薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『昭和天皇の研究』を読む 9

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

9 第6章を読む_前半

 第6章のタイトルは、「三代目_『守成の明君』の養成」

 第5章では、太平洋戦争の敗戦直後、マッカーサーとの単独会見に臨む昭和天皇についてみてきた。

 また、昭和天皇の反面教師としてヴィルヘルム二世がいたことも。

 本章では、マッカーサーとの単独会見に臨む昭和天皇が受けた教育についてさらに見ていく。

 

 

 この点、第2章から第4章までで昭和天皇の教師についてみてきた。

 これらの教師たちは、昭和天皇(当時、祐仁親王)を「憲政の王道を歩む守成の明君」に育てようと考えていた点で共通する。

 少なくても、「覇王的な乱世の独裁君主」にしようとしなかったことは間違いない。

 

 このことは、教師たちが明治維新を潜り抜けてきた猛者たちであったことを考慮すれば当然であろう。

 明治維新は教師たちの同僚の血を代価に達成したものであり、彼ら教師たちは二度と体験したくなかっただろうから。

 その結果、「あの苦しみを二度と体験しないためにもその成果を確実に守れ」ということになり、その意味で「守成」となる。

 

 この点、『貞観政要』には「創業と守成といずれが難き」という言葉がある。

 そして、魏徴が答えているように、守成の方が創業よりも難しい。

 また、杉浦博士の『倫理御進講草案』の目次を見ると、講義で『貞観政要』が採り上げられていることがわかる。

 さらに、ロシア帝国ピョートル大帝のところで上の『貞観政要』の問いと答えを全部引用している。

 加えて、「憲政の王道を歩む守成の明君」のイメージは『倫理御進講草案』を全編を貫いている。

 このことからも、昭和天皇の教育者の意図は明らかだろう。

 

 なお、杉浦博士の教育の他に昭和天皇が教育を受けた時代も見る必要がある。

 学習院初等科への御入学が明治41年、東宮御学問所で教育を受けたのが大正3年から7年間。

 そして、イギリスに御外遊され、イギリス国王ジョージ五世とイギリスの憲政に深い感銘を受ける。

 そのあとは、摂政宮として政務を担当されている。

 

 この時代は大正時代。

 議会制度も軌道に乗り出し、「憲政の常道」として議会の多数党の党首に大命が降下する時代が見えるようになった。

 昭和天皇の教育者たちはやっとその成果を守り、将来の発展を目指せる時代が来たと感じたであろう。

 この点、戦後を民主主義の始まりではなく大正デモクラシーの再生とみるなら、戦後こそ昭和天皇への教育と昭和天皇の自己規定が生かされた時代ともいえよう。

 

 ところで、杉浦博士の『倫理御進講草案』では外国の皇帝が三人登場する

 ドイツ皇帝のヴィルヘルム二世、フランスのナポレオン一世とロシア皇帝ピョートル大帝である。

 本書では、杉浦博士の三人に対する論評が紹介されている。

 ただ、ヴィルヘルム二世については前章で述べたので、ここからは残りの2名についてみていく。

 

 まずは、ナポレオンから。

 杉浦博士はナポレオンを説明をワーテルローの戦いから話を始める。

 そして、ナポレオンの偉大さを事実を列挙して説明する。

 その要旨は次のとおりである。

 

(以下、本書に記載された杉浦博士によるナポレオン評の要旨、原文を引用していないため注意すること)

・685回の戦いのうち、負けたのは5つもない

・読破した蔵書は2700冊

・睡眠時間は2、3時間しかとらない勤勉努力の人

ナポレオン法典民法典)を編纂させた偉大な治者

(引用終了)

 

 さらに、セントヘレナに追放されたナポレオンに会った人や当時のロシア皇帝アレクサンドルが「ナポレオンは生まれながらの王者であった」と述べている。

 以上の特徴を述べてから、「ナポレオンは超人的能力を活用して立身したが、濫用して敗北した。」というローズベリー卿の結論を紹介した上で、「ナポレオンに徳を守るところがあれば、ナポレオンは真に王者の中の王者となれたであろう。残念である」と結論付けている。

 このように、杉浦博士は「『徳を以って守る』という『王道的守成』できなかったためナポレオンは破滅した」と述べている。

 その意味で、昭和天皇から見れば、ナポレオンはある面教師であり、ある面反面教師だっただろう。

 

 ちなみに、天皇がヨーロッパに旅行された1921年、ナポレオン没100周年ということで「ナポレオン100年祭」として一種のブームとなっていた。

 昭和天皇は死後100年経過しても国を挙げて記念されていることに、深く感銘を抱いたらしい。

 

 また、昭和天皇の書斎にはリンカーンダーウィン、ナポレオンの胸像が置かれていたと言われている。

 

 

 一方、杉浦博士はロシア帝国ピョートル大帝を称賛している。

 もっとも、杉浦博士は、ピョートル大帝スウェーデンからサンクト・ペテルブルクを奪取した事実には少ししか触れていない。

 杉浦博士が言及した点は、ロシアがヨーロッパの技術をどのように導入したか、あるいは、ヨーロッパの技術を導入するためにロシアがいかに労苦を惜しまなかったか、という2点である。

 以下、本書では杉浦博士のその部分が引用されているが、その要旨をここにまとめておく。

 

(本書で書かれているピョートル大帝に関する言及の要旨、本文そのものではないため注意すること

 ピョートル大帝は、ドイツから当時大海軍国だったオランダに入った。

 オランダにおいて、ピョートル大帝は一職人として工作機械などを手に取り、労働を行うとともに、火の準備や食事の調理を行った。

 それだけではなく、ピョートル大帝アムステルダムにおいて解剖学や博物学の講義を聴き、その他様々な技術を学んだ。

 オランダの次にはイギリスへ行ったが、ここでも造船技術の研究を継続した。

 それだけではなく、天文学を学び、数学者をロシアに招へいしようとした。 

(以下、要旨終了)

 

 杉浦博士はこのピョートル大帝の熱心な行為と明治維新とを重ね合わせているように見える。

 

 もっとも、ロシア帝国第一次世界大戦共産主義革命が勃発して崩壊する。

 この点について、杉浦博士は次のように述べ、「守成」の難しさへと説明を続ける。

 

(本書で書かれているロシア帝国に関する言及の要旨、本文そのものではないため注意すること

 ピョートル大帝に欠点はなかったとは言わないが、国家のために心魂を傾け、身を労し、千辛万苦を辞さなかった。

 その結果、ロシア帝国の面目を一新させたことを考えれば、ピョートル大帝は大帝の名に値するものである。

 ところで、ロシア帝国は敗戦ではなく共産主義革命によって崩壊した。

 これは、国民の協同一致の精神の欠如孟子の言葉を借りれば「人の和」の欠如にある。

 人の和がなければ、国家面積も国家人口も意味をなさない。

(以下、要旨終了)

 

 では、どのように人の和を得ればいいのか。

 杉浦博士はロシアを引き合いにして次のように述べる。

 

(本書で書かれている人の和を得るに関する言及の要旨、本文そのものではないため注意すること

 人の和を得る道は多岐にわたるが、要旨にしてまとめれば、「政治を行う者は、民を大事にして幸せにすること」、「庶民は、政治を行う者に敬意を払い、しっかり従うこと」にある。

 この結果、上下間はリンクし、「人の和」を維持できる。

 しかるに、ロシア帝国は、内政も教育もぐちゃぐちゃで庶民は教育されずに抑圧され、貴族が跋扈して堕落する。

 これに、凶作が追い打ちをかけて、今の崩壊につながってしまった。

 つまり、ピョートル大帝の素晴らしい「創業」を継続し、「守成」する者がいなかったことがロシア帝国崩壊の原因である。

(以下、要旨終了)

 

 そして、杉浦博士は『貞観政要』における創業と守成に関する問答を説明する。

 この部分を私釈三国志風に意訳すれば、次のようになるだろうか。

 

(以下、「創業」と「守成」に関する問答の私釈三国志風意訳、意訳なので注意

太宗「創業と守成はどっちが難しいだろうか」

宰相房玄齢「創業時は乱世、ライバルを片っ端から蹴散らして屈服させていく必要がある。この点から見れば、創業の方が難しい」

諫議大夫魏徴「創業時には、前王朝の失政による衰退・混乱がある。これを滅ぼすのだから、人々はこれを支持し、天下は定まります。これぞ孟子の『天授け人与う』であり、それほど困難ではない。一方、それを得てしまうと驕り・慢心が生じる。その結果、平和と安静を望む人々に課役を加え、結果、人々を疲弊困憊させてしまう。また、支配者は無駄でぜいたくな仕事は休止せず、人々はさらに疲弊困憊してしまう。国の衰亡はここから始まる。このように考えると、守成の方が難しい」

(意訳終了)

 

 昭和天皇は無駄も贅沢も欲しなかった。

 しかし、軍部と国民は「軍備」という贅沢を欲していた。

 杉浦は創業・守成について次のように結論付ける。

 

(以下、杉浦博士の結論要旨、要旨であって本文でない点に注意)

 創業も守成もいずれも困難である。

 また、秀吉も家康も創業の点で偉大であった。

 しかし、豊臣は二代で滅んでしまった一方、徳川は三百年の間これを維持した。

 この差は「守成」にあるので、後世の人々はよく学ばなければならない

(要旨終了)

 

 結局、杉浦博士は秀吉やピョートル大帝という偉大な創業者がいたのに、守成の人がいなかったので、ロシア帝国も豊臣政権も崩壊した旨述べている。

 

 

 以上、杉浦博士の外国の皇帝の紹介についてみてきた。

 以下、「守成」のために参考にしたものへと話が続くわけだが、きりがいいので、今回はこの辺で。

『昭和天皇の研究』を読む 8

 今日はこのシリーズの続き。

 

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昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

8 第5章を読む_後半

 前回は、太平洋戦争の敗戦直後、マッカーサーとの単独会見に臨む昭和天皇についてみてきた。

 今回は、単独会見を実践した昭和天皇の背景についてみていく。

 

 

 では、昭和天皇は何に基づいてマッカーサーとの単独会見に臨むことができたのか。

 この点、基本の部分に五箇条の御誓文「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」があっただろうし、教育勅語があったと言えなくもない。

 しかし、これでは抽象的すぎて、「捕虜の長」との関連性が薄すぎる。

 

 本書では、杉浦博士の『倫理御進講草案』の「前ドイツ皇帝ウィルヘルム二世のこと」ではないか、と述べている。

 というのも、昭和天皇から見た場合、このヴィルヘルム二世はが反面教師として参考になったと考えられるところが少なくなかったからである。

 以下、本書を通じて『倫理御進講草案』に示されたヴィルヘルム二世についてみていくことにする。

 

 まず、『倫理御進講草案』を引用している本書によると、第一次世界大戦の原因となった中心的人物はドイツ皇帝のヴィルヘルム二世である」と述べる。

 そして、杉浦博士は明治・大正期の法学者たる穂積陳重から『世界戦乱に関して』という書籍を贈られたことから、この書籍を読んで感じたことを話す旨述べ、ヴィルヘルム二世について論評していく。

 この点、『世界戦乱に関して』は、オーストリアハンガリー二重帝国の外務大臣だったオトカル・フォン・チェルニン伯爵が書いたものである。

 

 また、穂積陳重がこの本を杉浦博士に贈呈した理由は明らかではない。

 敢えて推測すれば、杉浦博士にヴィルヘルム二世を「反面教師」として昭和天皇に講義してもらうため、ともいえるが。

 

 まず、本書は杉浦博士が要点として述べたヴィルヘルム二世の特徴を列挙する。

 以下、その要旨(原文は文語のため現代語訳にしたうえまとめてある)を箇条書きにしてまとめる。

 

(以下、本書にあるヴィルヘルム二世の特徴についての要旨、原文ではないため注意)

ヴィルヘルム二世の少年時代より成人に至るまで、常に欺かれていたことを念頭に置かないことはできない。

ヴィルヘルム二世の他に善意を有する王者はおらず、また、善良なる人物でもあった。彼はドイツのためにリソースを集中投下した。

・ヴィルヘルム二世は親近者だけではなく、全ドイツ国民によって誤るように誘導させられた。

・ヴィルヘルム二世は人情を見誤ることを常とす。

ヴィルヘルム二世の周囲の空気は、最も健全な植物でさえ枯死させる。なぜなら、彼の周囲はとにかく称賛する輩しかいなかったから。

(要旨終了)

 

 著者(山本七平)に言わせると、杉浦博士が述べているヴィルヘルム二世の印象は当時の(現在も、というべきか)印象とは全然違う、らしい。

 杉浦博士は以上のヴィルヘルム二世についての特徴を述べてから、自身の感想を述べる。

 

 まず、「ヴィルヘルム二世は決して暗愚ではなく、善良な人物であり、十分名君になりえた人物であったが、周囲の空気が著しく不健全だったため、国を誤り、身を誤った」というオトカル・フォン・チェルニン伯爵を主張を紹介する。

 そして、この意見を用いて、「君主は世の実情から離れていた王宮に起居している。よって、直言・諫言を聴くことを怠ってはならない」と直言・諫言を聴くことの重要性を述べる。

 さらに、「周りにチヤホヤされた君主が暗君となるケースに暇はない。夏や殷の最後の王たちはもちろん秦の始皇帝を継承した二世皇帝の胡亥もそうである」と直言・諫言を退けて自滅した暗君の例を列挙していく。

 そのうえで、「先々代(祖父)の初代ドイツ皇帝のヴィルヘルム一世は、ビスマルクモルトケを重用した。特に、ビスマルクはヴィルヘルム一世への諫言を躊躇しなかったが、それでも遠ざけなかった」と諫言を退けなかった初代ドイツ皇帝を持ち上げる。

 最後に、ロシア帝国ドイツ帝国が崩壊した際、それぞれのラスト・エンペラーに殉じた貴族・臣民はいなかった」と述べたうえ、「このようなことは歴史法則というべき普通のことながら、その結果は自業自得である」と説明する。

 

 

 このように、杉浦博士の『御進講』で述べられたヴィルヘルム二世と昭和天皇を比較すると、ある種対照的に見える面が少なくない。

 例えば、オランダに亡命したヴィルヘルム二世とマッカーサーの元に出頭して「自分を絞首刑にせよ」と述べた昭和天皇とか

 この点、昭和天皇は逃げることはなく在位し、太平洋戦争の約40年後に在位のまま崩御された。

 

 もちろん、昭和天皇が自分の退位を考えなかったわけではない。

 例えば、昭和23年12月24日の朝日新聞に掲載された記事によると、「昭和天皇の退位」について、昭和天皇「個人としてはそう考えることがあっても、公の立場がそれを許さない」とか「退くことも責任を果たす一つの方法と思うが、留まって国民と苦楽を共にすることの方がポツダム宣言の趣旨にかなう」旨のことを述べられた、らしい。

 

 

 ところで、著者によると、日本人の一部には「当時の占領下において、天皇は在位や退位を自由にできた」と考えている奇妙な人たちがいるという。

 しかし、それは違うと著者はいう。

 なぜなら、マッカーサーは占領にあたって日本人全部を捕虜にしたくらいのことを考えており、だからこそ、アメリカの下院にてアメリカは自国の予算を使って敵だった日本人を養うべきである」と述べているからである。

 

 もちろん、マッカーサーが捕虜の長たる昭和天皇を自由にできた。

 日本の占領統治に利用できるなら利用したし、利用できなければ退位させたであろう。

 事実、天皇の言質を取ったから退位させることは自由にできた。

 マッカーサーは、天皇」と天皇が述べた「自由にして構わない」という言葉の言質を利用して占領政策を有利に進めていったのだろう。

 

 一方で、昭和天皇も「自らが人質である」と自覚していただろう。

 さらに言えば、昭和天皇「自らが人質として留意することが日本に尽くすことだ」とも考えていたであろう。

 でなければ、「公人の立場として退位はできない」・「ポツダム宣言の趣旨」といった言葉は出てこないだろうから。

 このような面から見ても、昭和天皇とヴィルヘルム二世は対照的だったと考えることができそうである。

 

 

 以上が第5章のお話。

 次章では、第一次世界大戦以外の点からヴィルヘルム二世を反面教師として参考にした点をみていく。

『昭和天皇の研究』を読む 7

 今日はこのシリーズの続き。

 

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昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

7 第5章を読む_前半

 第5章のタイトルは、「『捕虜の長』としての天皇

 前回まで、「憲法遵守」という昭和天皇の自己規定を基礎づけた杉浦博士と白鳥博士についてみてきた。

 今回から、敗戦直後の昭和天皇の行為についてみていく。

 

 

 本書は、昭和天皇天皇家の神祇のまじめに実施されていたことから話が始まる。

 このことは、大宝律令において「天皇太政官神祇官の長であった」という伝統に基づく。

 なお、ここで見ておくべきことは、天皇は祀る側の人間であって、祀られる側の人間ではない、ということである。

 このことを、杉浦博士は「大宝令」という章で説明していた。

 

 この点、武家政権以前の天皇制と明治維新以降の天皇制は分断されていること、明治維新以降の天皇制が「五箇条の御誓文」に始まる(と昭和天皇の教師たちがみてきた)ことは、前章までで確認してきた通りである。

 このことは、五箇条の御誓文の前に明治天皇が示した「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」にも示されている。

 

ja.wikipedia.org

 

 ちなみに、「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」というのは明治元年3月14日に明治天皇が皇祖神に誓ったもので、「誓った」という点では「五箇条の御誓文」とも共通する。

 そのことを考慮すれば、いわゆる「人間宣言」の背後には、「五箇条の御誓文」のほかに「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」があると言える。

 

 なお、著者(山本七平氏)は、いくつかの書籍で「『天皇は現人神である』と述べてはないから、『天皇は人間である』と述べる必要はない」と述べており、ここでもその旨を述べている。

 この点も踏まえて、著者は「いわゆる『人間宣言』の背後にあるのは、『五箇条の御誓文』とそれに基づく『明治憲法』である」と述べている。

 

 ところで、本書では、いわゆる『人間宣言』は、マッカーサーとの単独会見がなされた直後に公布されている点に注意する必要があるという。

 というのも、当時のアメリカの世論などを見ればわかる通り、戦勝国における敗戦直後の昭和天皇に対する態度は極めて厳しいものであり、マッカーサーとの単独会見によって昭和天皇の身に何が起きるか、昭和天皇と同視されたヒトラームッソリーニ等の最期などを見れば、容易に想定できることだったからである。

 

 

 さて、昭和天皇は昭和20年9月27日、マッカーサーを訪問し、会談された

 この点、この会談の内容は明らかにされていない。

 というのも、マッカーサー昭和天皇は先だってここでの内容を外部に漏らさないという約束に基づいて実施されたからである。

 この点、マッカーサー(と昭和天皇)には会談の結果による戦勝国の世論への影響を考慮しており(アメリカもイギリスも民主主義国家である)、そのことの懸念もあったと考えられる。

 そして、昭和天皇は昭和52年8月23日の記者会見における質問において答えたように、この約束をまじめに履践した。

 

 もちろん、マッカーサーの方はある程度内容を漏らしているため、そこからこの会談の内容を察知することはできる。

 ただ、日本側にも会談の趣旨に関する藤田侍従長のメモがあり、そのメモから昭和天皇マッカーサーに述べたことが判明している。

 その内容の趣旨は次の3点(第1点と第2点を一括化すれば2点)である。

 

・戦争責任は全て私(昭和天皇)にあり、昭和天皇が任命した部下に戦争責任はない

・よって、私をいかように裁いていただいても差し支えない

・国民の生活を困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい

 

 日本側にはこれ以外に資料らしき資料はない。

 そこで、マッカーサーの記した『回想記』からこの3点の裏付けをとっていく。

 

 まず、『回想記』によると「会談時の昭和天皇は非常に憔悴して落ち着きがなかった」と述べている。

 当時の人々が昭和天皇の憔悴ぶりから見れば、これは事実であろうと著者は述べる。

 次に、マッカーサー側から見て、次の信頼できる趣旨の記載があったらしい。

 以下、その趣旨を箇条書きにして列挙する。

 

(以下、本書に書かれた『回想記』の内容の趣旨のまとめ、原文そのものではないため注意)

昭和天皇戦争犯罪者に含めるよう求める国にソ連と英国があったが、このようなことをすれば、日本に百万の将兵を駐留させた上で軍政を布かねばならないこと、アメリカは日本においてゲリラ戦が始まると(マッカーサーは)予想していた。

・結果的に、天皇を戦争リストから除外された。

・しかし、昭和天皇はこのような戦勝国間の思惑を知らなかった。

・(会談において)昭和天皇は自分がすべての責任を取ること、昭和天皇自身の、戦勝国の採決にゆだねる旨宣言した。

マッカーサーは大きな感動に揺さぶられるとともに、昭和天皇が日本の最上の紳士であることを感じ取った。

(趣旨のまとめ終了)

 

 両当事者には異なる部分もなくはないが、少なくても昭和天皇が自らが責任を取り、その処分を連合国に委ねた点においては間違いない。

 なお、マッカーサーの雑談の中には「『自分はどうなってもいいが、国民を食わせてやってくれ』いう趣旨のことを昭和天皇が述べている」というものがある。

 この点を考慮すれば、「国民に対する生活援助の要請」も相当の信頼性があると言えよう。

 

 なお、私見ではあるが、「マッカーサー昭和天皇に対する感想」に対して、「黒船を率いたマシュー・ペリー吉田松陰に対する感想」との共通性を感じないではない。

 しかし、この方向についてメモを進めていくと話が脱線するため、感想を述べるにとどめる。

 

 

 ところで、以上の昭和天皇の発言に対するマッカーサーの回答はない。

 マッカーサーの自己顕示欲を考慮すれば、『回想記』にその回答があってもよさそうなのに、である。

 回答のない理由は、昭和天皇の言葉が予想外だったというのもあるかもしれないが、もっと重要な理由に「この昭和天皇の言葉を外部に漏らさないようにしなければならない」ということもあったからであろう。

 確かに、この昭和天皇の言葉がアメリカのメディアに情報されれば、ソ連やイギリスは「天皇を処刑せよ」と言い出すだろうし、アメリカの世論も昭和天皇の処刑に傾きかねない。

 そうすれば、マッカーサーは収拾できない事態が生じると感じたのだろうから。

 

 ところで、昭和天皇からすれば、「自分が裁かれればそれでいい」という発想があったらしい

 そのことは、『木戸(幸一)日記』の終戦間もない時期に同様の趣旨があるからである。

 また、本書では、マッカーサーのリークとして半藤一利氏が記されているヴァイニング夫人の記述が紹介されている。

 そこには、「あなたが私をどのようにしようともかまわない。私はそれを受け入れる。私を絞首刑にしてもかまわない(You_may_hang_me)」とある。

 

 ところで、この昭和天皇の決意に際して助言した者はいなかったと考えられる

 なぜなら、昭和天皇に対して「マッカーサーのところへ行って、『自分を戦犯として自由にしてください』と言ってください」と言えた側近はいないだろうから。

 そして、会談はぶつけ本番であった。

 

 では、天皇には何かの計算があったのだろうか。

 おそらくなかったのではないかと考えられる。

 というのも、マッカーサーはこれに対して「骨のズイまでも揺り動か」されたと述べているからである。

 

 また、マッカーサーはこの昭和天皇の発言に対して、「よろしい、その通りにする」とも「断る。あなたを訴追しないが、国民の生活にも責任は持てない」とも言えなかったであろう。

 そのため、マッカーサーは感動をする一方で困惑もしたであろう

 まことに、「捨て身の相手は扱いに困る」というべきか。

 このような事情からも、マッカーサーの応答が記されていないのももっともなことと言える。

 

 

 話は、ここから昭和天皇がこのような会談に及んだ背景に進む。

 しかし、分量がそれなりになっていること、きりがいいことを考慮し、今回はこの辺で。

『昭和天皇の研究』を読む 6

 今日はこのシリーズの続き。

 

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昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

6 第4章を読む_後半

 前回、白鳥博士と明治時代の歴史学についてみてきた。

 今回は、白鳥博士の神話への態度、白鳥博士による昭和天皇への教育についてみていく。

 

 

 まず、白鳥博士の神話への態度から。

 

 白鳥博士には『皇道について』という未発表原稿にある。

 それによると、「中国に儒教、インドに仏教、ヨーロッパにキリスト教があるように、日本にも固有の宗教、つまり、天皇教と称すべきものがある」旨を述べる一方で、「神代史は『神々の時代の記述』であって、普通の歴史のようにとらえるのは間違いである。歴史ではなく古代日本人の信仰・信念と考えれば矛盾はない」旨述べている。

 本章によると、白鳥博士の考えはここから明らかである旨述べている。

 

 さらに、参考になるのが白鳥博士の『神代史の新研究』である。

 編者がことわっているように、これは講座の草稿である上に一部が欠落している。

 また、引用文献や他人の説の記載は正確であっても、白鳥博士自身の説はメモ程度であるとか、一切書かれていない場合もあるらしい。

 もちろん、「講義の準備のための資料」と考えれば、自分自身の説はメモ程度でも十分だった、ということなのであろうが。

 

 著者(山本七平氏)は、この書籍の「神代史に関する古来諸家の解釈」にある国学者の態度」「明治時代の合理的説明」について紹介されている。

 いずれも昭和にも大きな影響を与えたものである。

 

 まず、白鳥博士は国学について国学本居宣長によって絶頂を極めた」・「国学を神典に引き付けて説明するように努めた」とし、平田篤胤についてはそれほど評価していない。

 つまり、白鳥博士は「国学宣長の業績をもって終わった」と考えているようだ。

 

 では、「明治時代の合理的説明」についてどうみていたか。

 まず、白鳥博士は、「明治時代になって西洋の文物が輸入されたはいいが、言語の学問はなんら進歩せず、神代史の研究も徳川時代から別段進歩しなかった」と述べている。

 この部分は、明治時代当初のお雇い外国人から日本の歴史を質問された際、日本人が「日本には歴史などありません」と答えてお雇い外国人を驚かせていたことと整合性がありそうである。

 

 この点、明治時代の初期は、西欧の医学、機械工業、自然科学の導入に専念しても、歴史学言語学は軽視されていた。

 一方、「徳川時代のまま」というわけにもいかず、神代史の合理的解釈が試みられたところ、神話学を踏まえない解釈を採用したため、合理的解釈の結果は新井白石のものと大差なかったらしい。

 というのも、安直に合理的解釈を突き詰めれば、「神代史の神は人である。よって、神の時代の話である神話は、人の時代の歴史となる」となってしまうからである。

 

 当然だが、「物語に人が登場すること」は「神話・伝説ではなく歴史である」ことを意味しない。

 にもかかわらず、そのような解釈を強行すれば上のような結論になってしまう。

 いわば、「アダムとイブが人間だから、創世記は歴史書である」というようなものである。

 

 この点、白鳥博士がこの講義をされたのは昭和3年、皇国史観は登場していない。

 そのため、上の解釈から見れば、天照大神は後世の天皇陛下と考えることになり、その結果、天照大神は人間のように見られることになる。

 そして、この説を採用する者も少なくなかった。

 あるいは、天照大神を神と見れば天皇も現人神となってしまうことも。

 これは「神話学抜きで神代史を合理的解釈」を行ったためである。

 しかし、その後、「『神話は神話であって歴史ではない』と考える新しい意見が登場し、従前の合理的解釈が排斥された」ようである。

 ここでいう「新しい意見」とは津田博士の『神代史の研究』や『古事記日本書紀の研究』などで述べられた意見を指す。

 

 

 以上が白鳥博士の歴史観を見てきた。

 もっとも、昭和天皇の自己規定の観点から見た場合、「白鳥博士は自己の歴史観をそのまま講義をすることができたか」という点を考える必要がある。

 

 この点、乃木大将が学習院の院長となったとき、白鳥博士は「『神話は神話で、歴史的事実は歴史的事実である』旨教えること」についてある種の了解を求め、乃木大将は承知したらしい。

 もちろん、このことは「神話を無視した」ではなく、「神話を神話として教えた」ということは十分注意する必要があるとしても。

 

 

 では、昭和天皇はこの白鳥博士の教育にどのような反応をされたか。

 この点、新聞記者の質問に答えたとき、昭和天皇は「購入する本は『生物学と歴史』」と言っている旨以前に紹介した。

 この事実を考慮した場合、歴史に深い関心を持っている生物学者に「神代史を神話ではなく歴史(的事実)だ」という発想を身につけさせられるのか、という疑問が発生する。

 

 例えば、神武天皇の父母や神武天皇の出世にまつわる神話は神話としては大変面白い。

 しかし、生物学者が「この神話に記載されたものが『歴史的事実』である信じている」などと言えば、この生物学者の頭脳を疑われても抗弁できないだろう。

 このことを考慮すれば、昭和天皇は神話と歴史を分けて考えていること(このことは神話が無意味・無価値であることを意味しない)、その影響は白鳥博士によるものと推測できる

 

 さらに言えば、いわゆる「人間宣言」にある昭和天皇と国民との間にある紐帯は、相互の信頼と敬愛に基づく。神話や伝説によって生じるわけではない」という部分は昭和天皇の自己規定でもあったと言える。

 そのことが明確に出るのが、終戦の聖断ポツダム宣言受諾の時である。

 

 

 この点、昭和天皇東宮御学問所で学ばれているころ、第一次世界大戦終結した。

 このとき、ロシア帝国ロマノフ王朝は倒れ、オーストリアハンガリー二重帝国・オスマン帝国ドイツ帝国が降伏した。

 さらに、降伏とともにこれらの帝国の王朝は滅亡し、国王は退位・亡命、あるいは、虐殺という運命にあった。

 「無条件降伏をしてなお存続した王朝は存在しない」ということを昭和天皇は間違いなく知っていたと考えられる。

 

 例えば、日独伊三国同盟の際、「三国同盟によって対米戦争が回避できる」と述べた近衛文麿に対して、昭和天皇は対米開戦が必至となり、日本が敗戦国になることを憂慮されていた。

 そして、結果は歴史が教えるとおりである。

 

 さらに、昭和天皇は、太平洋戦争の敗戦時に第一次世界大戦で敗戦・降伏した帝国の末路を自分がたどることを覚悟していたであろう。

 というのも、ロシア正教の保護者」・「イスラム教のスルタン」等の宗教的権威はロシア帝国の皇帝やオスマン帝国の皇帝の助力にはならなかったからである。

 

 この点、ポツダム宣言の際、連合国は「日本政府の形態は、日本国民の自由意思により決定されるべき」という一文があった。

 そして、軍部は「連合国には天皇制廃止、共和制誘導の意志がある」と述べて強く反対した。

 しかし、昭和天皇は「連合国が統治を認めてくれても、人民が離反したらしょうがない」と述べて、ポツダム宣言を受諾する旨述べている。

 

 この受諾の背後には、第一次世界大戦において降伏した帝国の末路を意識していたであろう。

 例えば、当時のイギリス国王は従弟のロシア皇帝を助けようとしたが、助けることができなかった。

 当時の大英帝国すら敗戦国の君主の生命を保証できなかったのである。

 ならば、占領軍の保証に意味があったと言えるかどうか。

 

 さらに言えば、憲法遵守を自己規定とする昭和天皇の意地もあっただろう。

 人民が離反したが連合国の保証により元首になるということは一種の傀儡である。

 そして、連合国との取引に応じて天皇の地位を保っても、それは国民との連帯を断ち切ることになっただろうから。

「国民と天皇の信頼・敬愛によって~」と述べる天皇陛下にとって他国の傀儡になることは昭和天皇にとって屈辱以外の何物でもない。

 

 ここに、第一次世界大戦の敗戦国から学んだ昭和天皇の姿を見出すことができる。

 なお、終戦の際、昭和天皇は戦前の国定教科書に載っていない白村江の敗戦をことを口にされている。

 白鳥博士はこの敗戦を引き合いに出して「戦勝におごるなかれ」と述べたり、「我が国の教科書などの書籍には我が国の戦勝しか記載されていない」旨批判したりしている。

 このことから、昭和天皇は文部省管轄ではない白鳥博士の歴史観に基づく教育をしっかり受けていたということができる。

 

 

 以上が第4章のお話。

 歴史「に」学ぶ昭和天皇をイメージすることができた。

 

 次回は第5章を見ていく。

『昭和天皇の研究』を読む 5

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

5 第4章を読む_前半

 第4章のタイトルは天皇の教師たち(2)」

 この章では、憲法遵守」という昭和天皇の自己規定の形成に貢献した白鳥博士についてみていく。

 この点、前章までの杉浦博士の担当は「倫理」であるところ、白鳥博士の担当は「歴史」である。

 

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 本章は、帝国臣民やアメリカ人が天皇陛下をどう見ていたか、という点から話が始まる。

 というのも、アメリカでは「日本人は天皇絶対神と信じ、この絶対神が戦争の開始を命じたから戦争をはじめ、停戦を命じたから戦争をやめた」と考えている人間が少なくない、少なくなかったからである。

 

 本書では、半藤一利氏が雑誌の論文で引用している当時のアメリカ国民の世論調査が紹介されている。

 これによると、「日本国民にとって、天皇とは何か」という問いに対して、「唯一の神である」という答えが約44%になっている一方、昭和天皇の自己規定だった「英国流の国王」という答えは約6%しかない

 もちろん、こう信じるのはよその国の勝手であり、かつ、こちらが説明したとしてもその判断を変えないというのであれば「その判断をやめよ」ということもできない。

 ただし、昭和天皇がどう考えていたかは別問題である。

 

 さて、昭和天皇の自己規定には、「五箇条の御誓文」や「憲法」の遵守がある。

 とすると、問題となるのは、昭和天皇が『日本の神話や皇国史観歴史認識に対してどう考えていたか」ということになる。

 

 この点、杉浦博士は倫理の担当であるから、杉浦博士から見てもこの問いの答えは明らかにならない。

 というのも、杉浦博士は「三種の神器」をあっさり知・情・意の象徴として神話性を取り除いてしまったし、大嘗祭の説明の際も「稲作民族の農業祭」として扱っており、神話性の要素がなくなってしまっているからである

 また、杉浦博士が、「自分の教えるのは倫理であって、歴史を教えるのは白鳥博士である」と考えたこともあるかもしれない。

 

 この点、天皇は新聞記者からの質問に対して、「購入する本は『生物学と歴史』」と答えておられる。

 そして、生物への関心はよく知られている。

 ただし、この答えを考慮すれば、歴史に対する関心も薄くはなかったと考えられる。

 

 このことからも、昭和天皇自身の神代史解釈は重要な問題となる。

 そして、昭和天皇に歴史を教えたのが白鳥博士であったことから、この白鳥博士の「歴史観」を見ていくことになる。

 

 

 本章は、ここから白鳥博士の経歴と日本における歴史学を見ていくことになる。

 

 白鳥博士は1865年に生まれ、1890年に帝国大学文科大学史学科を卒業するや否や学習院の教授に任じられている。

 この背景には、日本には「歴史学」がなく、中国史は漢学の付属物、日本史は国学の付属物であったという事実がある

 著者(山本七平氏)は、この影響は後にもあり、戦前の日本では「神話を歴史として教えた」というよりも、「歴史を国学の付属物のように扱った」といったほうがより正確である、という。

 つまり、白鳥博士が卒業と同時に学習院の教授になった理由は、単に「歴史学を教えられる人間がいなかったから」となる。

 

 それゆえか、白鳥博士は「歴史学国学から独立した学問にすること」が生涯の目標だったと推測できる。

 もちろん、歴史学国学から独立させるということは、歴史学マルクス主義の付属物にすることを許容するものではない。

 そして、この白鳥博士を継承したのが後に登場する津田左右吉博士である。

 

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 ところで、白鳥博士が歴史学の教授となったころ、明治20年代の学習院は新しいエリート教授を教育するため、新しい教育の先端を走っていた

 というのも、当時の文部省は義務教育に主力を注がなければならなかったこともあり、文部省のカリキュラムとは関係がなかったからである。

 

 この点、時代が進んで昭和になり帝国大学が発展していくと、学習院と文部省のカリキュラムは同一になっていき、学習院の存在意義が問われるようになっていた。

 しかし、昭和天皇への御進講が始まった明治末・大正初期のころは学習院大学の意義は十分にあったと考えられる。

 

 ただ、白鳥博士が困っていたことに、当時において日本史も東洋史も存在しないため、これらの学問が時勢に先んじていたことにある。

 そもそも学問がないなら困るのも無理はない。

 ただ、これらのことから、昭和天皇は文部省教育を受けていないことがわかる

 

 

 では、白鳥博士は「神代史」をどうみていたか

 また、白鳥博士は自己の歴史認識をそのまま御進講することができたか

 まずは、前者から見ていく。

 

 この点、杉浦博士の場合と異なり、白鳥博士は『歴史御進講草案』といったものを残していない。

 そのため、白鳥史観を知るためには内外の学術雑誌に掲載された論文から把握するよりなく、その作業は容易ではない。

 本書では、津田博士と白鳥博士の見解は共通する部分があったものの、白鳥博士から見た場合、津田博士の見解にはやや演繹的に過ぎるところがあった旨述べられている。

 そうすると、白鳥博士は、漢学者がその専門家であった在来の東洋史に実証的なヨーロッパ史学のメスを加え、徹底して史料批判に基づく近代史学を日本に樹立しようとしたもの、ある意味思想中立的であった、と考えることができる

 なお、この態度は東洋史においては一貫しており、科学的見地を徹底させて研究を進めていった。

 

 なお、明治34年に白鳥博士はヨーロッパに留学し、37年の帰国と同時に東大教授を兼任、大正3年からの御進講で国史東洋史西洋史を担当することになる。

 そして、白鳥博士がヨーロッパの留学したころ、ヨーロッパでは聖書への高等批評、つまり、聖書に対する科学的分析が始まる。

 その結果、白鳥博士は聖書への高等批評の影響を受けたのかもしれない。

 

 もちろん、「聖書を資料別にばらばらにして研究すること、あるいは、その結果、聖書の引用元がエジプトやバビロニアにあることが判明すること」と「聖書が西洋の精神史において貴重な役割を演じたこと」は完全に両立する。

 そして、この考え方は白鳥・津田博士に共通するものである。

 もちろん、この発想に対する抵抗はヨーロッパにも日本にもあるとしても

 

 

 以上、本章の前半を見てきた。

 本書によると、明治以前には「日本には歴史学がなかった」という。

 現代を見ても「さもありなん」という気がする。

 あるいは、戦前が「歴史を国学の付属物のように扱った」なら、現代は「歴史を社会的格付(受験)の道具として扱った」とも言いうるかもしれない。

 いずれにせよ、あれである。

 

 ここから、白鳥博士の歴史観に移りたいわけだが、本章は1記事でメモにしようとすると結構な量になってしまう。

 そこで、本章については前半後半とに分け、後半は次回に譲ることにする。

『昭和天皇の研究』を読む 4

 今日はこのシリーズの続き。

 

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昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

4 第3章を読む

 第3章のタイトルは、「『三種の神器』の非神話化」

 この章では、前章に登場した杉浦博士の倫理学講義の内容について触れられている。

 

 

 本章は、杉浦博士が昭和天皇に対する教育のために作成した『倫理御進講草案』(以下「御進講」という。)の冒頭に書かれた趣旨の話から始まる。

 具体的に見ると、「御進講」の趣旨は次の3点にあるらしい。

 

(以下、本書の第3章、66ページから引用)

一、三種の神器に則り皇道を体し給うべきこと。

一、五箇条の御誓文を以て将来の標準と為し給うべきこと。

一、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給うべきこと

(引用終了)

 

 この表現を21世紀から見れば、「少々神がかり的で超国家主義くさい」と見えなくもないが、当時の基準から見れば常識の範囲と言える。

 

 では、杉浦博士は「三種の神器」についてどのように講義をしたか。

 御進講によると、冒頭で「『三種の神器』が神話に由来する」とサラッと述べ、この三種の神器を「『知仁勇(知情意)』の象徴である」と道徳に変換して説明するらしい

 神話の宗教性をあっさりと世俗化してしまうところに、日本教的なものを感じなくはない。

 

 また、この道徳についても「中国(儒教)や欧米(キリスト教)の倫理・道徳について説明しながら、日本について説明する」という形をとるらしい。

 

 この点、「三種の神器」という言葉は、戦後、生活水準の向上を示す象徴的家具を示すために用いられ、三種の神器を備えることが一人前の生活水準を満たすことのように扱われていた。

 杉浦博士は、「優秀な人」とは、三種の神器、つまり、「知・情・意を究めた人」と規定している

 その意味で見れば、杉浦博士は三種の神器を近代的な意味で象徴的に用いた最初の人、と言えなくもないかもしれない。

 

 

 話はここから「普通倫理」と「帝王倫理」に進む。

 杉浦博士は、「普通倫理」と「帝王倫理」には違う面もあるが、基礎的な部分は共通しているものと考えていたらしい。

 そして、御進講では、「知・仁・勇(知・情・意)」の象徴たる「三種の神器」が個人倫理の象徴として用いられている

 実に化学者らしいというべきか。

 

 

 以上が「三種の神器」についての話。

 では、「五箇条の御誓文」についてはどうか。

 

 この点、「五箇条の御誓文」の説明の前に、明治時代を生きた人々の天皇制に対して持っている感覚についての注釈が入る。

 つまり、現代人から見た場合、天皇制は長い間続いているという認識を持っている人が少なくないが、江戸時代を知っているの人間の場合、鎌倉幕府以前の天皇制と明治時代から始まった天皇制は分けて考える人は少なくなかった。

 そのため、新しい天皇制が樹立されたということは激烈な革命であり、「新しい天皇制の基本」について意識せざるを得なかった。

 

 その点は、杉浦博士を推挙した山川健次郎も変わりはない

 特に、山川健次郎会津出身で官軍と戦っており、俊英の彼の才能を惜しんだ人によって新潟に脱出して、その後の人生を歩んでおり、ある種の忘れることのできない体験を持っていたのだから。

 その点は、山本七平の世代が太平洋戦争の惨劇を忘れられないのと似ている。

 そして、山川健次郎は相当な国家主義者であったが、それは明治維新において同胞の血を背景に持つものであり、これと昭和の浮ついたナチスかぶれの超国家主義者と同一視するのはまずかろう。

 

 そして、前述した明治維新によって樹立された天皇制の基本」こそ「五箇条の御誓文ということになる。

 杉浦博士が徳川時代に生まれ明治維新を経験しているからであろうか、『御進講』の記述には一種の熱を帯びているらしい。

 そして、「御進講」の趣旨に従うなら、明治天皇が「五箇条の御誓文」を天地神明に誓ったことが明治からの天皇制の基礎となるらしい。

 とすれば、いわゆる「人間宣言」が五箇条の御誓文の再確認と再宣言であるという主張も納得できるだろう。

 

 なお、「御進講」には神話は出てこないらしい。

 また、「三種の神器」は前述のように非神話化されてしまっている。

 ただ、ここまでいくとやや冷たい感じがしないではない。

 

 

 本文は、ここから五箇条の御誓文の各論の解説に移る。

 興味深いものとして本書で取り上げられているのは第一条である。

 本書によると、「御進講」では第1条における「広く会議を興し、」の会議とは国会を含む様々な議会を指すと述べたうえ、「大小の政治、これら会議によりて議せらるるは、すなわちこの趣意の実行せられたるものなり」と述べられている。

 ちなみに、この「広く会議を興」すのをやめ、「軍閥専横」にすればそれは太平洋戦争前夜ということになるだろうか

 このように考えると、昭和天皇にとってこの時代の政治は「五箇条の御誓文」と明治憲法を否定することとなり、自己を否定されるようなものだったのだろう。

 

 本書によると、他に興味深いものとして第5条があるらしい。

 第5条は「智識を世界に求め」から始まる条文であるが、杉浦博士は「御進講」において「科学者」に関する章を設けて、ヨーロッパの科学者・技術者を紹介している

、ここでは、日本の科学はヨーロッパに劣っている点を指摘し、第5条を極力実施に移すように強調している。

 このようにみると、杉浦博士はイギリスで学んだ化学者なのだなあ、と考えさせられる。

 

 

 ところで、道徳を最高の力とみる杉浦博士が、道徳において日本の優秀性を認めつつも国力の基本たる科学の力の劣勢を認めるのは少々一貫性がないように見える。

 そこで、「御進講」において、杉浦博士は科学の振興もまた道徳の力の基礎となる旨述べる

 そして、彼はヨーロッパの科学者たるアイザック・ニュートン、ジョン・ダルトン、ユルバン・ジャン・ジョセフ・ルヴェリエを紹介し、さらには、ヨーロッパの技術者たるジェームズ・ワット、ジョージ・スチーブンソン、エドワード・ジェンナー、リチャード・アークライト、グリエルモ・マルコーニを紹介している。

 興味深いことは、マルコニー以外はイギリス人であること、杉浦博士が熱を込めて語っているのがダルトンであること、である。

 

 推測になるが、杉浦博士は将来のダルトンたらんと考えていたのかもしれない。

 また、杉浦博士は、科学上の発見や技術的な発明は継続的の努力の結晶とみていたようである

 そして、ワットの紹介では、スマイルズの『自助論』を引用して、科学の進歩と進歩した理論の実地応用の両輪により大いに国力を増進させるとともに人類の進歩に貢献した旨述べている

 さらに、日本の現状がイギリスなどのヨーロッパに劣ることを素直に認める。

 そして、前述のように、「五箇条の御誓文」の第5条の趣旨を実践しなければならないと結論付けている。

 

 

 なお、本書では、「御進講」の興味深い点として「詩歌」・「万葉集」・「絵画」の章がある一方で「文学者」の章がないことを取り上げている。

 特に、近代文学は日本・ヨーロッパのいずれも登場しない。

 また、「倫理」以外の科目を見ても、「国文」・「漢文」・「美術史」はあっても「西欧文学」や「近代文学」はない。

 これは昭和天皇が「私が文学を全く知らない」と述べたことと整合する。

 

 また、「御進講」を読むと、「修身」を思い出してうんざりしたり、堅苦しく感じたりするかもしれず、杉浦博士の風貌と相俟って堅苦しい授業をイメージするかもしれない。

 しかし、本書によるとそんなことはないらしい。

 というのも、書生道楽で中学生教育のベテランだった杉浦博士にとって、堅苦しい話を続けてしまえば生徒に飽きられてしまうことは熟知しており、堅苦しい話と面白い話が出てくる上、関係者の思い出によると杉浦博士はその風貌とは裏腹に明るく、かつ、自分も笑う人だったからである。

 

 

 以上が本章のお話。

 次章は、歴史を担当した白鳥博士についてみていく。

『昭和天皇の研究』を読む 3

 今日はこのシリーズの続き。

 

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昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

3 第2章を読む

 第2章のタイトルは天皇の教師たち(1)_倫理担当に杉浦重剛を起用した時代の意図」

 この章と次の章は昭和天皇を教えた杉浦博士について述べられている。

 

 

 まず、本章は昭和天皇の趣味の一つに生物学があったことから始まる。

 そして、昭和天皇に生物学好きに決定的な影響を与えたことが昭和天皇の御学問所で博物を担当した服部広太郎博士であることも。

 なお、著書では、この生物学研究への飽くなき関心・継続も昭和天皇の自己規定の一つととらえている。

 そして、その自己規定の形成に影響を与えたのが服部博士であることも。

 

 このような例を挙げてから、本書は「第1章で述べた『憲法遵守』という昭和天皇の自己規定を形成したのは誰か」という問いへ進む。

 そして、その形成に貢献したのは杉浦重剛博士白鳥書庫吉博士であると述べ、両名の紹介へと続くことになる。

 

ja.wikipedia.org

 

ja.wikipedia.org

 

 

 本書はここから杉浦重剛博士についての紹介へと続く。

 本に掲載されている写真を見ると、杉浦博士の風貌からは国士を連想させる。

 しかしながら、杉浦氏がイギリスに留学した化学者であり、写真の風貌と結びつきにくい。

 

 さて、杉浦博士は江戸時代に近江で生まれ、藩校で教育を受け、漢学と洋学を学ぶ。

 その後、ヨーロッパの言語・数学・自然科学などを学び、最終的には化学と英語を選択することになる。

 そして、アメリカを経由してロンドンに留学することになる。

 

 

 ここで、杉浦博士はアメリカやヨーロッパで大変な文化ショックを受ける。

 一般に、当時の留学生がこのようなショックを受けた場合、日本に失望して欧米絶対になるか、逆に、日本人意識が強くなったりするらしいが、杉浦博士は後者だったらしい。

 もちろん、前者だろうが後者だろうが心の持ちようが違うだけで、努力する点では変わらないとしても。

 

 ロンドンで、杉浦博士は農芸化学を学ぼうとするが、イギリスと日本の農業の違いからいわゆる化学に進み、大学で努力を重ねて主席にまで上り詰める

 また、当時のイギリスはヴィクトリア女王の時代であり、大英帝国の最盛期である。

 しかし、杉浦博士はヴィクトリア王朝から受けた影響を表に出さなかったし、必死で学んだ化学で身を立てようともしなかった。

 とはいえ、ヴィクトリア王朝の時代に化学を学んだ影響は「倫理御進講草案」に残っているらしい。

 

 例えば、実験を推奨する点とか。

 あるいは、ナポレオンが当時敵対していたイギリスの化学者に会ったり、自由にフランス内を旅行することを許したりした、とか。

 この点、杉浦博士はは化学やイギリスに関する話題を例の中で自然に述べている

 他方、ドイツやイタリアについては杉浦博士の話にはほとんど登場していない。

 ヴィリーことヴィルヘルム二世を反面教師として紹介する程度である。

 

 なお、ヴィルヘルム二世は第一次世界大戦末期に退位、亡命した。

 昭和天皇が太平洋戦争後に取った行動とは対照的である。

 

 また、昭和天皇自体、イギリス・フランスに愛着を持ち、ドイツやイタリアをよく思っていなかった節がある。

 というのも、ナチス・ドイツがマジノラインを突破し、イギリスをダンケルクから撤退させ、フランスを降伏した段階で「独伊が如き国家と、、、」というような言葉を述べているからである。

 この背後にはイギリス王のジョージ五世への親愛感、フランス語の選択といったものも関連してはいるだろうが、杉浦博士のたとえ話も影響があったと言える。

 

 このようにみると、イギリスと化学は杉浦博士自身に十二分に根付いていたようである。

 法学者の穂積陳重のようにイギリスかぶれにもならなければ、「日本化学の祖」にもならず、一種の出世し損ねた感じがあるとしても。

 

 なお、杉浦博士が「日本化学の祖」にならなかった理由は彼の病気にあった

 杉浦博士は完璧主義的なところがあって猛勉強したが、その代償に健康を害することになる。

 その結果、杉浦博士は帰国を余儀なくされ、その後の紆余曲折を経て、日本中学校の校長となって教育の言論の世界に身を置くことになる。

 そして、杉浦博士は教育者としての才能を開花させていくことになる

 ただ、明治の終わるころ、杉浦博士は忘れられた存在になっていた。

 

 

 このような杉浦博士を昭和天皇の教師の一人に選んだのが、東大総長や文部大臣を経験した浜尾新である。

 そして、浜尾は大学教授が務まる中学教師で経験豊かな杉浦博士に白羽の矢を立てることになる。

 もちろん、これは浜尾一人の独断ではなく、山川健次郎が杉浦博士の著書などを審査している。

 また、この背後には、昭和天皇に対する期待も影響している。

 昭和天皇無政府主義者や神がかり的超国家主義者になってはまずいだろうから。

 

 

 では、杉浦博士はどのような思想を持っていたか。

 この点、杉浦博士はヨーロッパの近代思想を学んでいないため、「何々派」といった言葉で杉浦博士の思想を要約することはできない。

 しかし、杉浦博士の『倫理御進講草案』などを見てみると、彼の思想は「日本的儒教」と「ヴィクトリア朝下のイギリス思想」の混合形と考えることができるらしい。

 

 この点、当時の日本人の留学生で進化論の影響を受けなかった者はいない。

 例えば、法学者の穂積八束はスペンサーの社会進化論的考え方の信奉者であり、彼自身は、「個人の淘汰により民族は優秀な適者だけになり、その結果、世界との民族競争にも勝利する」という発想を持っていた。

 これはこれで危ない発想だが。

 

 ところで、この場合に問題となるのが、「『適者』はいかなる要素を持つか」という点である。

 この点、杉浦博士は「力とは道徳である」という一種の道徳至上主義的発想を持っていた

 この背後には、「徳」に絶対的価値を持つ儒教だけではなく、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』などに見られる道徳的退廃が民族を滅亡に追い込むといった発想にも影響を受けている。

 

 なお、この道徳至上主義的発想は明治時代に共通してみられる。

 例えば、内村鑑三は道徳的退廃が衰亡につながると考えていた。

 さらに言えば、尊王思想を形成していった学者の一人栗山潜鋒も『保建大記』において天皇(当時の後白河天皇)の道徳的退廃が武家政権の誕生へとつながった旨述べている。

 この『保建大記』は一応『倫理御進講草案』にも登場する。

 

 また、杉浦博士は「日本は道徳的な力において最高になることで世界の中心的勢力になるべき」とも考えていたらしい。

 この発想は先の『保建大記』の発想と似ている。

 というのも、『保建大記』では、朝廷は「失徳」によって政権を失ったのだから、政権を取り戻すためには「徳」を極める必要がある、と述べられているからである。

 その結果、杉浦博士は天皇は模範的な道徳的人間になるべきで、そうならなければ日本は衰亡に向かう」と考えていたと推測できる。

 また、杉浦博士はベンサムの「最大多数の最大幸福」のことを「仁」と言い換えている

 儒教的思想と近代思想を組み合わせた興味深い主張である。

 

 

 では、杉浦博士の昭和天皇への影響はどのようなものであったか。

 その結果は、さまざまな機会に昭和天皇がなされたお言葉などから見ることができる。

 なお、昭和天皇東宮学問所はイギリスに留学した者が多かった。

 当時は第一次世界大戦前夜であり、時勢も影響したが、昭和天皇のイギリスへの親近感はこのようなところにも影響を受けているのかもしれない。

 

 

 以上が本章のお話。

 次回は、杉浦博士が神話と科学に対してどのように考えていたかを具体的に見ていく。

プログラミングから縁が遠くなる

 最近、感じる。

 プログラミングとの縁が遠くなったなあ、と。

 

 

 この点、2022年7月から私の生活は変わった。

 そして、2023年10月から私の生活はそれまでと比べてさらに大きく変わった

 

 この生活環境の変化によって、「社会生活上の要請により学ぶ必要のあるもの」は大きく変化した上、範囲も広くなった。

 例えば、このブログに登場しているAML/CFTことマネー・ローンダリング、テロ資金供与、及び拡散金融対策」も「生活環境の変化によって学ぶ必要のあるもの」になった一つである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 また、現在の私は「これまで小室直樹先生や山本七平氏の書籍から学んだこと」を現実で確認している状況にある

 そのため、小室先生や山本七平氏の書籍を見直したいと考えているし、新たに読みたいと考えている書籍もある。

 

 したがって、「これらの大きな変化の中ではプログラミングの勉強を続けることは難しい」と言ってしまえばそれまでである。

 そして、それ自体は間違っていない。

 

 

 しかし、この「社会生活上の要請により学ぶ必要のあるもの」の一つにDXことデジタル・トランスフォーメーションがある。

 というのも、色々なことを実行していくためには、IT技術やAI技術を使い倒す必要があるのだから。

 

 そして、「こういうシステムがあるといいなあ」と考えた場合、模型程度のものを自分で組み立てる必要があるところ、HTML・CSS・JAVASCRIPT・RUBY・SQL・RAILSの勉強が中途半端な私はシステムの模型を作るための武器を持っていない

 

 また、社会生活上の要請によりデータ分析をしたいと考えることもある

 この点、より詳細かつ大規模なことをやる段階に移行すれば、分析を他人にぶん投げることができるが、「差し当たってどんな感じか」ということで調べる場合、自分の手を動かす必要がある。

 しかし、PYTHONや機械学習の勉強が中途半端な私はデータ分析のための武器を身に着けていない。

 

 

 どうしたものだろうか。

 この点、私はシステム設計のための技術とデータ分析に関する技術の両方が欲しいといった身に過ぎた望みを持っている。

 しかし、現在の私はプログラミングから縁が遠くなっている上、他に学ぶべきものがある。

 とすれば、両方やることは不可能に近いし、強行すれば体調を崩して2年前の7月以前の状況に戻りかねない。

 

 ならば、片方だけでも行うべきか。

 この点、「21世紀以前の統計学」の範疇でいいならば、多少のデータ分析は可能と言えなくもない。

 そのため、システム(アプリ)関係を優先するという選択肢はありえない話ではない

 無理のない選択肢を採るならばこうなるだろう。

 

 

 しかし、現状を考慮すれば、「単に『やる』と決めただけ」ではプログラミングとの縁は近くならない

 また、「資格を取る」という外部装置に頼るとしても、これまでの資格取得の大半が一夜漬けや二夜漬けで終わってしまった現状を考えれば、縁を近くするという目的に対して資格取得は役に立たない。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 さらに、一時的に取り組んだpaizaのプログラミングスキルチェックという手段も、システム設計といった具体的な目的との関係から見れば、その関連性は抽象的である(抽象的な関連性はあるため合理的関連性自体は否定されない、ただし、実質的関連性はない)。

 プログラミング能力を磨くだけであれば、プログラミングスキルを身に着けるだけならば、paizaのプログラミングスキルチェックは合理的な手段たりうるのだが。

 

paiza.jp

 

 そこで、今後、プログラミングとの縁を近くするためには、別の外部装置が必要となる

 学習結果をこのブログにまとめる、「具体的に作るべきもの(作りたいもの)」を考え手を動かして作ってみる、とか

 しかし、現時点で「作るべきもの、作りたいもの」は具体化されていない。

 そして、具体的に作るべきものが決まっていないならば、何を学習すればいいかが漠然としてしまい、実効性が薄くなってしまう。

 それくらいなら、漫然とpaizaのプログラミングスキルチェックを続けていたほうがいいかもしれない。

 paizaのプログラミングスキルチェックを続ける場合、さらなるレベルアップのためにはいわゆる「データ構造」について学ばなければならないところ、それを学ぶなら新規の能力を身に着けたといいうるのだから。

 

 

 それから、私には他に学ばないといけないものがある。

 この「学ばないといけないもの」との関係で、私は今年と来年に約5個の資格を取得する予定である

 この点、5個というとたくさんあるように見えるが、これらの資格の取得は一夜漬けないし二夜漬けで片付くだろうとは考えている。

 もっとも、これらの資格取得がプログラミングとの縁を近くすることはないだろう。

 

 

 以上、いろいろ考えたが、学ぶべきことが他にもたくさんある現状、プログラミングに関する勉強が進む見込みは高くはない。

 ならば、、、できる味方を探す方向で考えるべきか。

 それもそれで大変な気がするか。

『歎異抄』を読む

歎異抄』という文章がある。

 

ja.wikipedia.org

 

 私はかなり前に『歎異抄』を図書館で借りて読んだ。

 ただ、最近、次の書籍と縁があり、『歎異抄』を再び読むことになった。

 

 

 

 さて、この『歎異抄』の著者は親鸞の弟子の唯円という方であると言われている。

 そして、この『歎異抄』を発見した蓮如この『歎異抄』を浄土真宗の聖教とする旨自らの写本の奥書に書いている。

 

(以下、蓮如の『歎異抄』の写本に書かれている「奥書」を私釈三国志風に意訳したもの、以下の訳はあくまで「意訳」なので注意すること)

 この歎異抄は素晴らしい。

 これを浄土真宗の重要な聖教にするぞ。

 ただ、熱心でない輩に安易に見せてはならん。

(奥書の意訳終了)

 

 この点、蓮如浄土真宗中興の祖と言われている。

 この蓮如が『歎異抄』を聖教の一つに選んだということは、蓮如はこの歎異抄』に浄土真宗の奥義が示されていると考えたのだろう。

 

 

 ところで、この歎異抄には私にとって興味深い表現がたくさんある。

 例えば、第二条の部分である。

 以下、意訳してみる。

 

(以下、『歎異抄』の第二条を私釈三国志風に意訳したもの、強調は私の手による)

 あんたらが東国から必死に京都までやってきたのは、極楽往生を目指すための道や奥義を私から教わりたいからであろう。

 ご苦労なこった。

 しかし、私が念仏以外の往生の道やありがたい教えなどを知っていると考えているなら、それはとんでもない誤解だ

 もし、そういうことが知りたいなら、叡山や奈良にたくさんいるだろう立派なお坊さんに会って教えてもらえ。

 そもそも、私(親鸞)は「ただ念仏して、阿弥陀仏の慈悲を乞うべし」という法然師匠の教えを信じているだけで、他には何も考えてない。

 だから、「現実に、念仏によって浄土へ行けるのか、地獄に落ちるのか」と問われても、私は「知らん」としか言いようがない。

 あと、法然師匠が私を地獄に落とすために念仏の道を勧めたのだとしても、私は後悔する気はない。

 というのも、法然師匠に騙されて後悔するためには、私が有能であって念仏以外の道を選べば私が仏になれるという前提が必要になるところ、煩悩に塗れた私は無能の極みであって、どんな道を選んでも仏になれず地獄に落ちることは確定的に明らかであるからだ

 ただ、阿弥陀仏が庶民を救おうとしていることを信じられるなら、仏陀の説教も絵空事ではないし、善導尊師の説も法然師匠の説も絵空事ではないだろう。

 その意味で、法然師匠から教わったことを信じる私の発言も完全に無意味、ということはないだろう。

 私の信仰とはこんなもんだ。

 あとは、皆さんが自由に決めなされ。

(第二条の意訳終了)

 

 当時は鎌倉時代

 東国から親鸞のいる京都へ行くことは容易なことではない。

 そうやって苦労して京都に来た親鸞を慕う人たちに対して、親鸞は自分の無能性と自らの信仰を告白する

 つくづくすごいよな、と感じる次第である。

 

 

 このように、『歎異抄』には興味深い表現がいくつかある。

 例えば、第9条にはこんなやりとりがある。

 

(以下、『歎異抄』の第9条の一部を私釈三国志風に意訳したもの、強調は私の手による)

唯円「最近、念仏をしていても心が動かない。浄土へ行きたいとも思えない。いったいどうしたことだろう」

親鸞唯円よ、お前もか。私もそうなんだよ

(第9条の一部の意訳終了)

 

 人に念仏を勧めてきた人間が、念仏を唱えても心が動かない、って・・・。

 まあ、「心が動かない(ときめかない)」ということは「煩悩がない」という評価もできないではないので、その意味では仏になれる可能性が高まっていると感じなくはない。

 

 あるいは、第13条に登場する親鸞唯円のやり取りも興味深い。

 

(以下、『歎異抄』の第13条の最初の辺を私釈三国志風に意訳したもの、強調は私の手による)

親鸞唯円よ、お前は私の言葉を信じられるか」

唯円「もちろんでござる」

親鸞「では、お前はこれから私が言うことを実行できるか」

唯円「師匠、心配ご無用にござる」

親鸞「そうか。では、外を出て1000人ぶっ殺してこい。そうすれば、浄土へ行けるぞ」

唯円「師匠、私の負けでござる。1000人どころか1人すら殺すことができそうにありません」

親鸞「だったら、何故『心配ご無用』などといったのだ」

唯円「・・・・・」

親鸞「これで分かっただろう。人間の意志の力などたかが知れている。逆に、環境によっては、1000人ぶっ殺すことだってできるだろう」

(第13条の一部の意訳終了)

 

 結構怖いことを言っている

 ただ、『歎異抄』を見ていると、親鸞聖人が感じている「人間の無能さ・無力さ」がよく示されている感じがする。

 いささか適切性を欠く表現になるが、唯円の『歎異抄』とパウロの『ローマ人への手紙』に似たようなものを感じなくもない

 まあ、感じるだけだが。

 

 

 さて、この『歎異抄』、以前『痩せ我慢の説』を意訳したように、こちらも意訳してみようかと考えている。

 どこまで続けられるかは別として。

『聖書』を読み始める

 約1年前のことだっただろうか、「アマゾン・アンリミテッドで『聖書』が読める」ことを知った私はいわゆる「聖書」を読むことにした。

 これまで具体的に読んだ「聖書」、現在読んでいる「聖書」は次のとおりである。

 

 

 

 

 現時点で読み終えているのは、旧約聖書』と『新約聖書』の2点である。

 そして、旧約聖書続編』は現在読んでいるところである。

 まあ、読むといってもざっと見ているだけで、精読からは程遠い状況にある。

 

 

 ところで、私は啓典宗教のカノン(正典)に触れるために、イスラム教のクルアーンの解説書イスラム教ではアラビア語で書かれていないものはクルアーンではない)を読んだことがあった。

 

 

 また、故・山本七平氏や故・小室直樹氏などの書籍を通じて、啓典宗教(ユダヤ教キリスト教イスラム教)についてみてきた。

 さらに、代数学・近代科学・資本主義・民主主義の背景にキリスト教があることもみてきた

 これらの過程で読んだ書籍を挙げていくとざっと次のようになる。

 なお、読んだ書籍が旧版であっても、リンク先は新版のものになっている。

 

(以下、故・小室直樹氏によるもの)

 

 

 

 

(以下、故・山本七平氏によるもの)

 

 

 

 

(その他)

 

 このように、私はこれまで近代(資本主義・立憲主義・民主主義)を知るために様々な書籍を読んだ。

 しかし、「聖書」を直接見たことはなかった。

 そこで、一度、原典を見ようと考え、読み始めたのである。

 クルアーンと異なり「『聖書』は日本語訳だからダメ」ということがないので。

 

 

 以下、全部を読み終えたわけではないが、「聖書」を読んだ感想をメモに残す。

 最初は『旧約聖書』から。

 

 まず、『旧約聖書』のレビ記において「わたしは主である」「わたしはあなたたちの神、主である」という部分が目についた。

 正直、この強調はすごいと感じた。

 それくらい強調しなければならなかったということなのだろうか。

 

 次に、『旧約聖書』のレビ記』などを見ることで律法の細かさを直接見ることができた。

 その意味で、律法は神(主)との契約なのだな、ということも。

 この点、律法の細かい点は小室先生の書籍を読んでいたため知っていた。

 しかし、『レビ記』などを見て、その具体的な細かさを知ることができたのは大きな収穫であった。

 日本教徒がこの細かさを見てどのような感想を抱くか、それは推して知るべしである。

 

 さらに、士師記』・『列王記(上下)』・『歴代誌(上下)』において「主の目から見て悪とされる行為を(行い)」という表現がたくさん目についた。

 この「主の目から見て悪とされる行為」というのは「異教の神を拝む行為」を指す。

 もちろん、これは『出エジプト記』にある十戒に抵触する。

 その結果、古代イスラエルの民がバビロン捕囚の憂き目にあったという点はこれまでの書籍で見てきた通りである。

 しかし、バビロニアネブカドネザル大王を「我が僕」というのは・・・。

  

 次に、『新約聖書』を見て目についたことなどを。

 まず、イエス・キリストの生涯について4人の著者による記録があることを初めて知った

 当然だが、具体的にその4つを読んだのも初めてである。

 

 それから、パウロの書簡(例えば、『ローマ人への手紙』など)についても初めて見ることができた

 小室先生の書籍で述べていたことの意味をより理解することができ、これは大きな収穫になった。

 

 なお、私は旧約聖書の続編を読んでいる。

 ここには、アレクサンダー大王以後の歴史について書かれた『マカバイ記』などが掲載されており、歴史を知るうえで非常に参考になった。

 あと、漠然とした言い方になってしまうが、「聖書」の力というのを感じることができた。

 

 

 以上、「聖書」に触れた感想についてメモを残してみた。

 ただ、相当の分量があり、最初に読んだ部分は結構忘れてしまっている。

 そのため、定期的に読み直そうかな、と考える次第である。

 もちろん、分量が膨大であり、簡単に読み直せるわけではないとしても。