、メモの順番は、①問題の確認、②判例等による前提の確認、③答案の流れ、④改めて今思うことの順番になるが、②の内容がそこそこあるので前回同様何回かに分ける。

 

3 旧司法試験・論文試験・平成4年度・憲法第1問

 過去問の具体的な問題文はこちらである。

 なお、過去問の表記元は私が試験勉強でお世話になった『試験対策講座5_憲法_第2版』(伊藤真著・弘文堂・1999)から持ってきた。

 

(以下、過去問の内容)

 A市は、市営汚水処理場建設について地元住民の理解を得るために、建設予定区にあって、四季の祭りを通じて鎮守様として親しまれ、地元住民多数が氏子になっている神社(宗教法人)境内の社殿に通じる未舗装の参道を2倍に拡張して舗装し、工事費用として100万円を支出した。なお、この神社の社殿に隣接する社務所は、平素から地元住民の集会場としても使用されていた。A市の右の措置について、憲法上の問題点を挙げて論ぜよ。 

(問題文終了)

 

「A市の公金支出が政教分離原則に反しないか」ということを直球で問われている。

 とはいえ、「政教分離原則に反しないか」と書いて、いきなり「政教分離原則」に飛びついてはならない。

 それでは、論点主義の答案になってしまう。

 

 憲法において、政教分離について定めた規定は次の3つである。

 

憲法20条1項後段

 いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

憲法20条3項

 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

憲法89条前段

 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維
持のため、(中略)これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 

 また、この件を見るうえで参考になる判例として次の2つの判例がある。

 

地鎮祭訴訟

昭和46年(行ツ)69号・行政処分取消等・昭和52年7月13日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/189/054189_hanrei.pdf

 

愛媛玉串訴訟

平成4(行ツ)156号・損害賠償代位事件・平成9年4月2日最高裁大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/777/054777_hanrei.pdf

 

 

 過去問の事実関係を単純化して書くと、「A市は(宗教法人の所有する)神社の参道の舗装費用としてA市の財産から100万円を支出した」となる。

 つまり、これを憲法89条前段を見ながら評価を加えると、A市の財産という「公の財産」が神社の舗装という「宗教上の団体」の「使用、便益(中略)のため」に「支出」されたことになり、ストレートに読めば89条前段にバッティングしてしまう。

 それゆえ、ストレートに読めば憲法違反になってしまう。

 現に、園部裁判官(学者出身の最高裁裁判官)は意見(「結論賛成、ただし、理由は多数意見と異なる」という趣旨の裁判官固有の意見のこと)として、次のようなことを述べている。

 

(以下、園部裁判官の意見の部分を引用、なお、一部私による補足説明が入る)

 私は、右のこと(私の注、本件公金支出の相手方は通常の宗教法人であり、宗教施設であること)を前提とした上で、本件におりる公金の支出は、公金の支出の憲法上の制限を定める憲法八九条の規定に違反するものであり、この一点において、違憲と判断すべきものと考える(私の注、だから、政教分離について考慮する必要はない)。 

(引用終了)

 

 だから、ここで書いたストレートに解釈は突飛すぎる解釈ではない。

 しかし、多数意見(判例)はそう考えなかった。

 現実問題として、「一切例外を認めない」というのは無理があるだろう。

 以下、最高裁が「宗教団体に対する公金支出の政教分離による限界」についてどのように考えているか説明する。

 ただ、その前に「そもそも政教分離とは何か」について確認する。

  

4 政教分離原則とは

 そもそも政教分離とは何か。

 それは、「政治と宗教の分離」である。

 

 政教分離は歴史的経緯から生まれたものである。

 世界史を学んだ人なら知っているだろうが、マルティン・ルターなどによる宗教改革後、ヨーロッパではカトリックプロテスタントピューリタンユグノー)とが血みどろの争いを繰り広げることになった。

 例えば、ドイツでは30年戦争があったし、フランスではユグノー戦争があった。

 それらの戦争の結果、ヨーロッパはガタガタになってしまった。

 人々がその状況に(宗教弾圧と宗教弾圧を原因とする戦争等による疲弊)懲りてできたものが「政教分離」である。

 

 さて、政教分離は「政治と宗教の分離」と述べた。

 堅い言葉を使うと次のとおりになる。

 

① 国家(政府・権力)の非宗教性

② 国家(政治権力)の宗教(団体)に対する中立性

 

 この点、政教分離が歴史的経緯を受けてできたものから、その態様は各国によって異なる。

 例えば、イギリスは立憲君主国でありイギリス国教会があるので、①の部分は徹底していない。

 ただ、徹底していないからいけないわけではない。

「懲りた事態を発生させなければ目的は達成できる」ので、あとはどうフォローするのか、という問題になるだけである。

 

 なお、最高裁判所は日本の固有の事情も踏まえて政教分離について次のように述べている。

 

(以下、上記最高裁判例から引用、長いので重要な部分を私の手で強調した)

 一般に、政教分離原則とは、国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味すものとされているところ、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によって異なるものがある。我が国では、大日本帝国憲法に信教の自由を保障する規定(二八条)を設けていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という同条自体の制限を伴っていたばかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた等のこともあって、同憲法の下における信教の自由の保障は不完全なものであることを免れなかった。憲法は、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き右のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至ったのである。元来、我が国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであって、このような宗教事情の下で信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結び付きをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であった。これらの点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるに当たり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである。

(引用終了)

 

 なお、政教分離のリーディングケースにおける津地鎮祭事件では憲法制定経緯も踏まえて細かめに書いている。

 今改めてこの部分を読み直したが、すげーな。

 これを言ったのは最高裁判所である。

 どこぞの左翼の憲法学者ではない。

 それが原則論の部分であるとはいえ、「憲法は、政教分離規定を設けるに当たり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである。」なんて言っているんだ。

 さすがに、ここまでは言っていたとは知らなかったわ。

 

 もちろん、原則(理想)は原則であり、理想でしかない。

 当然、現実という修正・例外が入る。

 そして、「例外・修正をどこまで許すか、どういう論拠で許すのか」が問題になる。

 もちろん、「修正が必要だからと言っても、どんな例外をも許される」とはならない。

 前回述べた通り、「表現の自由は無制限ではない」のは当然として、逆に「『公共の福祉』の名のもと、現実的な必要性が認められればいかなる表現の自由に対する制約も許される。」わけではないと同様である。

 

 それについては文章量が多くなってしまったので、次回。

十七条憲法を見る

0、十七条憲法を見る

 約1400年前、推古帝の時代、所謂厩戸皇子聖徳太子)によって十七条憲法が作られた、とされている。

 

ja.wikipedia.org

 

 この「十七条憲法」において「憲法」という言葉が使われている。

 しかし、この十七条憲法立憲主義に基づく憲法ではない。

 そのため、「十七条憲法明治憲法日本国憲法を同じ性質のものとして考える」ことはやめた方がいいだろう。

「この人は立憲主義を理解していない」と言われても抗弁できない。

 

 さて、十七条憲法を見て「あれ?」と思ったことがあった。

 そこで、「あれ?」と思ったことなどをメモとしてブログに残しておく。

 まあ、私が思ったことくらい、誰かが既に思いついているだろうが。

 

1 十七条憲法の第1条・第2条・第3条

 上にリンクを貼ったウィキペディアから「十七条憲法」の第1条から第3条を引っ張ってみる。

 

(以下、書き下し文のところを引用)

一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の極宗なり。何れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉(ま)がるを直さん。
三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。ここをもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下靡(なび)く。故に詔を承りては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。

(引用終了)

 

 第1条が非常に有名な「和を以て(以下略)」という規定である。

 そして、第2条が仏教へのリスペクトを、第3条が天皇の命令に対する服従を規定している。

 第4条以下は省略。

 

 せっかくなので、「私釈三国志」の作者になったつもりで意訳してみよう。

 

(以下、「私釈三国志」風意訳)

第1条

 和を尊重しろ、そして、逆らうな。

 何かにつけて人はつるむし、賢人は少ない。

 さらに、人によって意見はバラバラだ。

 でも、身分を問わず和を尊重して熟議を重ねれば、その結果はスゲーものになって、何事も達成できる。

第2条

 三宝、つまり、仏と仏法と僧侶をリスペクトしろ。

 仏教はどの時代、どんな人も尊ばれる素晴らしい教えである。

 世の中、本当に悪い奴などなかなかいねーから、大概の悪人は教えることでなんとかなる。

 でも、仏教がなければ、何を教えりゃいいんだ。

第3条

 帝の詔に対しては頭を下げて従え。

 譬えれば、帝は天で家臣は大地だ。

 だから、帝を上に、家臣を下にすることで、物事万事うまくいく。

 逆に、家臣が帝になり替わろうとしたら天地がひっくり返って破滅するだけだ。

 だから、(破滅しないためにも)帝の言動に家臣は従うべきなのだ。

 良いな、帝の詔に対しては黙って従え。

 従わないなら、、、分かっているな。

(意訳終了)

 

 頑張って訳してみたが、なかなか難しいな。

 はっちゃけにくい、というか。

 まあ、いいや。

 

2 十七条憲法の条項の順番

 十七条憲法は役人の心構えを書いたものである。

 現代に置き換えれば、「訓示」みたいなものである。

 そして、一条に「和と話し合いの尊重」、二条に「仏教の尊重」、三条に「帝の命令に対する服従」を掲げている。

 

 こういう文章において「大事なことは先に書く」。

 あるいは、「総論が先で、各論が後になる」ともいう。

 

 例えば、今から約35年前の1986年、内閣安全保障室が作られたときになされた「後藤田五訓」と呼ばれる超有名な訓示があるが、その最も大事な条項は第1条の「省益を忘れ、国益を想え」である。

(詳細は次の書籍参照)

 

 

 その視点で十七条憲法を見直してみよう。

 第1条は「和の尊重・熟議の尊重」、第2条は「仏教の尊重」、そして、第3条に「詔に対する服従」が来る。

 つまり、最も大事なことは「和の尊重・熟議の尊重」ということになる。

 

 この時期、朝廷は推古帝を主君に戴いていた。

 その帝の命令に対する服従は条項の三番目に規定されている。

 さらに言えば、二番目に書かれた仏教尊重にも劣後している。

 これはどういうことなのだろう。

 

 順番を間違えたとは考えづらい。

 十七条憲法が思い付きで作られたとは思えないからだ。

 

 では、当然すぎて順番が逆になったのだろうか。

 ただ、それも微妙である。

 当時、中国では統一王朝の隋ができた。

 また、朝鮮半島に築いていた権益も失った。

 そのため、朝廷の立て直しが必要とされていた。

 そんな状況で考えた場合、当然すぎて重要性の判断がずれるとは言い難い。

 

 とすれば、起草者の意図はこの順番のとおりだった、ということになる。

 つまり、「一番大事なのは和であり熟議」ということになる。

 このことは十七条で再び議論の重要性を挙げていることからも裏付けられる。

 

 当時、帝の詔も大事だが、和はもっと大事だと考えられていたのか?

 条文の並びを見て、そんな感想を抱いた。

 

3 十七条憲法の背景にあるものと日本国憲法(と明治憲法

 ところで。

 上で、十七条憲法というのは近代主義における憲法ではないから、「十七条憲法日本国憲法明治憲法を同列に論じるのはやめた方が良い」と書いた。

 しかし、日本における国家の基本法に相当する法規で「憲法」という言葉を用いているのはこの3つである(例えば、江戸時代の統制法令は「武家諸法度」・「禁中並公家諸法度」など「法度」だし、室町時代鎌倉時代は「式目」である)。

 そう考えると、十七条憲法の第一条は日本教(日本人が大事だと思っているものの総称)の考えを示しているのかもしれない。

 

 そして、この「議論(話し合い)が大事」という発想が日本の根底に流れていたので、「五か条の御誓文」の第一条に「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と書くことができた。

(何も背景なく、ただ、ヨーロッパの議会政治を見ただけで第一条に議論の重要を掲げるとはやや考えづらい)

 そして、それがために、民主主義が日本から排除されなかったのではないかと勝手に考えている。

 

 あと、「和を大事せよ」というのは「争うな」ということで平和主義にも通じる。

 いささか我田引水に過ぎる感じがしないでもないし、かなり適当なことを書くが、この部分は日本国憲法9条の背景になった点があるのかもしれない(日本の伝統思想と平和主義の類似性については別の機会に書く)。

 

 十七条憲法を見て、こんなことを思った。

 思ったことを忘れぬためにメモとしてブログに残す。

 

 ちなみに、この文章のカテゴリを「憲法」に入れたのは、十七条憲法が近代憲法の体裁をなしていない(当然だ)ものの、日本で近代憲法を定着させるために一定の役割を果たしたのではないか、今でも日本国憲法の規定(の一部)を支える背景になっているのではないかと考えたためのものである。