今日はこのシリーズの続き。
『昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。
9 第6章を読む_前半
第6章のタイトルは、「三代目_『守成の明君』の養成」。
第5章では、太平洋戦争の敗戦直後、マッカーサーとの単独会見に臨む昭和天皇についてみてきた。
また、昭和天皇の反面教師としてヴィルヘルム二世がいたことも。
本章では、マッカーサーとの単独会見に臨む昭和天皇が受けた教育についてさらに見ていく。
この点、第2章から第4章までで昭和天皇の教師についてみてきた。
これらの教師たちは、昭和天皇(当時、祐仁親王)を「憲政の王道を歩む守成の明君」に育てようと考えていた点で共通する。
少なくても、「覇王的な乱世の独裁君主」にしようとしなかったことは間違いない。
このことは、教師たちが明治維新を潜り抜けてきた猛者たちであったことを考慮すれば当然であろう。
明治維新は教師たちの同僚の血を代価に達成したものであり、彼ら教師たちは二度と体験したくなかっただろうから。
その結果、「あの苦しみを二度と体験しないためにもその成果を確実に守れ」ということになり、その意味で「守成」となる。
この点、『貞観政要』には「創業と守成といずれが難き」という言葉がある。
そして、魏徴が答えているように、守成の方が創業よりも難しい。
また、杉浦博士の『倫理御進講草案』の目次を見ると、講義で『貞観政要』が採り上げられていることがわかる。
さらに、ロシア帝国のピョートル大帝のところで上の『貞観政要』の問いと答えを全部引用している。
加えて、「憲政の王道を歩む守成の明君」のイメージは『倫理御進講草案』を全編を貫いている。
このことからも、昭和天皇の教育者の意図は明らかだろう。
なお、杉浦博士の教育の他に昭和天皇が教育を受けた時代も見る必要がある。
学習院初等科への御入学が明治41年、東宮御学問所で教育を受けたのが大正3年から7年間。
そして、イギリスに御外遊され、イギリス国王ジョージ五世とイギリスの憲政に深い感銘を受ける。
そのあとは、摂政宮として政務を担当されている。
この時代は大正時代。
議会制度も軌道に乗り出し、「憲政の常道」として議会の多数党の党首に大命が降下する時代が見えるようになった。
昭和天皇の教育者たちはやっとその成果を守り、将来の発展を目指せる時代が来たと感じたであろう。
この点、戦後を民主主義の始まりではなく大正デモクラシーの再生とみるなら、戦後こそ昭和天皇への教育と昭和天皇の自己規定が生かされた時代ともいえよう。
ところで、杉浦博士の『倫理御進講草案』では外国の皇帝が三人登場する。
ドイツ皇帝のヴィルヘルム二世、フランスのナポレオン一世とロシア皇帝のピョートル大帝である。
本書では、杉浦博士の三人に対する論評が紹介されている。
ただ、ヴィルヘルム二世については前章で述べたので、ここからは残りの2名についてみていく。
まずは、ナポレオンから。
杉浦博士はナポレオンを説明をワーテルローの戦いから話を始める。
そして、ナポレオンの偉大さを事実を列挙して説明する。
その要旨は次のとおりである。
(以下、本書に記載された杉浦博士によるナポレオン評の要旨、原文を引用していないため注意すること)
・685回の戦いのうち、負けたのは5つもない
・読破した蔵書は2700冊
・睡眠時間は2、3時間しかとらない勤勉努力の人
(引用終了)
さらに、セントヘレナに追放されたナポレオンに会った人や当時のロシア皇帝アレクサンドルが「ナポレオンは生まれながらの王者であった」と述べている。
以上の特徴を述べてから、「ナポレオンは超人的能力を活用して立身したが、濫用して敗北した。」というローズベリー卿の結論を紹介した上で、「ナポレオンに徳を守るところがあれば、ナポレオンは真に王者の中の王者となれたであろう。残念である」と結論付けている。
このように、杉浦博士は「『徳を以って守る』という『王道的守成』できなかったためナポレオンは破滅した」と述べている。
その意味で、昭和天皇から見れば、ナポレオンはある面教師であり、ある面反面教師だっただろう。
ちなみに、天皇がヨーロッパに旅行された1921年、ナポレオン没100周年ということで「ナポレオン100年祭」として一種のブームとなっていた。
昭和天皇は死後100年経過しても国を挙げて記念されていることに、深く感銘を抱いたらしい。
また、昭和天皇の書斎にはリンカーン、ダーウィン、ナポレオンの胸像が置かれていたと言われている。
もっとも、杉浦博士は、ピョートル大帝がスウェーデンからサンクト・ペテルブルクを奪取した事実には少ししか触れていない。
杉浦博士が言及した点は、ロシアがヨーロッパの技術をどのように導入したか、あるいは、ヨーロッパの技術を導入するためにロシアがいかに労苦を惜しまなかったか、という2点である。
以下、本書では杉浦博士のその部分が引用されているが、その要旨をここにまとめておく。
(本書で書かれているピョートル大帝に関する言及の要旨、本文そのものではないため注意すること)
ピョートル大帝は、ドイツから当時大海軍国だったオランダに入った。
オランダにおいて、ピョートル大帝は一職人として工作機械などを手に取り、労働を行うとともに、火の準備や食事の調理を行った。
それだけではなく、ピョートル大帝はアムステルダムにおいて解剖学や博物学の講義を聴き、その他様々な技術を学んだ。
オランダの次にはイギリスへ行ったが、ここでも造船技術の研究を継続した。
それだけではなく、天文学を学び、数学者をロシアに招へいしようとした。
(以下、要旨終了)
杉浦博士はこのピョートル大帝の熱心な行為と明治維新とを重ね合わせているように見える。
もっとも、ロシア帝国は第一次世界大戦で共産主義革命が勃発して崩壊する。
この点について、杉浦博士は次のように述べ、「守成」の難しさへと説明を続ける。
(本書で書かれているロシア帝国に関する言及の要旨、本文そのものではないため注意すること)
ピョートル大帝に欠点はなかったとは言わないが、国家のために心魂を傾け、身を労し、千辛万苦を辞さなかった。
その結果、ロシア帝国の面目を一新させたことを考えれば、ピョートル大帝は大帝の名に値するものである。
ところで、ロシア帝国は敗戦ではなく共産主義革命によって崩壊した。
これは、国民の協同一致の精神の欠如、孟子の言葉を借りれば「人の和」の欠如にある。
人の和がなければ、国家面積も国家人口も意味をなさない。
(以下、要旨終了)
では、どのように人の和を得ればいいのか。
杉浦博士はロシアを引き合いにして次のように述べる。
(本書で書かれている人の和を得るに関する言及の要旨、本文そのものではないため注意すること)
人の和を得る道は多岐にわたるが、要旨にしてまとめれば、「政治を行う者は、民を大事にして幸せにすること」、「庶民は、政治を行う者に敬意を払い、しっかり従うこと」にある。
この結果、上下間はリンクし、「人の和」を維持できる。
しかるに、ロシア帝国は、内政も教育もぐちゃぐちゃで庶民は教育されずに抑圧され、貴族が跋扈して堕落する。
これに、凶作が追い打ちをかけて、今の崩壊につながってしまった。
(以下、要旨終了)
そして、杉浦博士は『貞観政要』における創業と守成に関する問答を説明する。
この部分を私釈三国志風に意訳すれば、次のようになるだろうか。
(以下、「創業」と「守成」に関する問答の私釈三国志風意訳、意訳なので注意)
太宗「創業と守成はどっちが難しいだろうか」
宰相房玄齢「創業時は乱世、ライバルを片っ端から蹴散らして屈服させていく必要がある。この点から見れば、創業の方が難しい」
諫議大夫魏徴「創業時には、前王朝の失政による衰退・混乱がある。これを滅ぼすのだから、人々はこれを支持し、天下は定まります。これぞ孟子の『天授け人与う』であり、それほど困難ではない。一方、それを得てしまうと驕り・慢心が生じる。その結果、平和と安静を望む人々に課役を加え、結果、人々を疲弊困憊させてしまう。また、支配者は無駄でぜいたくな仕事は休止せず、人々はさらに疲弊困憊してしまう。国の衰亡はここから始まる。このように考えると、守成の方が難しい」
(意訳終了)
昭和天皇は無駄も贅沢も欲しなかった。
しかし、軍部と国民は「軍備」という贅沢を欲していた。
杉浦は創業・守成について次のように結論付ける。
(以下、杉浦博士の結論要旨、要旨であって本文でない点に注意)
創業も守成もいずれも困難である。
また、秀吉も家康も創業の点で偉大であった。
しかし、豊臣は二代で滅んでしまった一方、徳川は三百年の間これを維持した。
この差は「守成」にあるので、後世の人々はよく学ばなければならない。
(要旨終了)
結局、杉浦博士は秀吉やピョートル大帝という偉大な創業者がいたのに、守成の人がいなかったので、ロシア帝国も豊臣政権も崩壊した旨述べている。
以上、杉浦博士の外国の皇帝の紹介についてみてきた。
以下、「守成」のために参考にしたものへと話が続くわけだが、きりがいいので、今回はこの辺で。